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歴史占い・パート4

まずは「百人一首占い」から行ってみまーす。

★運命数9の貴方は…人間好きな蝉丸★
<性格>
柔軟な貴方は、蝉丸タイプ。
基本的に器用なので、何でもそつなくこなせるし、柔軟な考え方が出来るのでいろいろな仕事や環境にもすぐ対応できます。が、出来ることイコールやりたいことではないかも。本当に自分のやりたいことを見極めて。
また、根っから人間が好きで、「人はみんな何処かしらいいところがある」と思っているので、誰とでもうまくやっていけます。困った人を見ると助けてあげたくなる優しさを持っています。 ただし、内心は好き嫌いが多く、そのためのジレンマに陥ったりします。嫌いな人でも「悪い人じゃないから」と許してしまい、無理に我慢することもあります。本当は帰りたいのに誘われると断れず、後で後悔することも。
<恋愛>
独りぼっちが苦手な貴方は、それほど好きでない相手と付き合うこともありそう。基本的に、誰とでもうまくやれるタイプです。八方美人に見られがち。ただし、内心好き嫌いが激しいので、親しくなってから嫌いになっても、なかなかイヤな顔が出来ず心の中ではイライラすることも。大人の人と付き合うと精神的に落ち着きます。

好き嫌いは多いですねえ、たしかに。
でも昔は誘いを断れないタイプだったけど、最近は図々しくなって普通に断ってるよ(^^;
あと、それほど好きでない相手と付き合うことはありえません!独りも平気だし。

坊主めくりで有名な蝉丸のプロフィール&和歌はこちら。

★蝉丸とは…
実のところ、蝉丸が何者なのか、はっきりしていません。一応、お坊さんらしい格好をしているので、「坊主めくり」では「坊主」とされているのですが。敦実親王に仕える雑色だった、とか、実は醍醐天皇の皇子だったとか、その正体は未だ謎に包まれています。一説によると、蝉丸は琵琶の名手で、逢坂の関所の近くの庵に住んでいて、人々が行き交うのを見るのが好きだったといわれています。

これやこの 行くも帰るもわかれては 
         しるもしらぬも 逢坂の関       蝉丸 
(意味)旅へ行く人も、都へ帰る人も、知った者同士も見知らぬ者も、別れては逢い、逢っては別れ、の繰り返し。その名を暗示するような、ここが逢坂の関。


他の運命数の結果も見てみると、なかなかマニアック?な顔ぶれが揃っていておもしろかったです。
私の好みとしては、式子内親王がよかったかな…なんとなく。

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大河ドラマ『篤姫』第12回「さらば桜島」

初回以降感想を書いてなかった『篤姫』ですが、なんとか頑張って毎週見ております。
今週はついに薩摩から旅立つ区切りの回だったので、今までの総括も含めた感想を書いてみます(ちょっと辛口かも)。

視聴率はとっても好調のようですし、前述のように自分も一応毎回見てますけど、個人的には乗り切れない部分があるというか…でも全く面白くないわけでもなく…というような微妙な印象なんですよね。
正直言って2回目以降は、箸にも棒にもかからないホームドラマ&青春コメディのノリについていけなくて、もう見るのやめようかなと思ってたんですよ。まあ於一が養女になる話が出た辺りから、彼女も尚五郎も少ーし成長したし、物語も本格的に動き始めたので、ちょっと視聴意欲は復活したんですが。

じゃあ何が引っかかるのかといえば、島津斉彬が於一を見込んで、将軍の御台所に送り込もうと決めたことに、どうも説得力が感じられなかったんですね。
当時のお姫様としては常識外れな彼女のキャラが、斉彬の心を捉えたという設定なのはわかります。ただ天真爛漫&自由奔放な面が強調され過ぎてて、「姫様は賢い」「器が大きい」と言う台詞を聞いても、「そうかぁ?」としか思えなくて(笑)。やんちゃ姫でもいいのですが、同時にもっと人・女性として賢明な部分を併せ持つ所を見せて欲しかったな。日本外史を愛読したり、囲碁が得意といった表面的な描写はありましたが…。
でも斉彬から自分の定めを聞かされてからの篤姫は、腹をくくったというかしっかりしてきましたね。今回、江戸へ行く覚悟を固めながらも家族や友人を前にすると感情を抑えきれなかったシーンも、なかなかよかったと思います。

あと、一部で物議を醸した?「まぶたに目を描いて驚かせる」のを始めとして、やり過ぎつーかクドい演出が時折見受けられるのよね。おふざけシーン以外でも、今回ラスト近くで篤姫が桜島に向かって叫んじゃうあたりとか、うーんどうも…。
こういうベタな部分もこのドラマが広く受けている一因なのかもですが、私的には程々にして欲しいなと感じます。

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歴史バトン

えっと、「このブログについて」の欄を見た事のある方はご存知かと思いますが、今まで私は「バトンの類いは回してもらってもやりません」というスタンスを取ってました。
理由を説明すると、このブログを立ち上げた頃はちょうどバトンが大流行りで、私的には「こんなの回されても困るわー」と感じるのも多かったんですよ。異常に設問の数が多かったり、内容が腐女子っぽいものとか(笑)
選り好みして引き受けるのも相手側にしたらカチンとくるだろうし、だったらバトンは全くやらない方が皆に対してフェアになるかと考えて、そうしていたんですね。

でもバトンのブームももうだいぶ下火になったし、ここのブログの趣旨に沿ったもの(歴史に関する内容)なら、まあ答えてみてもいいかーと思うようになって。むしろ、記事のネタができて助かるかなと(^^;
という訳で、「バトンについて」の項目も書き換えさせてもらいました。ただ、もし記事を書く時間がなかなか取れそうにない時などはお断りさせてもらうかもしれませんので、その点はご了承下さいね。

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TV『その時歴史が動いた〜戦国北条氏』

 戦国時代に五代・百年にわたって関東を支配した北条一族。その終焉は、豊臣秀吉と闘った小田原攻めだった。この合戦は、秀吉に天下統一をもたらす戦いであると同時に、各地方独自の特色ある領国経営「地方分権」を守ろうとする北条氏と、全国一律の規格化された政治形態「中央集権」を目指す秀吉との闘いでもあった。
 北条氏が固守した地方分権の政治とは、どのようなものだったのか。その鍵は、初代早雲が定めた家訓「早雲寺殿廿一箇条」にある。『上下万民に対し、一言半句にても虚言を申すべからず。』すべての領民に対して誠実であることが重要だと説いた早雲の教えは、二代目以降の北条家当主たちに忠実に守り続けられ、年貢の軽減や目安箱の設置、裁判制度の整備など、民を第一に考えた独自の領国経営が進められていった。そうした北条氏の政策を領民も支持。主従一体となった理想の政治が実現し、それが北条氏の誇りでもあった。
 番組では、徳川家康、伊達政宗との三国同盟を軸に秀吉との闘いに挑んだ、北条一族の独立国家構想と、その揺るぎない信念に迫る。

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鎌倉公方と関東管領

前回の上杉憲実の記事で、補足として鎌倉公方と関東管領についても説明したかったんですが、長くなってしまうので独立させて記事を書いてみました。

鎌倉(関東)公方とは、室町幕府が関東統治のために置いた出先機関・鎌倉府の長官のことを指し、関八州に甲斐・伊豆を併せた十ヶ国を管轄する役割を負っていました。足利義詮の弟・基氏を初代とし、その後は彼の子孫が世襲しています。そして鎌倉公方の補佐役である関東管領は、初期を除いて上杉氏が代々就任しました。

◆本来の名称
最初、鎌倉府長官は「関東管領」、補佐役のことは「関東執事」と呼ばれていました。
足利持氏が、自分は京の将軍と同格であるとして「公方」と自称し始め、それに伴って関東執事も「関東管領」に呼び方が昇格?した・・・と言われてます*が、これはあくまで鎌倉方での名称で、幕府で正式に認められたものではありませんでした。しかし足利成氏(持氏の子)の時代になると、現状追認なのか「(関東)公方」の名乗りが許されるようになったようです。
(*=関東公方・関東管領の名称は、初代の基氏の時から既に使われていた説もあります)
いちいち使い分けてもややこしくなるので、この記事では以下「鎌倉公方・関東管領」で統一します。

◆将軍家との対立
康暦元年(1379)、室町幕府の管領・細川頼之が失脚したクーデター「康暦の政変」が起こりました。当時の鎌倉公方だった基氏の息子・氏満は、幕府内のドサクサに紛れて挙兵し将軍・義満を討とうと決意。関東管領の上杉憲春は必死で止めますが氏満は聞かず、ついに憲春は諫死して果てます。衝撃を受けた氏満は企てを断念、将軍に対し野心はない旨の書状を義満に送り、幕府と鎌倉府の衝突は回避されたのでした。

20年後の応永6年(1399)周防の守護大名の大内義弘が幕府に対して大規模な叛乱(応永の乱)を起こしますが、義弘と密かに結託していたのが、氏満の子である満兼でした。この時も関東管領・上杉朝宗に諫止されたものの、満兼はそれを振り切って自ら出陣。しかし途中で義弘の敗死を耳にして、やむなく引き返したのでした。そして永享の乱を引き起こした持氏は、この満兼の嫡男にあたります。

こういう訳で、鎌倉公方と京の将軍家は常に緊張関係にありました。彼らの中には「自分たちも尊氏公の子孫なのに、なぜ将軍家より一段下の地位に甘んじないといけないのか」という思いがあったのでしょう。仮に憲実が持氏の反抗をどうにか抑え込んだとしても、いずれは幕府と鎌倉府の直接対決は避けられなかったと思われます。

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悩める関東管領 ー 上杉憲実

上杉憲実は足利学校を再興した事で知られている人物ですが、その人生は波乱の連続でした。後半生は僧侶となって諸国を放浪し、最後は関東から遠く離れた長門国で生涯を終えています。関東管領を務めていた人物が世捨て人のようになったのは、どんな経緯があったのでしょうか。

◆2人の権力者の間で
憲実は応永17年(1410)生まれ。生家は関東管領を世襲していた山内上杉氏の庶流・越後上杉氏ですが、山内家で跡継ぎが途絶えたために応永25年(1418)鎌倉へ迎えられ、翌年わずか10歳で管領職に就任しました。
当時の関東公方を務めていたのは、憲実よりちょうど一回り年上の足利持氏。彼は非常に野心的で個性の強い人物でしたが、当初は憲実が幼かったこともあってか、別段トラブルもなくやっていたようです。主従の間に波風が立ち始めたのは応永35年(1428)のこと、京の将軍家での出来事がきっかけでした。

この年に前将軍の足利義持が没し、弟の義教が籤引きで選ばれて6代将軍になりますが、持氏はこれに頗る不満を抱きました。
彼は「関東公方家は将軍家と対等である」と認識して将軍への野望を持っており、義持の生前「義持殿の猶子となって上洛したい」と要望していたのです。しかし自分が候補にさえ入らなかったのに腹を立て、兵を率いて上洛しようとしました。結局、憲実の諌止によりどうにか思い止まりましたが、これ以降義教に執拗に反抗を続ける持氏と、幕府との関係を平穏無事にと願う憲実の間には、次第に溝が広がっていく事になります。

その後も持氏は、改元を無視し前の年号を使い続けたり、幕府の分国である信濃守護の小笠原氏と豪族の村上氏の争いに介入を企んだり、嫡男を勝手に「義久」と名付けたり(本来は将軍から名を賜る慣例)などやりたい放題。その度に憲実は持氏を諌め、京へ謝罪の使節を派遣したりと、一貫して鎌倉と幕府との調停に努めました。
関東管領の任命権は将軍にあり、彼にとっては持氏と義教の両人共が忠義を尽すべき主君だったのです。しかし持氏は、永享6年(1434)鶴岡八幡宮に「呪詛怨敵(義教のこと)を払いのけたまえ」と書き付けた血書を奉納したりと、憲実の憂慮にも関わらず幕府との対立を深めていくばかりでした。

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