中先代の乱(2)〜20日間の統治者
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◆鎌倉へ進軍
西園寺公宗の陰謀事件が発覚した翌月の建武2年(1335)7月。北条時行を大将に押立てた諏訪、滋野、三浦氏などによる軍が、信濃で挙兵しました。京での計画が頓挫しようが、最早後に引く訳にはいかなかったのでしょう。
7月14日、時行軍は青沼において信濃守護・小笠原貞宗と戦い、近隣の支持勢力を糾合しつつ武蔵へと入り、たちまちのうちに鎌倉へ迫りました。『太平記』では兵の数五万余騎と伝えており、誇張があるとしても軍勢は相当数に膨れ上がっていたようです。
当時鎌倉は、足利尊氏の弟・直義が管轄していました。彼はただちに鎮定軍を差し向けますが大敗を喫し、渋川義季(直義の義弟)・小山秀朝らの有力武将を失ってしまいます。やむを得ず直義自ら出陣するものの再度撃破され、ついに一旦鎌倉から撤退することを余儀なくされました。
この時鎌倉では、後醍醐天皇の皇子・護良親王が、皇位簒奪を企てたという疑いをかけられ寺に幽閉されていました。直義は親王が時行軍の手に渡ってしまう事を警戒し、退却直前に家臣を使わし親王を斬ってしまいました。
◆つかの間の勝利
7月25日、時行は鎌倉へ入りました。父の高時を始めとする一族が炎の中で命を絶って以来、2年2ヶ月ぶりの帰還です。早速この父祖代々の故地で、北条氏政権の復活が宣言されました。
8月12日、時行の奉行人が連署した文書に、建武ではなく「正慶4年」という年号が記載されています(「南北朝史100話」)。正慶とは、かつて鎌倉幕府が後醍醐天皇を隠岐に流し光厳天皇を擁立した時に使用していた年号で、建武新政以前への回帰を示しています。
三河まで退いた直義から報せを受け取った尊氏は、直ちに時行軍征伐の許可を後醍醐天皇に願い出ます。同時に彼は「征夷大将軍と総追捕使への任官」を奏請しますが、武家政権樹立という尊氏の野望を察した天皇は、要請を一切拒否しました。
8月2日、尊氏は天皇の許しを得られぬまま、独断で出発します。直義軍と合流し、8月9日に遠江での戦いに勝利したのを皮切りに、その10日後にはあっさり鎌倉の奪回に成功。北条氏再興を謳った反乱軍が鎌倉を占領したのは、わずか20日ほどのことでした。
諏訪頼重ら時行軍の中心武将43名は、勝長寿院で自刃して果てました。遺骸はみな顔の皮を剥いであったため、誰が誰だか見分けがつかず、話を聞いた人々は「おそらく北条時行も一緒に自害したのだろう、かわいそうに」と哀れんだといいます。しかしこれは、時行を無事に逃すために、彼がここで死んだと見せかける策略でした。
◆鎌倉へ進軍
西園寺公宗の陰謀事件が発覚した翌月の建武2年(1335)7月。北条時行を大将に押立てた諏訪、滋野、三浦氏などによる軍が、信濃で挙兵しました。京での計画が頓挫しようが、最早後に引く訳にはいかなかったのでしょう。
7月14日、時行軍は青沼において信濃守護・小笠原貞宗と戦い、近隣の支持勢力を糾合しつつ武蔵へと入り、たちまちのうちに鎌倉へ迫りました。『太平記』では兵の数五万余騎と伝えており、誇張があるとしても軍勢は相当数に膨れ上がっていたようです。
当時鎌倉は、足利尊氏の弟・直義が管轄していました。彼はただちに鎮定軍を差し向けますが大敗を喫し、渋川義季(直義の義弟)・小山秀朝らの有力武将を失ってしまいます。やむを得ず直義自ら出陣するものの再度撃破され、ついに一旦鎌倉から撤退することを余儀なくされました。
この時鎌倉では、後醍醐天皇の皇子・護良親王が、皇位簒奪を企てたという疑いをかけられ寺に幽閉されていました。直義は親王が時行軍の手に渡ってしまう事を警戒し、退却直前に家臣を使わし親王を斬ってしまいました。
◆つかの間の勝利
7月25日、時行は鎌倉へ入りました。父の高時を始めとする一族が炎の中で命を絶って以来、2年2ヶ月ぶりの帰還です。早速この父祖代々の故地で、北条氏政権の復活が宣言されました。
8月12日、時行の奉行人が連署した文書に、建武ではなく「正慶4年」という年号が記載されています(「南北朝史100話」)。正慶とは、かつて鎌倉幕府が後醍醐天皇を隠岐に流し光厳天皇を擁立した時に使用していた年号で、建武新政以前への回帰を示しています。
三河まで退いた直義から報せを受け取った尊氏は、直ちに時行軍征伐の許可を後醍醐天皇に願い出ます。同時に彼は「征夷大将軍と総追捕使への任官」を奏請しますが、武家政権樹立という尊氏の野望を察した天皇は、要請を一切拒否しました。
8月2日、尊氏は天皇の許しを得られぬまま、独断で出発します。直義軍と合流し、8月9日に遠江での戦いに勝利したのを皮切りに、その10日後にはあっさり鎌倉の奪回に成功。北条氏再興を謳った反乱軍が鎌倉を占領したのは、わずか20日ほどのことでした。
諏訪頼重ら時行軍の中心武将43名は、勝長寿院で自刃して果てました。遺骸はみな顔の皮を剥いであったため、誰が誰だか見分けがつかず、話を聞いた人々は「おそらく北条時行も一緒に自害したのだろう、かわいそうに」と哀れんだといいます。しかしこれは、時行を無事に逃すために、彼がここで死んだと見せかける策略でした。
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