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闇に葬られた皇族(2) ー 伊予親王

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桓武天皇の血縁者で政争の犠牲になった人物といえば、まず第一に挙げられるのが彼の皇太弟でありながら、藤原種継暗殺事件の疑いをかけられ憤死した、崇道天皇こと早良親王がいますね。その経緯と、彼の怨霊の祟りが長く怖れられたことは割と有名かと思うので、ここでは早良親王と同様の末路を辿った桓武天皇の皇子・伊予親王の話を紹介します。

◆桓武に愛された皇子
伊予親王の正確な生年は不詳ですが、延暦11年(792)加冠の儀を受け元服している記録があります。延暦5年(786)生である異母兄弟の大伴親王(後の淳和天皇)・葛原親王が、延暦17年(798)に13歳で加冠の儀を受けている事から推測すると、伊予親王はおそらく宝亀12年(780)前後の生誕ではないかと思われます。年齢的には、安殿親王(後の平城天皇)に次ぐ二番目の皇子になります。母は藤原吉子といい、藤原南家出身の女性でした。
伊予親王は父の桓武天皇に深く愛されていたと伝えられており、天皇は遊猟や巡幸に際して親王と吉子のもとを度々訪れ、歓楽を共にしたことが『日本紀略』などに記されています。その他にも天皇より帯剣を許可されたり、『日本後紀』には延暦23年(804)に近江国の土地を賜ったという記事も見られます。

延暦25年3月に桓武天皇が亡くなり、安殿親王が平城天皇として即位。天皇の同母弟である神野親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟に立てられ、伊予親王は中務卿兼太宰帥(大宰府の長官)に任ぜられました。翌年5月、天皇が神泉苑(大内裏の庭園)に行幸した際に、伊予親王は奉献を行って宴会にも参加しており、兄帝との関係も上手くいってるかに見えました。
しかしその5ヶ月後、親王の運命は急変します。

◆伊予親王の変
大同2年(807)10月28日。「藤原宗成が伊予親王へ謀反を勧めているらしい」という情報を大納言・藤原雄友(親王の母方の伯父)が聞きつけ、驚いた雄友は右大臣の藤原内麻呂に報告。また親王自身も、宗成に誘われた件を即座に平城天皇へ奏上しました。
宗成は連行され取調べを受けますが、彼が「伊予親王こそが計画の首謀者だ」と主張したため、親王は邸を多数の兵により囲まれ、捕われの身となってしまいます。数日後、母の吉子と共に大和の川原寺に幽閉。親王と吉子は無実を主張しますが訴えは通じず、それどころか飲食を断たれる仕打ちを受けます。
11月11日、親王は解任されその位を廃されました。前途を悲観した母子は翌日、自ら毒を仰ぎ命を断つという悲劇的な結末を迎えました。

宗成は流刑が決定し、また伯父の雄友や親王の3人の子供たちも、連座として遠流になりました。
この事件は一般的に、当時平城天皇の側近として権勢を奮っていた藤原式家の仲成・薬子兄妹が、伊予親王と藤原南家の没落を目論み、宗成を操って起こしたと言われています。『日本後紀』に、薬子の変の後の嵯峨天皇の詔として「(仲成は)嘘偽わりごとをもって、先帝の親王夫人を凌侮して、家を棄て路にそむきて東西辛苦せしむ」という件があり、「先帝の親王夫人」が伊予親王と藤原吉子を指すのではと推測されています。

しかし不思議なのは、なぜ宗成なる人物の主張があっさり信ぜられ、無実を訴える親王の言い分は通らなかったのでしょう。おそらく仲成は、平城天皇の気質を利用して陰謀を仕掛けたのではないかと思います。

◆異母兄・平城天皇
安殿親王(平城)は英邁な資質の持主ながら、生来心身ともに虚弱でした。その上、皇太子になった直後から叔父・早良親王の怨霊に苦しめられます。長引く彼の病気、また母親や最初の妃が若くして亡くなった事などは、すべて早良の祟りだとされました。
父の桓武帝からすると、弟を廃してまで東宮に立てた我が子に、後継者として大きな期待をかけていた事でしょう。神経質で弱々しい息子が頼りなく思えたのか、安殿が成長するに従い、父子の関係はだんだん微妙な空気を孕んてきました。挙句に、安殿が新しい妃の母親である藤原薬子を寵愛しているのを知ると、桓武は怒って薬子を追放させました。

自分と違い、父に可愛がられている伊予親王に対し、安殿親王は常々複雑な思いを持ち続けていたのではないでしょうか。もしかすると「いずれ皇太子の座をとって代わられるかも」と恐れを抱いてかもしれません。
『日本後紀』によると、伊予親王が謀叛の首謀者と聞いた平城帝は激怒し、あまりの剣幕に誰も意見できない程でした。ただ一人、捕縛役を命ぜられた安倍兄雄(安倍晴明の先祖)は親王の無実を抗弁したが、聞き入れられなかったそうです。このエピソードは、異母弟への長年鬱屈していた感情が爆発したように私には感じられます。

◆エピローグ
平城天皇は大同4年(809)、在位わずか3年で退位してしまいました。伊予親王の怨霊の所為で病気がちになり、政務に支障を来すようになったのです。早良親王の祟りに悩まされ続けた筈の平城帝が、自ら怨霊をつくり出してしまったのは皮肉ですね。もっとも、退位後すぐ体調は回復したらしく(笑)、たぶん本当の原因は弱い体に鞭打って政務に張り切り過ぎたためのような気がします。
代わって即位した嵯峨天皇により、正式に伊予親王の無実が認められて親王位に復され、承和6年(839)には一品が追贈されました。また遠流にされていた子供たちや伯父の雄友も帰京し政界に復帰しています。そして貞観5年(863)には、伊予親王母子や早良親王たちの霊を慰める御霊会が行われ、京都の上御霊神社・下御霊神社に祀られました。

御霊信仰は以後、平安時代を通じて盛んになっていきました。本当に彼らの怨霊が存在して祟りを成したのかはさておき、政治的陰謀によって権力を得た者の良心の呵責、非業の死を遂げた者に対する同情、そして民衆のお上に対する反発心と結び付いて、広く信仰されるようになったのではと思います。

*関連記事=・遥かなる天竺へ ー 高岳親王(平城天皇の皇子のお話です)

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