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歴史本『黄門さまと犬公方』

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構想五年、史料の森に踏み入り手さぐりで見つけた真の姿が、三百年の時空を超えて、いま立ち上がる。

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中先代の乱(3)〜その後の北条時行

<前回の記事はこちら→(1)(2)

◆南朝への帰順
北条時行の名が次に歴史上に現れるのは、中先代の乱から2年経った延元2年(1337)7月のことです。
『太平記』によると、時行は吉野の後醍醐天皇のもとに使者を送り、南朝への帰順を願い出ました。
「我が父・高時は先年滅亡しましたが、それは臣たる道をわきまえなかった結果なので、私は帝を少しもお恨みしておりませぬ。足利尊氏や新田義貞も、勅命により行動したのですから、北条に刃を向けた件について憤りはありません。しかし尊氏は、いまや朝敵であります。そもそも彼が現在の地位にあるのは、北条が足利家を優遇したからこそ。なのに尊氏はその恩を忘れている上、今また帝に背くという大罪を犯しています。故に我ら一族は、今後は足利兄弟のみを敵としようと決意いたしました。私は不忠の父の子ですが、御赦しの綸旨を賜われば、帝の臣下として喜んで働く所存です。」
書状の内容を伝え聞いた後醍醐天皇は、朝敵恩赦の綸旨を下すことを認めた―とあります。

この頃の時行はまだせいぜい11〜12歳の少年(*1)なので、書かれている内容はおそらく本人の意思というよりも、側近たちの差し金なのでしょう。朝廷や新田氏を全く恨んでなかったとは思えませんが、足利尊氏こそが最も許し難い存在であるという件には、時行一党の本音が含まれているのではと感じます。

◆足利方との戦い
正式に南朝の武将となった時行は、京都奪回のため奥州から西上してきた鎮守府将軍・北畠顕家の軍に加わりました。北畠軍は怒濤の勢いで進撃し、翌年1月の美濃青野原(後の関ヶ原)の戦いで足利軍に勝利。ところが京を目前にしながら、顕家は進路を伊勢に変更しました。長い遠征で兵力が減少・疲弊していたためとも、援軍を命じられた新田義貞に功を奪われるのを顕家が嫌ったとも言われています。
北畠軍の運命は暗転し、伊勢から伊賀、大和へと軍を進めたものの、形勢はジリ貧となっていきます。そして5月、和泉堺浦で高師直率いる大軍に敗れ、顕家は21歳で戦死しました。しかし時行は辛うじて追手を逃れます。

2年後の暦応3年/興国元年(1340)6月、時行は諏訪頼継(頼重の孫)ら旧臣と共に、信濃伊那の大徳王寺城で兵を挙げました。しかし間もなく信濃守護・小笠原貞宗の軍に城を包囲され、4ヶ月後の10月23日に大徳王寺城は落城(*2)。時行はまたもや潜伏を強いられることとなるのです。

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中先代の乱(2)〜20日間の統治者

<前回の記事(1)はこちらへ>

◆鎌倉へ進軍
西園寺公宗の陰謀事件が発覚した翌月の建武2年(1335)7月。北条時行を大将に押立てた諏訪、滋野、三浦氏などによる軍が、信濃で挙兵しました。京での計画が頓挫しようが、最早後に引く訳にはいかなかったのでしょう。
7月14日、時行軍は青沼において信濃守護・小笠原貞宗と戦い、近隣の支持勢力を糾合しつつ武蔵へと入り、たちまちのうちに鎌倉へ迫りました。『太平記』では兵の数五万余騎と伝えており、誇張があるとしても軍勢は相当数に膨れ上がっていたようです。

当時鎌倉は、足利尊氏の弟・直義が管轄していました。彼はただちに鎮定軍を差し向けますが大敗を喫し、渋川義季(直義の義弟)・小山秀朝らの有力武将を失ってしまいます。やむを得ず直義自ら出陣するものの再度撃破され、ついに一旦鎌倉から撤退することを余儀なくされました。
この時鎌倉では、後醍醐天皇の皇子・護良親王が、皇位簒奪を企てたという疑いをかけられ寺に幽閉されていました。直義は親王が時行軍の手に渡ってしまう事を警戒し、退却直前に家臣を使わし親王を斬ってしまいました。

◆つかの間の勝利
7月25日、時行は鎌倉へ入りました。父の高時を始めとする一族が炎の中で命を絶って以来、2年2ヶ月ぶりの帰還です。早速この父祖代々の故地で、北条氏政権の復活が宣言されました。
8月12日、時行の奉行人が連署した文書に、建武ではなく「正慶4年」という年号が記載されています(「南北朝史100話」)。正慶とは、かつて鎌倉幕府が後醍醐天皇を隠岐に流し光厳天皇を擁立した時に使用していた年号で、建武新政以前への回帰を示しています。

三河まで退いた直義から報せを受け取った尊氏は、直ちに時行軍征伐の許可を後醍醐天皇に願い出ます。同時に彼は「征夷大将軍と総追捕使への任官」を奏請しますが、武家政権樹立という尊氏の野望を察した天皇は、要請を一切拒否しました。
8月2日、尊氏は天皇の許しを得られぬまま、独断で出発します。直義軍と合流し、8月9日に遠江での戦いに勝利したのを皮切りに、その10日後にはあっさり鎌倉の奪回に成功。北条氏再興を謳った反乱軍が鎌倉を占領したのは、わずか20日ほどのことでした。

諏訪頼重ら時行軍の中心武将43名は、勝長寿院で自刃して果てました。遺骸はみな顔の皮を剥いであったため、誰が誰だか見分けがつかず、話を聞いた人々は「おそらく北条時行も一緒に自害したのだろう、かわいそうに」と哀れんだといいます。しかしこれは、時行を無事に逃すために、彼がここで死んだと見せかける策略でした。

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中先代の乱(1)〜勃発までの経緯

建武2年(1335)7月に起こった中先代の乱は、北条時行(高時の遺児)を擁立した北条家遺臣による反乱です。中先代とは、北条氏を先代の支配者、足利氏を当代とすると、その間に一時的ではあるものの時行が鎌倉を制圧したことから呼ばれました。
乱そのものは20日ほどで鎮圧されましたが、この戦いにより二つの重要な事件が誘発され、以降の南北朝動乱の流れに大きな影響を与えたのです。

◆父と兄との別れ
元弘3年/正慶2年(1333)の5月28日、新田義貞率いる大軍に総攻撃を受け、北条一族数百名は東勝寺で自害しましたが、高時の2人の息子・邦時と亀寿丸はひそかに鎌倉を脱出します。兄の邦時は、母方の伯父である五大院宗繁に託されましたが、宗繁が裏切って新田軍に密告したため捕えられ、わずか9歳で処刑されてしまいました。
いっぽう亀寿丸は、高時の弟・北条泰家の計らいで、家臣の諏訪盛高に護られ無事に信濃へ落ち延びました。信濃は北条氏が代々守護として支配した国であり、また諏訪社の神官である諏訪氏は北条譜代の家臣だったのです。当主の諏訪頼重に匿われた亀寿丸はこの地で元服し、相模次郎時行と名乗りました。

◆相次ぐ北条残党の反乱
鎌倉幕府滅亡後も、北条氏の一族・旧臣は断続的に各地で兵を挙げ、新政権への反抗を試みていました。
ひとつずつ詳細を書くと長くなるため、乱の起こった場所と年月、主な首謀者のみ記しておきます。

・奥州北部(1333年冬〜1335年1月) 名越時如、安達高景
・南関東(1334年3月、8月) 3月=渋谷氏、本間氏 8月=葛西氏、江戸氏
・北九州(1334年1月〜7月) 規矩(きく)高政、糸田貞義
・日向(1334年7月) 遠江掃部助三郎、同四郎
・越後(1334年7月) 小泉持長、大河将長
・紀州(1334年10月〜1335年1月) 六十谷(むそだに)定尚
・長門(1335年1月) 北条上野四郎
・伊予(1335年2月〜5月) 赤橋重時

これらの挙兵には、北条一族・家人の他に地元の豪族も参加している場合があり、建武の新政への強い不満が読み取れます。特に奥州・紀州・北九州はかなりの規模の反乱でしたが(紀州では楠木正成が討伐に赴いている)、結局全て鎮圧されています。

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