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阿部一族の悲劇の真相

森鴎外が大正2年(1913)に発表した『阿部一族』は、封建社会における「殉死」を描いた傑作として広く知られています。鴎外が「歴史其儘(そのまま)」と位置づけた、できる限り史料に沿った記述内容と、ルポルタージュを思わせるような抑えた筆致により、この小説に書かれた内容が史実と認識している方も多いと思います。
いわゆる「阿部騒動」は本当に起こった事件ではありますが、小説と事実とは少し異なる部分があるのはあまり知られていないようです。

『阿部一族』のあらすじを一応紹介しておくと
 ―肥後藩主・細川忠利の死に際して、重臣の阿部弥一右衛門は殉死を願い出るが、彼を煙たがっていた忠利は許可せずに息を引き取った。周囲から卑怯者呼ばわりされた弥一右衛門は、生き恥を晒すわけにいかないと切腹したが、殉死でなく犬死と見なされて遺族は差別的な扱いを受ける。屈辱に耐えかねた阿部一族が取った行動は― という物語です。

鴎外が執筆の参考とした史料は『阿部茶事談』という書物で、作中にも登場する阿部家の隣人だった栖本(小説では柄本)又七郎が著者とされています。しかし後に、この本が書かれたのは事件から80〜100年後と推定される事がわかりました。当然ながら一次史料としては扱えず、さらに藤本千鶴子氏・山本博文氏などの研究によって、かなりの脚色部分があると判明したのです。
まず阿部弥一右衛門の死に関して。

・弥一右衛門は後追いではなく、他の殉死者の大多数と同じ日に切腹した
・殉死希望者は、忠利ではなく先君の逝去後に跡継の光尚に願い出た
・実は弥一右衛門以外の殉死者も、光尚から殉死の許可を得られなかった

これらは、肥後藩の政務日誌『日帳』に記載されているそうです。新当主の光尚は、殉死は一切禁ずる旨を通達しました。しかし弥一右衛門を含む希望者一同は、君命を守らず切腹したのです。
彼らを止められなかった藩側にも責任はあるとされたのか、殉死者たちの「罪」は黙認のような形になり、子孫への相続も許されました。無論、阿部家のみが特別差別的な扱いを受けた訳ではなかったのです。その後、嫡男の権兵衛を始めとする一族が滅亡へ追い込まれたのは、光尚体制下の新勢力との対立に巻き込まれたのではと考えられており、弥一右衛門の死とはほぼ関係ないようです。
藤本氏によると、弥一右衛門はもともと豊前の惣庄屋の出身で、才覚を見込まれて忠利に抜擢され、千石の高禄を与えられた人物だそうです。もしかすると細川家の譜代の家臣たちの間に、弥一右衛門に対し「農民上がりのくせに…」的な侮蔑と妬みの感情があり、その憎しみが彼の子息の排斥に繋がったのかもしれませんね。

熊本の細川忠利の霊廟の周りには、この時の殉死者19名の墓があり、その中には阿部弥一右衛門の墓も含まれています。鴎外も作中で「上(かみ)では弥一右衛門の遺骸を霊屋のかたわらに葬ることを許したのであるから」とこの事実には触れているのですが、小説の通り弥一右衛門が「主君に嫌われてたくせに、勝手に切腹した不届き者」であるなら、忠利の傍らに葬られるのを許されるのはよく考えれば不自然ですよね。

ちょっと揚げ足取りのようにもなってしまいましたが、多少事実と異なるからといって『阿部一族』の文学的な価値が減ずるわけではもちろんありません!
ちなみに江戸幕府が公式に殉死の禁を制定したのは、弥一右衛門の死から20数年経った寛文3年(1663)のことでした。

・参考書籍=「殉死の構造」

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悩みの種のサイコロ

京都新聞「堀河院跡から平安後期のサイコロ 白河上皇悩ませた?」
 院政を始めた白河上皇が住んだ京都市中京区の堀河院跡の発掘調査で、平安後期のサイコロが出土していたことが17日までに分かった。賭博に興じた貴族らの日常がうかがえる。
 市立音楽高校移設に伴い、旧城巽中跡地を京都市埋蔵文化財研究所が昨年調査、11世紀中ごろ−後半の池跡などが見つかっている。
 サイコロは池跡近くの柱穴から出土。素焼きの陶製で一辺1.6センチの立方体。目は失われていたが、転がりやすいように、角は丸みを帯びていた。
 平家物語によると、権勢を極めた白河上皇は「鴨川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師だけは思いのままにならない」と嘆いたとされる。担当者は「上皇を悩ませた賽の一つだろうか」と話している。


この白河上皇の有名な台詞は、平家物語の巻一「願立(がんだて)」に出てきます。
延暦寺などの有力寺社が強訴に及ぶ様の脅威を描いており、その中で『賀茂河の水、双六の賽、山法師。是ぞわが心にかなはぬもの』と白河院が語った言葉を引き、院庁の権力をもってしても神威と強力な僧兵をバックにした山門の抑制は容易でなかった事情を表しています。

さて、今回出土した「双六の賽」ですが、この意味は「双六賭博が大流行し、いくら取り締まっても埒が空かない」事かと思い込んでいたのですが、それとは別に「上皇自身の双六の腕前の下手さを嘆いている」という解釈もあるようですね。
白河院の享楽的な性質から考えると、後者の解釈の方が相応しいかな?という気がしないでもないです(^^;

ちなみに堀川院は平安京の名邸の一つとされていましたが、惜しくも白河上皇の晩年に焼失してしまったそうです。
跡地は二条城の東隣に位置し、京都国際ホテル前に石碑が、全日空ホテルの駐車場内には庭園の滝口が復元されています。

・参考サイト=平安京探偵団 堀川院跡

大河ドラマ『篤姫』第35回「疑惑の懐剣」

和宮が嫁いで来て以来、すっかりベタベタな路線になってますなあ。大奥の女の戦いといえば、ある意味お約束パターンになるのは致し方ないんですかね。江戸方と京方の侍女同士が対立していたのは事実ですし…。私は大奥ものも別に嫌いじゃないので、盛大にやり合って頂いても構わないのですが、苦手な人には辛い展開だろうなと思います。
堀北ちゃんの宮さまメイクも、数回見てようやっと慣れてきましたが(個人的には、美空ひばりの和宮よりは彼女の方がマシかと…)、気になるのがこのドラマの和宮さま、いつも同じ御召し物をされてませんか?3、4着くらいしかないような…。それくらい朝廷の財政はピーピーだったてことなのか!?

一方きな臭くなってきた薩摩の政情ですが、ついに久光が京への進発を決意し、島流しを解かれた西郷に意見を求めます。西郷は「無位無官の時ごろ(田舎もん)が上洛しても何もできないでしょう」と言い放ち、久光は激怒。
この「地ごろ発言」は有名な話なので知ってるんですが、ドラマとして見ると西郷の心境の推移が省略されているため、初対面の主君に対して乱暴な言葉を使うのが、非常に唐突に感じられてしまいました。月照上人のことなどもあり、久光に複雑な思いを抱いてるのだろうという想像はつきますが…。島から帰って急に性格が変わってしまったように見えます。
その直後、大久保に「久光様は斉彬様のご遺志を継ごうとされてるのだから」と説得されると、ころっと態度を軟化させ、笑顔で京への同行を承諾。かなり単純な西郷どん・・・?
薩摩国内のことはあくまでもサブプロットですから、あまり時間を費やせないのはわかりますけども、今回の西郷の描写には違和感が残りました。まあ「地ごろ」と言われた時の久光のキレっぷりはちょっと笑えましたが(^^;

そうそう、ラスト近くで初お目見えした玉木宏演じる坂本龍馬ですが・・・なんじゃあのちょい役(笑)。つかあんな扱いなら、無理に今回出さなくともよかっただろうと思うんだけど。次の出番は勝先生に弟子入りする時でしょうか。
ところで、岩倉具視役の鶴太郎は「おーほっほっほ」と高笑いすると、『太平記』の北条高時にしか見えない・・・と思っていたら、検索してみると某2ち○んねるで全く同趣旨のスレッドがあってウケました。皆思うことは一緒なんですね!

*関連記事=・大河ドラマ『篤姫』第30回「将軍の母」
      ・大河ドラマ『篤姫』第12回「さらば桜島」
      ・大河ドラマ『篤姫』第1回「天命の子」
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