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闇に葬られた皇族(1) ー 井上内親王

『その時歴史が動いた〜平安京誕生』の記事で言及した、井上内親王のお話です。
彼女は内親王という高貴な生まれながら、波瀾万丈で悲劇的な人生を余儀なくされました。

◆日陰の内親王から皇后へ
井上内親王は養老元年(717)、聖武天皇(当時は皇太子)の第一皇女として誕生しました。
母は県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)といい、同母の弟妹には不破内親王(?〜795?)と安積親王(728〜744)がいます。また藤原不比等の娘・光明子(後の光明皇后)を母とする阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)は、一つ年下になります。
彼女は幼くして、伊勢神宮で巫女として仕える斎王に選ばれ、神亀4年(727)わずか11歳で家族と別れ伊勢に下向します。その後15年以上の長きに渡り神に奉仕しますが、弟・安積親王の死を受けて奈良に戻る事になりました*1。

安積親王は聖武天皇の唯一の男子*2で、本来なら皇太子とされるべきですが、何としてもそれを避けたかったのが藤原氏。権力を独占し始めていた彼らにとって、藤原氏の母を持たない安積は甚だ好ましくない存在だったのです。彼らはまず光明子を強引に立后し、天平10年(738)には阿部内親王が初の女性皇太子に定められました。
6年後、安積親王は難波への行幸の途中、急な発病により17歳の若さで没しました。死因は公的には脚気とされていますが、一説には藤原仲麻呂に殺されたとも言われています。

さて井上内親王は帰京後しばらくして、白壁王という皇族の許に嫁がされました。
彼は天智天皇の孫に当たりますが、当時の皇統は天武天皇の子孫であったため、出世コースとは程遠い存在。「変に有力者に縁付かせると、彼女を担いで反乱を起こされる可能性がある。凡庸で冴えない白壁王に押し付けておけば安心だろう」と、適当に見繕われたのかもしれません。
結婚後は、他戸親王と酒人内親王という二子をもうけ、それなりに平穏に暮らしていたと思われます。また白壁王の官位も、天皇の姉の夫ということで順調に昇進するようになりました。

神護景雲4年(770)、称徳天皇が崩御。後継者として藤原氏一門が推挙したのは、なんと他ならぬ白壁王でした。彼は光仁天皇として即位し、井上内親王は皇后に、そして息子の他戸親王が皇太子とされました。
若くして非業の死を遂げた弟や、8年前に亡くなっていた母のことを思うと、彼女の胸中には複雑ながらも感慨深いものがあったのではないでしょうか。

◆運命の暗転
しかし、井上内親王の栄華の日々はつかの間のことでした。
2年後、彼女は夫を呪詛したという罪で皇后位を剥奪され、同時に他戸親王も皇太子を廃されてしまったのです。さらに翌年、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪い殺した罪にも問われ、母子共に幽閉されてしまいます。
そして宝亀6年(775)4月27日、2人は幽閉先で亡くなりました。同日の死亡というのはいかにも怪しく、おそらく自然死ではないでしょう。

そもそも、光仁天皇は即位した時すでに62歳。仮に夫婦仲が冷えきっていたとしても、わざわざ呪詛なぞせずとも何年かやり過ごして待てば、言葉は悪いですがそのうち寿命がくるんじゃないでしょうか。他戸親王がいずれ皇位に就くことも決定していますし。
また難波内親王の件についても呪詛すべき理由は見当たらず、井上内親王母子は何らかの謀略によって陥れられた可能性が濃厚なのです。
◆事件の裏側
称徳天皇の没後、それまでの政争や粛清の影響により、天武天皇系でめぼしい候補者が見当りませんでした。ならば、母系ではあるが聖武の孫にあたる他戸親王が皇位に相応しいのではという事になり、その前段階として父の白壁王が即位したわけです。
この計画を中心になって推し薦めたのは、藤原北家の永手という人物でした。しかし永手は光仁天皇即位の翌年に亡くなり、変わって一門のリーダー格になったのが、式家の良継・百川の兄弟です。

彼らにすると、北家の息がかかっていた他戸親王が将来的に皇位に就くのは、自分たちにとって有り難くないと考えたのかもしれません。そして接近したのが、光仁の第一皇子で渡来氏族の和(やまと)氏を母とする山部親王(後の桓武天皇)でした。
他戸親王が廃されると山部親王は皇太子となり、後には良継と百川の娘をそれぞれ妻に迎えています。互いの利害が一致している事もあり、山部親王がこの陰謀に少なからず関わっていた可能性はかなり高いのではと思います。

◆怨霊と鎮魂
井上内親王の没後、2年間に渡り地震・水害・落雷などの天災や異常気象、鼠など害獣の大量発生が断続的に起こり、巷では井上母子の祟りと噂されます。そして藤原良継が死去し(62歳なので単に年かもですが…)、ついには天皇と皇太子も病を発しました。
たまりかねた光仁天皇は宝亀8年(777)、慰霊のため井上内親王の墓を改葬させ、さらに延暦19年(800)桓武天皇は彼女に皇后位を追号し、墓を山陵と定めました。
良継の弟・百川は、兄と同様に山部親王の即位を見ることなく、宝亀10年に48歳で亡くなっています。彼の死については、井上内親王が現身のまま龍になって、陰謀の中心人物であった百川を蹴殺したという伝説が『愚管抄』に記されているそうです。

天平文化が栄え一見華やかな裏に、熾烈な権力争いがあった奈良時代。井上内親王はその生まれの故にいいように利用され、用無しになると容赦なく皇后の座から引きずり降ろされ、最期はこの世から抹殺されたのでした。彼女は今、奈良県五條市の、息子・他戸親王の陵墓の近くにある「宇智陵」に眠っています。<→(2)に続く

(*1)=斎王は天皇の譲位や崩御、身内の不幸などがあると交替する。
(*2)=安積親王の兄に基皇子(母は光明子)がいたが、誕生後一年もしないうちに夭折している。

*関連サイト=まんがで見る五條市史 井上内親王編 つい全部読んでしまいました(笑)

*関連記事=・奈良朝セレブの華麗なる私生活
      ・日本のバージンクイーン ー 孝謙天皇

Comment

2009.01.18 Sun 13:44  |  NoTitle

井上内親王、その娘酒人内親王、さらに井上から言えば孫になる朝原内親王。この3代にわたる悲劇のうえに平安京の繁栄があるんですよね…。
以前、3代にわたって創作もどきにしようと書き始めましたが、あまりに可哀そうで、気がめげるのでやめてしまいました。

さて!マンガを私も読みにいってきまーす♪

  • #VD0bvtlU
  • jasmintea
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2009.01.18 Sun 19:43  |  >jasminteaさん

3人とも内親王で、斎王を務めた後は天皇の后になりながら、政情に翻弄され続けた人生ですよね…。
酒人内親王は「美人だけど我がまま」と伝えられてるそうですが、よりによって母と兄(弟?)を陥れた桓武の妻にされたという、己の運命への精一杯の反抗だったのではと思います。
3代の創作、読んでみたいですが、たしかに書いていると気が滅入りそうですね。

漫画は、次のページを読む時にいちいち戻らないといけないのが、ちょーっと面倒でしたねv-356

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