伝説の軍師の実像
山梨日日新聞「「山本菅助」への信玄書状を発見」
戦国時代の武将武田信玄(晴信)に仕えた「軍師・山本勘助」が実在したか注目される中、信玄が家臣山本菅助にあてた書状が、群馬県安中市の民家で見つかった。山梨県立博物館の調査によると、信玄が菅助に褒美を与えたり、家臣の見舞いを命じた内容の2通で、信玄の花押(署名)が入り、「山本菅助」と記されていた。これまで菅助の存在を示す史料は1969年に北海道で見つかった、信玄が奥信濃の市河氏にあてた書状「市河文書」だけだった。県立博物館は「『山本菅助』という名の人物がいたことは間違いなく、菅助の人物像や功績などを研究する上で貴重な史料」としている。
名前の字が異なる「山本勘助」は、江戸時代の軍事書「甲陽軍鑑」などに有能な軍師として登場するが、実在を裏付ける学術的な史料はなく、一家臣としての菅助の存在を示す唯一の史料が市河文書だった。今回見つかった文書には市河文書と同じ「菅助」の名が記され、紙の材質や文書の書式などからも信玄が活躍した16世紀後半のものでほぼ間違いないという。
新たに見つかった文書を所蔵していたのは、安中市原市在住の真下(ましも)正貴さん。昨年5月、蔵の整理中に「信玄公御證文」と書かれた漆塗りの木箱を発見。中には5通の文書が年代順に張られた巻物1本が入っていた。
このうち信玄が菅助にあてた書状は2通。業績を褒め恩賞を与える内容と、重篤な状態にある家臣「小山田(出羽守信有)」の見舞いを命じる内容で、1通は「菅介」の字が使われていた。
武田家が菅助あてに出した朱印状1通では、菅助に足りない武具の支度を指示するなど、信玄が家臣として信頼していた様子がうかがえる。
残る2通は、武田家が菅助の後継者といわれる「山本十左衛門尉」に軍役を命じた朱印状と、徳川家康の次男「結城秀康」が菅助の子孫と思われる「山本平一」にあてた見舞いの礼状だった。この2通からは菅助の子孫の存在も明確になった。
調査を担当した県立博物館学芸員の海老沼真治さんは「菅助は上野国(現群馬県)から東信濃の動静に精通しており、高崎藩士の中に山本菅助の子孫を名乗る人物がいたことなどから、菅助と群馬は深く関係していたと考えられる。多くの研究者の意見を聞きながら、1通ごとに史実と照らし合わせてより詳しく研究したい」と話している。(後略)
しかしどういう訳か彼の活躍ぶりは、武田氏の軍学書である「甲陽軍艦」にしか記されておらず、その他の同時代史料には勘助の名前すら全く見いだせません。明治時代以降、「甲陽軍艦」の史料価値に否定的な説が高まると共に、山本勘助の実在自体を疑問視する見方が主流となっていました。
その後、上記記事にある「市河文書」の中の、弘治3年(1557)付の信玄が発給した感状に「詳細は山本管助が口上で申し上げる」と明記されている事が発見されました。山本菅助なる人物の存在は確認されたものの、これだけで「甲陽軍艦」に記されている「勘助」と結び付いているとはとても断言できず、彼の人物像は相変わらず謎に包まれたままでした。
今回見つかった書状も、「菅助」がいわゆる軍師的な働きをしていた事を示しているものではありません。武具の支度やら重臣の見舞いを命じられている点から、どちらかと言えば事務方官僚としての役割の方が大きい人物だったのかなという印象を持ちました。
信玄が菅助に見舞いに行くよう命じている小山田出羽守信有は、天文19年(1550)9月の砥石城攻めで重傷を負い、それがもとで天文21年1月に死去したとされているので、この一通はその1年余りの間に出された書状なのでしょうね。
また勘助には勘蔵信供という嫡男がおり、長篠の戦いで討ち死にしたと伝わっているそうです(設楽原にはお墓もあるそうな)。見つかった朱印状の「山本十左衛門尉」は、果たして勘蔵と同一人物に当たるのかというのも興味深いと思います。
まだまだ検証が必要な段階ではあるものの、「山本菅助」の実像が今後少しでも判明していくといいですね。
なお、現代に至るまでの山本勘助の研究について「山本勘助は実在したか?〜城と古戦場〜」様に詳しく紹介されていますので、ぜひお読み下さい。
*関連記事=・偽書か真書か?
Comment
2009.05.06 Wed 14:03 | 提案「全国清掃デー」
こんにちは。
テンプレートを替えられたんですね。モノトーン基調でカッコいいです。シアン色が良いポイントになっています。
山本勘助への書状とは随分画期的な史料が発見されましたね。
結構大きな発見だと思うのでうが、テレビでは関東のローカルニュースでも取り上げてなかったみたいです。NHKとか好きそうなネタなんですがね。大河でも放送した誼もあるだろうし…。
これで疑問視されていた勘助の実在の有無が「有」の方に大きく傾いたのではないでしょうか。
そこで次に注目されるのは勘助の職務。武田家でどういう役割だったのかということになります。端的にいうと甲陽軍鑑にあるような軍師だっとのか。市川文書にあるような使い番、軍使だったのかということですが。影千代さんが文末で紹介していただいた「山本勘助は実在したか?〜城と古戦場〜」の中に記載されている小和田哲男氏の「軍使がいつしか軍師になってしまったのではなかろうか」というお話はとても共感できるものがあります。
さて、勘助といえば私は近頃、電車の中でとかにつらつら考えていたのですが「啄木鳥戦法」とは果たして存在したのでしょううか?
「啄木鳥戦法」。とはご存知の通り、妻女山に陣取った上杉軍に別動隊が背後から夜襲をかけ、あわてて山から降りた敵を味方の本隊が川中島で待ち受けるという戦法ですが、この戦法は冷静に考えればずいぶん楽観的な作戦です。大前提の別動隊の奇襲が成功しなければどうにもならないわけですが、自軍の兵力を分散すること、山の上に攻め上らなくてはならないことを考慮するとあまり良い策とは言えません。さらにいうと上杉方は敵地の山頂に篭っているわけで兵糧、武器の補充を考えれば長期戦は不利。武田方からわざわざ仕掛ける必要が在ったのか疑問です。
ただ、何故だか上杉勢は妻女山を降り、何故だか武田勢は海津城を出て、両軍は川中島で遭遇したのは事実ですから、どういう意図、経緯だったのか? これからの研究や新たな史料の発見で解明されるのを楽しみにしています。
それにしても、今回の勘助への書状をもっていたお家は随分とのん気ですね。「信玄公御證文」と書かれた漆塗りの木箱なんて物があったら、大ごとですよね?代々語り継ぐとかしないんですかね?明智光秀や石田三成の文書なら別ですが…。
あの評判の悪い定額給付金。各自治体から配布される申込書?とともに、「家の蔵、物置、押入れをもう一度整理してください」という旨の告知を全国にして欲しいですわ。
毎度、毎度長文で申し訳ありません。文章をまとめる能力が不足しているようで…。
- #DGRzt1hQ
- 白天目
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2009.05.08 Fri 19:30 | >白天目さん
こんばんは。このニュース、ネット検索でもどういう訳か、地元山梨の新聞での報道しか見つかりませんでした。
字は異なるといえ、山本勘(管)助という名の人物が実在していたことは、ほぼ間違いないだろうと私も思います。
彼の役割や職務の詳細について、本来ならもう少し史料が欲しい所ですが、他の史料と突き合わせると何か見えてくる部分もあるかもしれませんね。今後の専門家の方々の研究に期待したいです。
軍師という存在は勘助に限らず、大なり小なり後世の誇張や創作が入ってる場合が多いのではと思うのですが、小和田先生の仮説はなかなかユニークですよね。
「啄木鳥戦法」はどうなんでしょうね〜。実際にはなかったのではという説もあるようですね。
白天目さんのおっしゃる通り、結構博打性が高い作戦に感じますし、例え家臣から提言があっても信玄が認めるのかなあという気もしますね。
ただ決戦を焦った件については、旧暦の9月という事で米の収穫期が迫っており、まだ農民と兼業の足軽が多数を占めていた武田軍が、士気の低下を懸念したのではと以前何かの本で読みました。
兵農未分離の者が多いのは上杉勢も同様のはずですが、この時ばかりは信玄の方が根負けして動いてしまったんでしょうかね。
ちなみに私は、「車懸りの陣」の信憑性も怪しいのではと思ってます(笑)。
2009.05.15 Fri 00:33 |
これって報道にはなっていないのかもしれないのですけど、県博研究紀要に乗っている原著論文を見ると、「菅助」文書の一通は永禄11年に推定されてしまうのですよね。周知の通り『軍鑑』での「勘助」は永禄4年の川中島で討死しているはずですが、「菅助」は永禄11年にも軍役を務めています。個人的には両者はあんまり関連づけないで考えたほうがいいように思えるのですが、このあたりもこれからどう解釈されるのでしょうか。あと、これも報道にはなっていないと思いますが、小山田信有を見舞った「菅助」文書では信有を「宿老」と記しています。武田家の最高職「宿老」もこれまで文書できちんと確認されたことはなく、これも注目されるべきことです。
- #sbqS/bS.
- denden416
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2009.05.17 Sun 15:34 | >denden416さん
はじめまして、レスが遅くなってしまい申し訳ありませんm(_ _)m
私はこのニュースを上記山梨日日新聞のWeb版の記事でしか目にしてないため、文書が出された年や小山田信有を「宿老」と記してる件については全く知りませんでした。
ですので、原著論文の内容を教えていただきとても参考になりました、どうもありがとうございます。
永禄11年に出された文書があるとなると、山本菅助は当然川中島の第四次合戦以降も生存していたことになりますね。
実在の菅助は、討死ではなく普通に病死で天寿を全うしたのかもしれないですね。
また、この年代まで隠居せず出仕していたとなると、従来伝えられていた「勘助」の生年よりはだいぶ若かった可能性が高いかもしれません。
何となくですが「甲陽軍艦」での山本勘助は、色々な武将たちのエピソードや理想像がないまぜにされて描かれたキャラクターなのではという気もします。
今後の研究によって、史実と虚構の間が少しでも判明していくことを願ってやみません。
- #-
- 影千代
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2009.05.24 Sun 01:08 |
武田氏研究者の丸島和洋さんが、ご自身のブログで『軍鑑』について書いておられますね。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kazu_maru/zakki.html
わたしも、『軍鑑』については武田氏研究に使えるのかどうかを論ずる前に、まずきちんと近世の編纂史料としての位置づけをちゃんとしておく必要があるだろうなと考えています。諸本を集めて成立史を検討するとか。
この山梨県立博物館には武田氏担当の西川広平さんと、近世史担当の高橋修さんという学芸員がおられます。西川さんは一般向け文献にもいくつか文章を発表されていてご存じかもしれませんが、高橋さんの近世史論文も、文献資料を内容だけでなく諸本の系統など書誌学的見地から論考を加えていく視点でとても明晰なものでして、わたしはぜひ共同で『軍鑑』の成立史に関する研究を立ち上げてくれないか、などと思ったものです。
- #sbqS/bS.
- denden416
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2009.06.02 Tue 18:28 | >denden416さん
レスが大変遅くなってしまい申し訳ございません。
(言い訳になりますが、最近なかなかネットをする時間がとれなかったので…)
丸島氏のブログのご紹介、どうもありがとうございました。とても興味深い内容ですので、また他の記事も読んでみます。
私も氏が書かれているのと同じく、「甲陽軍艦」は軍記物であるという認識でよいのではと思います。
ただ、かつては偽書説もあり近年までまともな研究がなされて来なかった事、記述内容の比較をしようにも他の武田氏関係の一次史料が少ない事などから、史料として活用することにいまだ抵抗感を覚える方も少なくないようですね。
いずれは「軍艦」の活用法が確立され、「平家物語」や「太平記」などのように、史料としてどのように扱うか明確な位置づけがなされるべきだと思いますが、そうなるにはまだまだ時間がかかるかもしれませんね。
西川氏のお名前は聞いた事がありますが、何分不勉強で論文等は読んだことがないです…。
地元では新進気鋭の学芸員の方たちが頑張っておられるのですね。denden416さんのおっしゃる通り、「軍艦」について新しい視点からの研究が生み出されるといいですね。
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- 影千代
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