姫路城
姫路城に行って来ました!といっても、9月末の話なんですが・・・(汗)
以前、城内にある歴史博物館に行った時に記事を書いたことがありましたが、その時は天守閣の外観を何枚か撮影したのみで内部の見学はしなかったのと、内容もあまり詳しいものではなかったため、今回改めて書き直してみました。

(*クリックすると画像が拡大します)
表口にあたる大手門。往時の城には、防備のため全部で3つの門が構えられ、この門は「桐二ノ門」と呼ばれていたそうです。明治初期、兵舎になった時に洋風の門に変えられましたが、昭和12年(1937)現在の姿に復元されました。
姫路城の歴史は、赤松則村(円心)が播磨国姫山に築いていた砦を、正平元年(1346)彼の息子の貞範が城の形体に改めたのに始まります*。赤松氏の一族・小寺氏が城代に定められ、代々世襲しましたが、戦国時代に入ると小寺氏の被官である黒田氏が城主となりました。
天正8年(1580)、黒田孝高の勧めで、羽柴秀吉が西国攻略の拠点として入城。秀吉は3層の天守閣を築き、城下町を整備しました。現在の城郭は、慶長6年(1601)関ヶ原の合戦の恩賞として播磨を与えられた池田輝政が、8年の歳月を費やして改修したものです。
池田氏が転封になった後は、本多氏・松平氏・榊原氏・酒井氏と城主は目まぐるしく変わりましたが、山陽道上の要地として親藩や普代の大名が統治しました。
*=最近の研究では、築城は16世紀中頃の黒田重隆・職隆(孝高の祖父と父)の時とする説もあるそうです。
菱の門。正面登閣口を通って最初に見える門で、城内の21の門の中で最も大きいものだそうです。伏見城の遺構と伝えられている上層階は、有事の際は多数の兵が隠れられるようになっています。

三国堀の辺りから眺める大天守。しかし、ここに辿り着くにはまだまだ遠〜い道のりが…。

左画像は「ろの門」から「はの門」へ向かう階段。土塀にはさまざまな形の狭間が並びます。左側に少しだけ見える「はの門」は隠し石落としなどが設けられており、天守への侵入を防ぐ重要な門です。
右画像は「にの門」の内部。敵を通りにくくするため狭く作っており、板葺きの天井をはずして槍や石で攻撃できるようになっています。

左画像は乾小天守。天守台の北西隅に建てられています。3層の外観、地下1階・地上4階の重厚な造りで、3つある小天守の中で一番大きいものです。
右画像は西小天守。大天守入口に達した敵を迎え撃つ、最後のポイントとなる場所です。
てな訳で、ようやく大天守に到着。だいぶ省略していますが、登閣口でチケットを購入してからここまで来るのに、おそらく15分はかかりました。
大天守は外観5層、内部は地下1階・地上6階の構造となっています。もちろん階段(左画像)で上っていきますが、これが運動不足の身には少々こたえる・・・。右画像は大天守内の廊下です。


城内には鎧兜や刀槍、鉄砲など様々な物が展示されています。この写真は馬の鞍。
1階部分の「城と城主」のコーナーでは、最後の城主となった、酒井家関係の史料が多く展示されていました。

左画像は最上階からの眺望。大手前通り南の約1.5kmの所にJR姫路駅があり、かつてはその辺りが城の外濠だったそうです。また最上階には「長壁神社」という小さな神社があり、お城の祭神が祀られています。
右画像は、東小天守に展示されている軸組構造模型。昭和30年代に大天守の解体修理工事を行った際に、実物の1/20で製作されたものです。

西の丸の遠景。元和4年(1618)に当時の城主である本多忠政が、嫡男の忠刻とその室・千姫夫妻のために築いたものです。 御殿を囲むように造られた全長300mもの長局は通称「百間廊下」と呼ばれ、千姫に仕える侍女たちが住んでいました。

左画像は本丸の一郭に位置する備前丸。ここは池田輝政の居館があり、内部から直接天守に行ける構造だったそうですが、明治15年失火により惜しくも焼失しました。右手奥に見えるエノキの木は、樹齢120年になるものだそうです。
右画像は、上山里丸にある「播州皿屋敷」のお菊が投げ込まれた井戸。
小寺氏城主の時代、お家乗っ取りの陰謀を知った女中のお菊が城主の難を救ったが、それを恨んだ悪家老は家宝の皿を隠してお菊を陥れ、彼女を責め殺し井戸に投げ捨てた。以後毎夜、皿の枚数を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになった・・・という伝説に基づいています。
城内には「好古園」という日本庭園、前述の歴史博物館や美術館、動物園まで併設されており、規模の大きさには驚かされるばかりでした。
ちなみに姫路城は、来年の秋から5年かけて天守閣の大修理に入るそうです。
*公式サイト=姫路市|姫路城公式ホームページ(姫路城大図鑑)
大きな地図で見る
以前、城内にある歴史博物館に行った時に記事を書いたことがありましたが、その時は天守閣の外観を何枚か撮影したのみで内部の見学はしなかったのと、内容もあまり詳しいものではなかったため、今回改めて書き直してみました。

(*クリックすると画像が拡大します)
表口にあたる大手門。往時の城には、防備のため全部で3つの門が構えられ、この門は「桐二ノ門」と呼ばれていたそうです。明治初期、兵舎になった時に洋風の門に変えられましたが、昭和12年(1937)現在の姿に復元されました。
姫路城の歴史は、赤松則村(円心)が播磨国姫山に築いていた砦を、正平元年(1346)彼の息子の貞範が城の形体に改めたのに始まります*。赤松氏の一族・小寺氏が城代に定められ、代々世襲しましたが、戦国時代に入ると小寺氏の被官である黒田氏が城主となりました。
天正8年(1580)、黒田孝高の勧めで、羽柴秀吉が西国攻略の拠点として入城。秀吉は3層の天守閣を築き、城下町を整備しました。現在の城郭は、慶長6年(1601)関ヶ原の合戦の恩賞として播磨を与えられた池田輝政が、8年の歳月を費やして改修したものです。
池田氏が転封になった後は、本多氏・松平氏・榊原氏・酒井氏と城主は目まぐるしく変わりましたが、山陽道上の要地として親藩や普代の大名が統治しました。
*=最近の研究では、築城は16世紀中頃の黒田重隆・職隆(孝高の祖父と父)の時とする説もあるそうです。

菱の門。正面登閣口を通って最初に見える門で、城内の21の門の中で最も大きいものだそうです。伏見城の遺構と伝えられている上層階は、有事の際は多数の兵が隠れられるようになっています。

三国堀の辺りから眺める大天守。しかし、ここに辿り着くにはまだまだ遠〜い道のりが…。

左画像は「ろの門」から「はの門」へ向かう階段。土塀にはさまざまな形の狭間が並びます。左側に少しだけ見える「はの門」は隠し石落としなどが設けられており、天守への侵入を防ぐ重要な門です。
右画像は「にの門」の内部。敵を通りにくくするため狭く作っており、板葺きの天井をはずして槍や石で攻撃できるようになっています。

左画像は乾小天守。天守台の北西隅に建てられています。3層の外観、地下1階・地上4階の重厚な造りで、3つある小天守の中で一番大きいものです。
右画像は西小天守。大天守入口に達した敵を迎え撃つ、最後のポイントとなる場所です。
てな訳で、ようやく大天守に到着。だいぶ省略していますが、登閣口でチケットを購入してからここまで来るのに、おそらく15分はかかりました。
大天守は外観5層、内部は地下1階・地上6階の構造となっています。もちろん階段(左画像)で上っていきますが、これが運動不足の身には少々こたえる・・・。右画像は大天守内の廊下です。


城内には鎧兜や刀槍、鉄砲など様々な物が展示されています。この写真は馬の鞍。
1階部分の「城と城主」のコーナーでは、最後の城主となった、酒井家関係の史料が多く展示されていました。

左画像は最上階からの眺望。大手前通り南の約1.5kmの所にJR姫路駅があり、かつてはその辺りが城の外濠だったそうです。また最上階には「長壁神社」という小さな神社があり、お城の祭神が祀られています。
右画像は、東小天守に展示されている軸組構造模型。昭和30年代に大天守の解体修理工事を行った際に、実物の1/20で製作されたものです。

西の丸の遠景。元和4年(1618)に当時の城主である本多忠政が、嫡男の忠刻とその室・千姫夫妻のために築いたものです。 御殿を囲むように造られた全長300mもの長局は通称「百間廊下」と呼ばれ、千姫に仕える侍女たちが住んでいました。

左画像は本丸の一郭に位置する備前丸。ここは池田輝政の居館があり、内部から直接天守に行ける構造だったそうですが、明治15年失火により惜しくも焼失しました。右手奥に見えるエノキの木は、樹齢120年になるものだそうです。
右画像は、上山里丸にある「播州皿屋敷」のお菊が投げ込まれた井戸。
小寺氏城主の時代、お家乗っ取りの陰謀を知った女中のお菊が城主の難を救ったが、それを恨んだ悪家老は家宝の皿を隠してお菊を陥れ、彼女を責め殺し井戸に投げ捨てた。以後毎夜、皿の枚数を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになった・・・という伝説に基づいています。
城内には「好古園」という日本庭園、前述の歴史博物館や美術館、動物園まで併設されており、規模の大きさには驚かされるばかりでした。
ちなみに姫路城は、来年の秋から5年かけて天守閣の大修理に入るそうです。
*公式サイト=姫路市|姫路城公式ホームページ(姫路城大図鑑)
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