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島津家と将軍家の婚姻(2)〜広大院茂姫

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竹姫が亡くなった翌年の安永2年(1773)、島津重豪に娘が誕生します。幼名お篤、のち茂姫と名付けられました。同年、御三卿の一橋家にも長男の豊千代が生まれ、竹姫の遺言に基づいて3年後に両者の縁組が整いました。ところが婚約成立後に、豊千代の運命は思いがけずも急転します。
安永8年、10代将軍・家治の嫡男である家基が死去。家治には他に子がなかったため、豊千代が将軍の世嗣になることが決定したのです。
天明元年(1781)豊千代は正式に家治の養君となり、江戸城に入って名を家斉と改めました。それに伴い婚約者の茂姫も一橋家に引き取られ、さらに大奥に入って将来の御台所としての教育を施されて育ちました。

天明6年、家治が逝去して家斉は14歳で将軍に就任。茂姫の実父・重豪は近い将来に将軍の舅の立場を約束されることとなりました。しかし幕府内や他大名の中には、この縁組を苦々しく感じてる者も少なくありませんでした。家光以降代々、将軍の正室は摂家または宮家から迎えており、外様大名の島津家から御台所が出るなど言語道断というわけです。
こうした空気を察知した重豪は「この縁組は浄岸院様のご遺言により、亡き上様(家治)の仰せで決まったものです。しかし御縁女様(茂姫)に養女のお取扱が必要ならば、ぜひ当家と由緒の深い近衛殿の所にしていただけないでしょうか」と幕府に申し出、また自らは隠居して息子に藩主の座を譲ることにしました。
こうして茂姫は近衛家の養女となり、近衛寔子(ただこ)と改名します。そして寛政元年(1789)にめでたく家斉との婚儀が取り行われました。
結婚の7年後、ようやく待望の子供である敦之助が生まれました。正室に男子が誕生したのは秀忠夫人のお江与以来という事で、家斉夫妻も周囲もひとかたならぬ喜びでしたが、側室の子の敏次郎(後の家慶)が既に嫡子と定められていたため、敦之助は御三卿の清水家を継ぎました。しかし残念なことに、敦之助はわずか4歳で早世してしまいます。
家斉は以前にも紹介した通り、数多の側室と子供を作ったことで有名な人物です。実は茂姫との結婚の時にも、臨月を迎えている側室がいたという有様で、庶民は狂歌で彼の好色ぶりを揶揄しました。こうした事情も相俟ってか、2人の夫婦仲は段々と疎遠になっていったようです。
一方で実父の重豪は将軍の岳父の肩書きを大いに利用し、婚姻や養子縁組で自分の子を多くの大名家に送り込んで、政界に絶大な影響力を持ち「高輪下馬将軍」と称される権勢を誇りました。

天保12年(1841)家斉が死ぬと、茂姫は落飾して「広大院」と号し、従一位の官位を授かります。そして弘化元年(1844)72歳で世を去り、芝の増上寺に葬られました。
増上寺徳川家墓所の改葬に伴う発掘調査の際、広大院の墓も調査が行われました。生前の彼女は絶世の美女として知られてましたが、頭の骨が小さくて鼻根が高く、均整のとれた美人だったそうです。

後に13代将軍・家定の継室を選ぶ際に、島津家の女性に白羽の矢が立ったのは「島津の姫を御台所に迎え、長命で子孫が繁栄した家斉公にあやかりたい」という家定自身の希望がありました。そして家定に嫁いだ島津斉彬の養女が篤姫と名乗ったのは、広大院の幼名に因んでつけたものだったのです。

*参考書籍=「徳川将軍家の結婚」
      「骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと」

Comment

2008.02.15 Fri 11:36  |  祝・3周年

影千代さん、ブログ開設3周年おめでとうございます♪

家斉公にあやかって(?)、ますます盛んなブログになることをお祈りしてます☆
(じ、自分でも意味不明。。笑)

出ました!家斉♪
家斉さんは、もっとも大奥を活用したお方(笑)
で、その効果てき面(笑)

継室にお子が出来た数少ない例ですからね〜
幕府が最後の希望として、島津の姫をもう一度と望んだのも判ります。
そうか、広大院は絶世の美女だったのか・・・
写真の残っている、2代目篤姫は・・・(以下、自主規制。。笑)
  ↑まあ、気が強そうな事は窺えますね(汗)

それに、広大院との一番の違いは、島津本家出身である彼女に対して、
於一は、分家の姫君であることですね。
嫁入り話の際、この件でモメたという話を聞いた事があります。

  • #7C/zVFSk
  • リューザキ
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2008.02.17 Sun 23:24  |  >リューザキさん

エールありがとうございます。
家斉の如く精力的に更新していきたいんですが、なかなか…(わけわからん例えw)

残っている篤姫の写真は、オバさんになってからのものですよね。
若い頃はきっと可憐な姫だった・・・のかも?(笑)

斉彬の実子ではなく、分家の姫を養女として御台所にすることには、当然反発もあったと思います。特に幕閣や大奥がうるさそう…。
もし斉彬に年頃の娘がいたら無論自分の子を嫁がせたでしょうが、
そうしたら於一は歴史には名を残さなくとも平穏な一生を送れたのかな。
うーん、人生ってどこでどうなるかわからないものですね。

2008.02.23 Sat 08:58  |  

ブログ開設3年ですか。私も日本史探求を始めて3/13で3年です。
同じ時期にはじめたんですね(^.^)
ところでオットセイ将軍の正室って島津重豪の娘だったんですね。恥ずかしながら初めて知りました。

  • #-
  • jazzy-misaki
  • URL

2008.02.25 Mon 19:10  |  >jazzy-misakiさん

これはなんと、実はブログ同期生?だったんですか。
お互い今後とも頑張って運営していきましょうねv-218

家斉の女性関係は派手ですが、この茂姫を始めとして妻妾たち一人ひとりについては、あまり知られてない感じですね。
一番有名なのは、自分の娘婿を将軍にと企んだお美代の方でしょうか…。

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  • 影千代
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