上杉謙信の養子たち(2)〜その他の人々
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◆謎多き人物・上条政繁(生没年不詳)
正確な生年は不詳ですが、景勝・景虎よりはやや(10歳くらい?)年長だったようです。
政繁は能登守護の畠山氏出身の人物で、人質として越後に来て謙信の養子となり、上杉氏の一門である上条(じょうじょう)家を継いで、謙信の姪(景勝の姉妹/景虎に嫁いだ女性とは別人)を娶りました(*1)。後に出家して宜順と号しています。
・・・というのが彼の経歴の定説ですが、越後に来た経緯や謙信の養子になった時期については諸説あり、中には政繁の謙信養子説を疑問視する見方もあるようです。また彼は、近年まで後述の畠山義春と同一人物とされていた(政繁が改名し義春と名乗ったと思われていた)ため、政繁自身の事蹟がわかりにくくなっている部分もあるのです。
天正3年(1575)の上杉家臣団の構成を記した「御軍役帳」では、景勝・山浦国清(後述)・上杉景信(古志長尾家当主)に継いで、政繁は第四位に名を連ねており(景虎は記載無し)、一門中で重く見られていた事がわかります。
天正6年に起こった御館の乱では、景勝方に味方し武功を挙げました。乱後も景勝の重臣として仕えましたが、天正14年(1586)7月に突如、妻子を置いて単身出奔してしまいました。理由については、信濃国の統治を巡って景勝と対立したとも、景勝側近として台頭してきた直江兼続との間に軋轢が生じた結果とも言われています。
その後政繁は上方に出て秀吉に仕えたと伝えられていますが、これ以降の記録は前述の通り畠山義春と混同されている可能性が高いため、政繁がいつまで活動・存命していたかははっきりわかっていません。
◆謎多き人物・上条政繁(生没年不詳)
正確な生年は不詳ですが、景勝・景虎よりはやや(10歳くらい?)年長だったようです。
政繁は能登守護の畠山氏出身の人物で、人質として越後に来て謙信の養子となり、上杉氏の一門である上条(じょうじょう)家を継いで、謙信の姪(景勝の姉妹/景虎に嫁いだ女性とは別人)を娶りました(*1)。後に出家して宜順と号しています。
・・・というのが彼の経歴の定説ですが、越後に来た経緯や謙信の養子になった時期については諸説あり、中には政繁の謙信養子説を疑問視する見方もあるようです。また彼は、近年まで後述の畠山義春と同一人物とされていた(政繁が改名し義春と名乗ったと思われていた)ため、政繁自身の事蹟がわかりにくくなっている部分もあるのです。
天正3年(1575)の上杉家臣団の構成を記した「御軍役帳」では、景勝・山浦国清(後述)・上杉景信(古志長尾家当主)に継いで、政繁は第四位に名を連ねており(景虎は記載無し)、一門中で重く見られていた事がわかります。
天正6年に起こった御館の乱では、景勝方に味方し武功を挙げました。乱後も景勝の重臣として仕えましたが、天正14年(1586)7月に突如、妻子を置いて単身出奔してしまいました。理由については、信濃国の統治を巡って景勝と対立したとも、景勝側近として台頭してきた直江兼続との間に軋轢が生じた結果とも言われています。
その後政繁は上方に出て秀吉に仕えたと伝えられていますが、これ以降の記録は前述の通り畠山義春と混同されている可能性が高いため、政繁がいつまで活動・存命していたかははっきりわかっていません。
◆政繁の養子・畠山義春(1563?〜1643?)
義春は上条政繁と同じく、能登畠山家の一族である人物です。実父については、畠山義続(?〜1594)もしくは彼の孫である義隆(?〜1576)の二つの説があるようです。
義続の代から内紛が絶えず勢力が衰退していた畠山氏は、天正5年(1577)9月に謙信により能登七尾城を攻め落とされ滅亡しました。義春は一旦政繁に預けられた後、謙信の養子となって弥五郎と名乗り、謙信の死後に改めて政繁の養子となったのではと推測されています。
天正12年(1584)、景勝が羽柴秀吉と修交を結んだ際に、三男の義真(景勝の養子となっていた)を人質として豊臣家へ送ることが決まると(*2)、義春は証人として上方に赴いています。しかし天正14年に養父の政繁が上杉家を出奔すると、やはり居辛くなったのか、はたまた家中の権力争いに巻き込まれたのか、数年後に義春自身も出奔してしまいました。
その後はおそらく政繁を頼ったと思われ、秀吉の直臣となって畿内に領地を与えられています。そして関ヶ原の合戦では東軍に属し、後に江戸へ出て幕府に仕えるようになりました。姓を畠山に復して上杉氏とも和解し、寛永20年(1643)81歳の長寿を全うしました(寛永2年(1625)に没した説もあり)。
義春の長男・景広は父の出奔後も上杉に残って景勝に仕え、次男の長員は上条上杉姓を、三男の義真は畠山姓をそれぞれ名乗り、高家旗本として幕末まで家系は続いたそうです。
◆村上氏の末裔・山浦国清(1546〜?)
天文22年(1553)、武田信玄に攻められ窮地に陥った北信濃の武将・村上義清は、上杉謙信を頼って越後に落ち延び、息子の国清と共に謙信に仕えることとなりました。
そして国清は謙信の猶子に迎えられ、さらには当時断絶していた上杉氏の一門・山浦上杉家の相続を許されて山浦国清と名乗り、外交や合戦に活躍しました。前述の「御軍役帳」では一門衆の第二位に列され250人を負担しています。謙信が名門の血筋に敬意を払った部分もあるかもですが(村上氏の祖は河内源氏)、国清自身の才覚も認められていたのではと思います。
御館の乱では景勝方について戦い、上杉景信を討ち取るなどの功績を挙げ、翌年景勝から偏諱を与えられ景国と改名しました。天正10年(1582)には北信濃四郡の代官として海津城主となり、亡き父の旧領の一部を回復しますが、翌年一族の者が徳川家康に内通した事件が発覚。景国は越後に召還され、以降上杉家中での地位は低下していったようです。
慶長3年(1598)、景勝の会津転封に従い塩之森城代となったのを最後に、景国の消息は記録から途絶え、彼がその後どうなったのかは不明です。武将としての信濃村上氏も実質的にこれで断絶しましたが、江戸時代に景国の子孫と称し村上氏の後裔を名乗った人々がいたそうです。
*参考サイト=元くらのすけ屋敷敷地/村上氏
*1=景勝の姉妹が嫁いだのは、政繁ではなく義春の方という説もあり。
また義春の3人の息子たちも、全員もしくは何人かは政繁の実子だった可能性もあります。
*2=景勝の養子&秀吉への人質となったのは、長男の景広だったという説もあり。
義春は上条政繁と同じく、能登畠山家の一族である人物です。実父については、畠山義続(?〜1594)もしくは彼の孫である義隆(?〜1576)の二つの説があるようです。
義続の代から内紛が絶えず勢力が衰退していた畠山氏は、天正5年(1577)9月に謙信により能登七尾城を攻め落とされ滅亡しました。義春は一旦政繁に預けられた後、謙信の養子となって弥五郎と名乗り、謙信の死後に改めて政繁の養子となったのではと推測されています。
天正12年(1584)、景勝が羽柴秀吉と修交を結んだ際に、三男の義真(景勝の養子となっていた)を人質として豊臣家へ送ることが決まると(*2)、義春は証人として上方に赴いています。しかし天正14年に養父の政繁が上杉家を出奔すると、やはり居辛くなったのか、はたまた家中の権力争いに巻き込まれたのか、数年後に義春自身も出奔してしまいました。
その後はおそらく政繁を頼ったと思われ、秀吉の直臣となって畿内に領地を与えられています。そして関ヶ原の合戦では東軍に属し、後に江戸へ出て幕府に仕えるようになりました。姓を畠山に復して上杉氏とも和解し、寛永20年(1643)81歳の長寿を全うしました(寛永2年(1625)に没した説もあり)。
義春の長男・景広は父の出奔後も上杉に残って景勝に仕え、次男の長員は上条上杉姓を、三男の義真は畠山姓をそれぞれ名乗り、高家旗本として幕末まで家系は続いたそうです。
◆村上氏の末裔・山浦国清(1546〜?)
天文22年(1553)、武田信玄に攻められ窮地に陥った北信濃の武将・村上義清は、上杉謙信を頼って越後に落ち延び、息子の国清と共に謙信に仕えることとなりました。
そして国清は謙信の猶子に迎えられ、さらには当時断絶していた上杉氏の一門・山浦上杉家の相続を許されて山浦国清と名乗り、外交や合戦に活躍しました。前述の「御軍役帳」では一門衆の第二位に列され250人を負担しています。謙信が名門の血筋に敬意を払った部分もあるかもですが(村上氏の祖は河内源氏)、国清自身の才覚も認められていたのではと思います。
御館の乱では景勝方について戦い、上杉景信を討ち取るなどの功績を挙げ、翌年景勝から偏諱を与えられ景国と改名しました。天正10年(1582)には北信濃四郡の代官として海津城主となり、亡き父の旧領の一部を回復しますが、翌年一族の者が徳川家康に内通した事件が発覚。景国は越後に召還され、以降上杉家中での地位は低下していったようです。
慶長3年(1598)、景勝の会津転封に従い塩之森城代となったのを最後に、景国の消息は記録から途絶え、彼がその後どうなったのかは不明です。武将としての信濃村上氏も実質的にこれで断絶しましたが、江戸時代に景国の子孫と称し村上氏の後裔を名乗った人々がいたそうです。
*参考サイト=元くらのすけ屋敷敷地/村上氏
*1=景勝の姉妹が嫁いだのは、政繁ではなく義春の方という説もあり。
また義春の3人の息子たちも、全員もしくは何人かは政繁の実子だった可能性もあります。
*2=景勝の養子&秀吉への人質となったのは、長男の景広だったという説もあり。