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生き残り義士の末裔

MSN産経ニュース「赤穂義士の寺坂吉右衛門の子孫が出世」
 赤穂義士でただ一人切腹せずに天寿をまっとうした寺坂吉右衛門。足軽の身分だったが、子孫は主君の側近として仕える武士に“出世”していたことを記す書状が、兵庫県赤穂市の大石神社で見つかった。(中略)
 書状は、大石内蔵助の一族の流れをくむ子孫が、同神社に寄贈した「弘前大石家文書」の一部。寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた高知新田藩の山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせたのに対し、山内家の家臣が答えた書状とみられる。文面には「今は3代目の吉右衛門で、婿養子のため血脈は続いていないが、主君の側頭を務めている」などとあった。側頭は主君の近くに仕える身分。
 寺坂は、義士が吉良邸討ち入り後、泉岳寺に立ち寄った際に姿がなく、その後、寺男を経て山内家に仕えたことが知られている。(中略)
 調査した同神社の佐藤誠非常勤学芸員は「足軽だった寺坂が討ち入り後、他藩に仕官でき、孫が側近にまで出世していたことは、当時の社会が寺坂に対して義士としての功績を認めていた証拠」と話し、忠臣蔵資料に詳しい赤穂市教委市史編さん室の小野真一学芸員は「寺坂の子孫の様子を記す史料は珍しい。孫が主君の側近にまでなったということは、当時の“義士ブランド”の価値を知るうえで興味深い」と話している。


寺坂吉右衛門が逐電した真相については定かでないものの、一般的には「大石内蔵助の命により、事の顛末を浅野家の人々に伝えるため逃亡した」という説が取られる事が多いようです。
この書状も、大石の一族の子孫が寺坂家について尋ねたものの返書ということで、寺坂が裏切者ではなく義士の一員として認識されていた事を表しているのではと思います。

寺坂はその後、旧主・吉田忠左衛門(四十七士の一人)の娘婿に奉公した後、東京麻布にある曹渓寺の寺男となり、最後は土佐山内家の一族である主膳豊清に仕えたそうです。この豊清の養子・豊産(とよただ)が、高知新田藩の初代藩主になったので、寺坂の子孫もそのままついて行ったんでしょうね。


ところで忠臣蔵といえば、先日こんな映画製作のニュースが飛び込んできました。

バラエティ・ジャパン | キアヌ・リーヴスがハリウッド版「忠臣蔵」に主演決定
日本の伝統的な「忠臣蔵」に『ロード・オブ・ザ・リング』のようなファンタジーの要素と、『グラディエーター』のようなバトルシーンをミックスした作品になるという。

どう考えても、とてつもないトホホ映画になる予感しかしないんですけど・・・。
バトルシーンはまだしも、何をどうすれば忠臣蔵にファンタジー要素を加えられるのでしょうか(笑)
ハリウッド的には「『レッドクリフ』に負けられん」て感じなんですかねー?
まあ、よい意味で期待を裏切ってくれる出来になればいいですね(無理やりなまとめ)

*関連記事=ドラマ『最後の忠臣蔵』

Comment

2008.12.19 Fri 22:53  |  興味深いですね

影千代さん、こんばんわ。

土佐山内家と言えば譜代の上士を重用することで有名ですし、支藩もこの意向を強く受けていたはず。なのに赤穂浪士をこのように厚遇するとはやはり江戸中期に彼等の忠義に共鳴する士族が多々存在した証拠かもしれません。

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  • Mr.Misaki
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2008.12.20 Sat 21:38  |  >Mr.Misakiさん

こんばんは。そうですね、土佐では上士と郷士で厳しい格差があったんですよね。
いくら支藩とはいえ、外様の家臣に対して破格の取り立てぶりだと思います。もちろん寺坂の孫自身に才覚があったのでしょうけど。
他の浪士たちの子孫も、仕官先の引く手数多な状況だったんでしょうかね。
一方で、討入り不参加の者に対しては風当たりが厳しかったという話を聞くと、複雑な気分にもなります…。

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