父の遺訓を守って ー 楠木正行
北朝方の大将は足利尊氏の腹心・高師直、対する南朝方を率いていたのは楠木正成の嫡男・正行(まさつら)。南朝方はこの戦いの前まで勢力を盛り返しかけていましたが、結果は圧倒的な兵力差により惨敗。正行をはじめ多くの武将が討死しました。
今日は、父の遺志を継ぎ南朝の守護に人生を捧げ、若くして散った「小楠公」楠木正行を取り上げます。(主に『太平記』の記述に寄っていますが、あの本は史実と脚色が入り混じっていると言われてるので、それを念頭にお読み下さい)
◆父親と永遠の別れ
正行の生年ははっきりしていませんが、『太平記』に父の正成が戦死した時で11歳という記載があるため、嘉暦元年(1326)生まれとされている事が多いようです。
延元元年/建武3年(1336)5月、正行は兵庫へ出陣する父に同行します。しかし摂津桜井の駅で、正成より「わしはおそらく生きて戻れないだろう。天下の権は足利尊氏が握るだろうが、お前は一族もろとも朝廷に尽くせ」と後事を託され、河内赤坂に帰国しました。
正成の首級は京で晒された後、尊氏の計らいで楠木の館へ送り届けられました。それを見た正行はショックのあまり仏間へ向かい、父の形見の短刀で自害しようとしますが、寸前の所で母・久子に制止されます。
「父上が途中でそなたを帰したのは、何のためだったのかわからぬのか!あの時『楠木の一族郎党を率いて、朝廷の為に戦え』と言い残されたのでしょう?」と母に論され、我に返った正行は以後、文武に励んだと伝えられています。
この「桜井の別れ」のエピソードは、太平記の作者の創作という説もあります。でもたとえ場所や内容が異なるとしても、正成が何らかの遺言を息子に残した可能性は高いのではないかと、私個人的には思っています。
◆南朝期待の若き武将
それから約10年の月日が流れ、成長した正行率いる楠木勢は本拠地の河内で力を蓄え、いよいよ本格的な活動を開始します。
正平2年/貞和3年(1347)8月、紀伊の隅田党を攻め、翌月河内国八尾城を攻略し、藤井寺では足利方の細川顕氏勢を撃破。幕府は山名時氏を援軍として使わしますが、正行は天王寺・住吉にてこの連合軍をも破り、南朝側の気勢は大いに上がりました。
この戦いで彼は、敗走する際に橋から落ちて溺れる敵兵を救助し、衣服や馬を与え送り帰してやりました。正行の恩義に報いようと、後の戦いで楠木勢として参戦した者が多かったーという話が残っています。
度重なる敗退に慌てた足利方は大軍を編成し、高師直・師秦兄弟を大将に進軍を開始。急報を受けた南朝側は、再び正行に邀撃を命じます。6万とも8万ともいう敵軍の規模に、この合戦は決死の場になると覚悟を決めた正行は一族を連れ、お別れを伝えに吉野の朝廷へ参内。後村上天皇より「朕は汝を股肱之臣と思うておる。慎んで命を全うするのだぞ」と、涙ながらの御言葉を頂きました、
その後如意輪寺にて後醍醐天皇の御陵に詣で、寺の壁板に矢じりで郎党143名の名字を過去帳のように書き連ね、最後に一首の歌を刻みつけました。
かへらじとかねて思へば梓弓(あずさゆみ) なき数にいる名をぞとどむる
ーー生きては還るまいと予め決心したから、鬼籍に入る我らの名をここに書き留めるのである。
そして彼らは各自髪を切り仏殿に投げ入れ、吉野を後にしたのでした。
翌年1月5日四条畷にて、楠木軍はわずか数千騎で高兄弟軍を迎え撃ちました。一時は師直を討ち取る寸前まで追い込むなど奮戦しますが、所詮は多勢に無勢。やがて疲労しきった所を敵軍に取り囲まれた正行は観念し、弟の正時と刺し違え自害しました。嘉暦元年生とすると、享年は23になります。
最後まで残っていた30数名の兵たちも、それぞれ腹をかき切って死んで行ったといいます。
◆正行を慕った2人の逸話
戦いに明け暮れたような正行の人生ですが、唯一といえる恋の話として、弁内侍との悲恋物語があります。
弁内侍は南朝方の公家・日野俊基の息女で、才色兼備の名高い人でした。彼女を手に入れたいと考えた高師直にさらわれかけますが、通りかかった正行が救い、吉野まで内侍を送り届けます。
後村上帝は「正行がおらねば大変な事になったであろう、よく助けてくれた」と褒め、内侍を賜わろうと仰せ出ました。しかし正行は「とても世にながらふべくもあらぬ身の 仮の契をいかで結ばん」と奏して辞退します。彼の戦死後、かねてより死を覚悟していた心境を知り、皆哀悼の念を一層深くしたといいます。
断られても正行の帰還を待っていた弁内侍は、如意輪寺で正行の遺髪と共に自らの髪を葬り、出家して生涯彼の菩提を弔ったと伝わっています。
これは『吉野拾遺』に出てくる話で、でき過ぎな感もありますが、正行の禁欲的なまでに信念を貫く姿と、相手を悲しませないための思いやりが伺えます。
また京都の宝筐院には正行の首塚があり、その隣には室町幕府の2代将軍・足利義詮の墓が建てられています。寺の住職から正行の話を聞き、彼の人柄を敬慕した義詮が「死後は楠木正行の傍らに葬って欲しい」と遺言を残したためだそうです。
義詮という人は、『太平記』では"酒好きでだらしない人物"等と酷評されてますが、これはちょっといい話ですね。しかし敵方の、まして会った事もない人物をそこまで尊敬するとは、余程感ずる所があったのでしょうか。お互い偉大な父をもつ二代目として、相通ずるものを覚えたのかもですね。
*関連サイト=宝筐院ホームページ
*関連記事=・湊川神社
・TV『その時歴史が動いた〜楠木正成の実像』
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Comment
2007.01.07 Sun 00:21 |
はじめまして sakkyと申します。
伊藤博文の銅像を検索していてこちらのブログを見つけました。
私も日本史が好きで銅像や城をたずねたりしてHPに掲載しています。
まだ伊藤博文と楠木正行の項しか拝見していませんのでまた来させていただきます。
2007.01.07 Sun 22:42 |
>sakkyさん
はじめまして、コメントどうもありがとうございます。
HPを拝見させていただきましたが、同県人の方なんですね〜♪
それはともかく、日本全国の城や銅像を、すごくたくさん回られているんですね!
自分はなかなか遠出できないので、とてもうらやましいです。
他のコンテンツも、またゆっくりと見させてもらいますね。
2007.01.16 Tue 08:28 |
はじめまして・! 小袖さん の 所から来ました。
楠木一族のことは、不明な点が多く、多分に伝承がほとんどで
歴史的な真偽は、解りませんが、痕跡 伝承的な碑は、ご存知の様に河内や 摂津、和泉には多く点在しています。
敗鏡尼のお寺は 紅葉の名所。富田林からバスで行けますが
観心寺ほど 有名ではありませんから シーズンをはずせば
静かな場所です。
兵庫県に近い場所となれば JR・京阪沿線にも縁の寺院があります。
神戸の湊川神社ほど 有名ではありませんが・・・
僕は時々 友人の車で 写真を撮りに行きますが 友人は歴史がイマイチなので、花が中心になります。
男女を問わず 歴史好きさん は 少なくなってきました。
幼少年時代の読書好きが 少ない所為でしょう。
現代もそうですが・読書は人から薦められても出来るものではなく、その人が自然に踏み入る世界・・・ま、人 様々ですから・・
また 来ます。宜しくお願いします。
2007.01.17 Wed 00:15 |
>歌うカエルさん
はじめまして、ご訪問&コメントありがとうございます。
また楠木氏ゆかりの場所について、ご紹介ありがとうございました。
もし近辺に行く機会があれば、ぜひ足を運んでみたいと思います!
>>幼少年時代の読書好きが少ない
そうですね、ゆとり教育の弊害がよく言われてますが、日本だけでなく世界的にそんな傾向(子供が本を読まない)になってきてるような気がします。
読書の習慣はたしかに、強制されて身につくものでもないし、大人でも読まない人は全く読まないですからね…。
また興味のある記事があれば立寄って下さい、よろしくお願いします。
2009.03.23 Mon 22:51 | >非公開コメントの方
はじめまして。メールを送らせていただきましたが不着になってしまうようなので、こちらでお返事させてもらいます。
お尋ねの絵というのは、このリンク先のもののことでしょうか。
http://www.artnet.com/artwork/425908552/117113/kusunoki-brothers-at-the-battle-of-shijonawate.html
下のDESCRIPTIONの項を見ると、
「brothers Kusunoki Masatoki and Kusunoki Masatsura with their nephew Tazawa Nyudo Ryoen〜(以下略)」という説明があります。
つまり田澤入道なる者は、楠木正行・正時兄弟の甥にあたる人物のようです。
ちなみに、上記英文の読みから推測すると、名前は「田澤入道了圓」という表記になるのではと思います。
ただ、田澤入道で検索してみても、情報が全く出てこないんですよね…。
楠木兄弟と、彼らと共に戦って死んだ者たちを祀っている「四条畷神社」のサイトを見ても、田澤入道もしくは田澤了圓なる人物の名はありませんでした。
私が調べてみて判明したことはここまでで、これ以上の詳細はちょっとわかりかねます。お役に立てず申し訳ありません。
よろしければ、楠木氏の研究をされている人物やサイトを探して、そちらに当たられてみてはいかがでしょうか。
田澤入道のことについて、教えていただける方が見つかるといいですね。
- #-
- 影千代
- URL
2009.04.29 Wed 14:16 | 正行。いいかぁ、人と言う字はなぁ…
こんにちは。
この頃は暑くもなく寒くもなく本当にいい陽気になりましたね。
今日から連休という方も多いと思いますが、全国的に行楽日和だということで良かったです。
楠木正行のお話。興味深く拝見しました。
多少の脚色はあるにせよ、激動の時期であるが故に後の世までに語り継がれる心を揺さぶる事象が生まれるのだなぁと思いました。「私本太平記」は読んだのですが、私が足利贔屓でもあり、あまりにも多くのエピソードが押し寄せてくるので、正行の印象はあまりないんですよね
でも、正行の「最後の戦いに出向く」の矢じりで歌を刻むところはいい話ですね。楠木正成・正行はちょっと古いタイプの武者という感じがします。
源氏vs平氏、足利vs南朝、織田vs武田、官軍vs徳川など、歴史の転換点で新たな勢力が旧態を破り、その革新性が取沙汰される事があります。反面、今まで自分が信じていたものを守り続けようとして散っていった敗者の悲哀は私たちの心に響くものがありますよね。
時代劇専門チャンネルで放送中の「太平記」はご覧になっているのでしょうか? ちょうど正成の首級を河内の正行に届ける場面を放送していました。それにしてもこの「太平記」はすごい作品だと思います。神がかりだとか奇跡のという形容がふさわしい稀代の作ではないでしょうか?このような映像作品には重文とか国宝の対象にならないのでしょうかね。国民の宝と言う価値が十分にあると思います。いま、同等の作品を作れといわれても、NHKを始めどの局でも不可能なのではないでしょうか。
それにしても、尊氏、正成、義貞の長兄達が思慮深いのに対して、それぞれの弟達の直情、単細胞ぶりがちょっと可笑しいです。
ではまたお邪魔致します。
- #DGRzt1hQ
- 白天目
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2009.05.01 Fri 23:14 | >白天目さん
こんばんは。
たしかに楠木父子には、源平〜鎌倉時代の武士に通ずる、前時代的な美学が感じられますね。
彼らとは真逆に、高師直のような超ドライな人物がいたりするのも、混沌とした南北朝時代の魅力の一つかなとも思います。
「太平記」は毎日視聴する暇がなかなかないので、全話録画して少しずつ見ています。
放送の方では、そろそろ足利兄弟が決裂していくくだりに入っていくようですね。
前半に比べて後半はえらく駆け足なんだなあと思いましたが、これは原作に沿った展開だったんですね(吉川英治氏が執筆途中で病魔に冒されたため、ハイペースで仕上げたとか…)
TV局も今不景気で、ドラマよりもお手軽なバラエティが増えているようですから、傑作が生まれる機会も増々減っていくかもしれませんね…。
でもCSやDVDなどで過去の名作を楽しめるという意味では、現代は恵まれているのかなとも感じます。
話は大幅にずれますが、先日「紅葉狩」という現存する日本最古の映画フィルムが、重文に指定されたというニュースを見ました。
建築や美術品だけでなく、今後はこういった映像作品やレコード・写真など近代の文化資料も、重文の対象となる事が増えていくのかもしれません。
なので、「太平記」も何十年後かには文化財の指定を受けているかもしれませんよ!?