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jasmintea URL 2008-10-16 edit

時行の気持ちはすっごく同感に思います。
北条の残党は全国で蜂起しましたよね。
その人たちのほとんどが足利に対する恨みで動いたのでは?と思ってしまいます。

影千代さんの記事を拝見していたら私も書きたくなりました♪
英時や泰家、友時など書いてみたいですよね〜。
(友時は湯口聖子さんが書いていたような記憶が!)

中先代の乱、楽しく拝見しました。
ありがとうございます。

>jasminteaさん 影千代 URL 2008-10-17 edit

上に挙げた「南北朝の動乱」という本によると、北条残党の反乱が起きた地域のうち陸奥北部や日向などは、北条の旧領だったのが尊氏に与えられた所だそうで、やはり「北条の一族や遺臣に、尊氏を反逆者と見る気持ちが強かったのでは」と推測されてました。
彼らにしてみると、「赤橋の姫を妻に迎えた尊氏は北条一門も同然なのに、寝返ったのは許せない」と感じてたのかもですね。

北条氏の滅亡というと鎌倉のことばかりが有名ですけど、
英時のように地方で滅んでいった人々の最期も強烈ですよね・・・。
jasminteaさんがこの時代について書いて下さるのを楽しみにしてます!(←プレッシャー?)こちらこそ、読んでいただいてありがとうございました。

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中先代の乱(3)〜その後の北条時行

<前回の記事はこちら→(1)(2)

◆南朝への帰順
北条時行の名が次に歴史上に現れるのは、中先代の乱から2年経った延元2年(1337)7月のことです。
『太平記』によると、時行は吉野の後醍醐天皇のもとに使者を送り、南朝への帰順を願い出ました。
「我が父・高時は先年滅亡しましたが、それは臣たる道をわきまえなかった結果なので、私は帝を少しもお恨みしておりませぬ。足利尊氏や新田義貞も、勅命により行動したのですから、北条に刃を向けた件について憤りはありません。しかし尊氏は、いまや朝敵であります。そもそも彼が現在の地位にあるのは、北条が足利家を優遇したからこそ。なのに尊氏はその恩を忘れている上、今また帝に背くという大罪を犯しています。故に我ら一族は、今後は足利兄弟のみを敵としようと決意いたしました。私は不忠の父の子ですが、御赦しの綸旨を賜われば、帝の臣下として喜んで働く所存です。」
書状の内容を伝え聞いた後醍醐天皇は、朝敵恩赦の綸旨を下すことを認めた―とあります。

この頃の時行はまだせいぜい11〜12歳の少年(*1)なので、書かれている内容はおそらく本人の意思というよりも、側近たちの差し金なのでしょう。朝廷や新田氏を全く恨んでなかったとは思えませんが、足利尊氏こそが最も許し難い存在であるという件には、時行一党の本音が含まれているのではと感じます。

◆足利方との戦い
正式に南朝の武将となった時行は、京都奪回のため奥州から西上してきた鎮守府将軍・北畠顕家の軍に加わりました。北畠軍は怒濤の勢いで進撃し、翌年1月の美濃青野原(後の関ヶ原)の戦いで足利軍に勝利。ところが京を目前にしながら、顕家は進路を伊勢に変更しました。長い遠征で兵力が減少・疲弊していたためとも、援軍を命じられた新田義貞に功を奪われるのを顕家が嫌ったとも言われています。
北畠軍の運命は暗転し、伊勢から伊賀、大和へと軍を進めたものの、形勢はジリ貧となっていきます。そして5月、和泉堺浦で高師直率いる大軍に敗れ、顕家は21歳で戦死しました。しかし時行は辛うじて追手を逃れます。

2年後の暦応3年/興国元年(1340)6月、時行は諏訪頼継(頼重の孫)ら旧臣と共に、信濃伊那の大徳王寺城で兵を挙げました。しかし間もなく信濃守護・小笠原貞宗の軍に城を包囲され、4ヶ月後の10月23日に大徳王寺城は落城(*2)。時行はまたもや潜伏を強いられることとなるのです。
◆最期
約10年後、足利尊氏派・直義派の対立に端を発し、室町幕府内の勢力が二分される「観応の擾乱」が起こりました。この混乱に乗じ、南朝の中心人物である北畠親房は、京と鎌倉の同時奪回を計画します。
正平7年/観応3年(1352)閏2月、時行は新田義宗・義興(義貞の遺児)と共に上野国で挙兵。前月急死した直義の遺臣を味方に引き入れ、鎌倉にいた尊氏を攻めて撤退させます。しかし次男の基氏と合流した尊氏に反撃を受け、新田・北条軍は敗退。彼らが鎌倉を占領できたのは、たった2週間のみのことでした。
その後、時行はついに足利方に捕えられ、翌年5月20日に鎌倉龍ノ口で処刑されました。打倒足利氏を掲げ、敗れても諦めず戦い続けた、波乱に満ちた一生だったといえるでしょう。そして彼の死と同時に北条得宗家は滅びたのでした。

余談ですが、幕末に儒学者として名を馳せた横井小楠は、北条時行が熱田大宮司の娘に生ませた子の末裔と伝えられています。小楠の本名は「時存」といい、北条氏の通字であった「時」の字を代々名乗っていたそうです。

(*1)=北条時行の生年は不詳ですが、兄の邦時が正中2年(1325)生まれなので、それより下なのは確かです。亡くなった時は20代半ば〜後半だったかと思われます。
(*2)=大徳王寺城の正確な場所はわかっていません。また、この戦いが記されている史料は後年の物で信憑性に乏しく、合戦があったこと自体を疑問視する説もあるようです。
(参考ブログ:長野散策一日目 - 坂東雑事記

*参考書籍=・日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)
      ・講談社 日本の歴史〈11〉太平記の時代

*関連記事=・幕政改革の挫折 ー 北条貞時
      ・父の遺訓を守って ー 楠木正行
      ・小説『鎌倉擾乱』

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jasmintea URL 2008-10-16 edit

時行の気持ちはすっごく同感に思います。
北条の残党は全国で蜂起しましたよね。
その人たちのほとんどが足利に対する恨みで動いたのでは?と思ってしまいます。

影千代さんの記事を拝見していたら私も書きたくなりました♪
英時や泰家、友時など書いてみたいですよね〜。
(友時は湯口聖子さんが書いていたような記憶が!)

中先代の乱、楽しく拝見しました。
ありがとうございます。

>jasminteaさん 影千代 URL 2008-10-17 edit

上に挙げた「南北朝の動乱」という本によると、北条残党の反乱が起きた地域のうち陸奥北部や日向などは、北条の旧領だったのが尊氏に与えられた所だそうで、やはり「北条の一族や遺臣に、尊氏を反逆者と見る気持ちが強かったのでは」と推測されてました。
彼らにしてみると、「赤橋の姫を妻に迎えた尊氏は北条一門も同然なのに、寝返ったのは許せない」と感じてたのかもですね。

北条氏の滅亡というと鎌倉のことばかりが有名ですけど、
英時のように地方で滅んでいった人々の最期も強烈ですよね・・・。
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