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上杉謙信の養子たち(1)〜北条から来た男

◆越後にやって来るまで
上杉景虎は、相模の虎と呼ばれた名将・北条氏康の七男(一説に八男)。正確な生年は判明してませんが、一般的な書籍等では天文23年(1554)生という記載がよく見られます。もしこの説が正しければ、後にライバルとなる上杉景勝より一つ年上ということになります。
彼の幼少期については、「箱根早雲寺で喝食を勤め、その後北条氏が三国同盟を結んでいた武田信玄の養子となり三郎と称するも、同盟の破綻によって北条に戻った」ーーという話が従来は有名でした。
しかし当の武田側の同時代史料に、三郎が信玄の養子となった話が全く記されていないという事実が、長塚孝氏や黒田基樹氏の研究で明らかにされました。そのため最近ではこの説に否定的な見解も多く、少年時代のことははっきりわかっていません。

確実と思われる記録上に三郎が登場するのは、永禄12年(1569)末に一族の北条幻庵の養子となった時のことです。幻庵は氏康の叔父にあたり、北条氏の長老的存在でした。二人の息子が武田との合戦で討死してしまったので、三郎を婿養子に迎え入れて後継者と定めたのです。
ところがそれから半年も経たない翌年の4月、三郎の姿は相模から遠く離れた越後春日山城にありました。

武田との同盟を破棄した氏康は、越後の上杉謙信と結んで信玄に対抗する手段を取りました。そして同盟の証に、実子のいない謙信の養子として北条方から三郎が送り込まれることに決定したのです。
当初は、三郎の長兄である氏政の次男・国増丸(後の太田源五郎)が候補に挙っていましたが、「幼子を手放すのは忍びない」との氏政の懇願により、三郎に変更されたと言われています。近年の櫻井真理子氏の研究では、もし北条が武田から攻め込まれた時に、幼い国増丸よりもある程度の年齢に達している者の方が謙信への援軍依頼が取り次げるとして、三郎に白羽の矢が立ったのではという見方もあります。
◆越相同盟
養子とはいってもその実は人質同然のようなものでしたが、謙信は三郎に自身の前名を与え「景虎」と名乗らせた上に、姪の長尾政景娘(景勝の姉妹)を妻として娶らせ、一門同様として遇しました。
翌年には長男の道満丸も誕生し、越後での生活をまずまず平穏に過ごしていたかと思われる景虎ですが、彼の養家と実家の結びつきには早くもヒビが入り始めていたのです。

北条氏は信玄を牽制するため、謙信に関東・信濃に出兵してくれるよう度々懇請していました。景虎もまた北条方の要望を養父に取次ぎましたが、当時謙信は越中攻めに手を焼いており、北条氏が期待したほど同盟の有効性が見られなかったのです。そして元亀2年(1571)10月に氏康が亡くなると、跡を継いだ氏政は謙信と手を切り、再び信玄と和睦しました。
上杉から北条へ人質に送っていた柿崎晴家(謙信の重臣・柿崎景家の嫡男)は越後に戻って来ましたが、景虎は帰国せずそのまま留まり続けました。理由は不明ですが、再び黒田基樹氏の説によると、同盟の条件であった上野支配権を有効にしておくためではと考証されています。

◆御館の乱
天正6年(1578)3月13日に謙信が急死すると、謙信の甥でもう一人の養子である景勝と、家督を争って対立が始まりました。
景勝側はいち早く春日山城の本丸・金蔵・武器庫を抑え、3月24日には「謙信公の跡目は自分が継ぐ」と国内外に宣言し、交戦が開始されます。もともと上杉家中には、一門衆や家臣間に根深い権力闘争が潜在しており、家中が二派に別れての合戦となりました。5月半ば、景虎は春日山城を退去し、謙信が自身の養父で先代の関東管領・上杉憲政のために建てた居館である御館に籠城しました。

当初は景虎方が優勢に戦いを進め、実兄の氏政に依頼された武田勝頼も援軍を送り込んできましたが、景勝は即座に勝頼に和睦を申し入れ、勝頼はこれを承諾し兵を退きました。氏政は改めて援軍を出すものの、冬に入り雪に阻まれ撤退を余儀なくされます。景虎軍は兵糧の窮乏や兵の離反が出始め、形勢不利となっていきました。
翌年の2月、景勝軍は総攻撃をかけ、3月17日ついに御館落城。景虎は落城寸前に脱出し小田原城を目指しますが、途中身を寄せた鮫ヶ尾城の城将・堀江宗親は既に景勝方に内応していました。進退窮まった景虎は24日に自刃し、御館の乱は一応の終結をみたのです。

彼の嫡男・道満丸は御館落城の日に、講和を図った上杉憲政に連れられ春日山城へ向かう途中、景勝方の兵によって憲政と共に殺されたと伝えられています。また景虎正室は、夫を逃した後に御館で自害したとも、鮫ヶ尾城で景虎に殉じたともいいます。

景虎については北条氏時代のことも上杉に来てからも、史料で確実に行動を辿ることができる部分は非常に少ないというのが実情です。この記事では主に今回の大河ドラマで触れられなかったり、判明している史実とは異なる部分を中心にまとめてみましたが、彼の人物像や功績についてはほとんど不明であると言っていいでしょう。
ちなみに有名な景虎の美少年説も、彼が武田氏の養子だった際に詠われた、とされている杵歌から来ているらしく、史料に基づいたエピソードではないのです。なんだか夢を壊すようで心苦しいですけど(笑)。でもこういう話が残ってるのは、若くして非業の死を遂げた景虎を悼む人が多かったという事かもしれませんね。
<→(2)に続く>

*関連記事=落城の遺物

Comment

2009.05.12 Tue 20:43  |  

大変勉強になりました!!

少し不思議なのですが、北条氏から人質として迎えられた影虎が
いくら、一門の同様に扱ってもらったからといって
跡目争いをしたのでしょうか?

普通の考えなら、景勝のサポートをすると思うんですが・・・?

  • #-
  • にじいろ家族
  • URL

2009.05.13 Wed 17:18  |  >にじいろ家族さん

はじめまして、コメントありがとうございます。
たしかに、割り切って景勝のサポートに徹するか、それが嫌なら実家の北条に戻れば、
こんな死に方をしないですんだろうに…と思っちゃいますよね。

ただ、謙信が二人のうちどちらに家督を譲るつもりだったのかは謎なままなんです。
最近では「関東管領職を景虎に、長尾家の家督と越後の国主を景勝に継がせるつもりだったのでは」
という分割相続説がよく聞かれるんですが、異論もあって確定した訳ではないようです。
もしこの説が当たってるのなら、「分割相続の約束だったのに、景勝は上杉の家督を独り占めしようとしている!」
と景虎が憤って兵を挙げた可能性もありますね。

わたし個人的には、謙信が景虎を厚遇してたとしても、跡継にはやっぱり血の繋がった甥っ子をと考えてたのではと思ってますが…。

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  • 影千代
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