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大河ドラマ『風林火山』最終回「決戦川中島」

えっとまず、不満点から書きます。同じ事を思った人は多いのではと想像しますが、
勘助が死ぬまでが長すぎ!!
斬り付けられた上に、銃弾を腹に数発喰らってまだしぶとく生きてるって、あんたはラスプーチンかもしくはゾンビか…?てのはさておき、ちょっとしつこくて冗長に感じたんですよね。後述しますけど川中島の戦いの回を通じて名シーンが色々あったと思うので、最終回を延長した事自体は異論ないですが、勘助の死も引っ張らないといけなくなったのは誤算かも?という気がしました。

死ぬまで長いとブーたれたものの、傷を負った勘助の視線の先に、蜃気楼の如く白馬に乗った上杉政虎が浮かび上がるシーンはよかったです。その後、妻女山から武田軍の援軍がようやく到着し、真田の六文銭が翻るのを見た瀕死の勘助が「勝った…」と呟くところも好きでした。
あそうそう、政虎といえば信玄との一騎討ち、カッコよかった!静の信玄と動の政虎との対比が、とても決まっていたと思います。そういやGacktは、ライブで馬に乗ってる姿をプロデューサーが見て起用されたんだよな〜という事を思い出しました。
あと勘助・信繁・諸角の遺体を囲んで、勝ちどきを上げる信玄と武将たちのシーン。力強いけどもどこかもの悲しいその雄叫びは、勝利は収めたものの非常に大きな犠牲を払った事実を表してるようで、夕陽の美しさと共に印象に残りました。

そしてラストは、戦場に咲く名もなき花と眼帯が映され「勘助の心の中に花が見えるから、勘助のこと怖くないずら」という、かつてミツが勘助にかけた台詞で締めくくられました。これは私的には回想シーン以上に効果絶大で、思わず涙腺が弛んでしまいました。
勘助の原点は、彼を初めて受け入れてくれたミツや、最期まで行動を共にする事になった伝兵衛と太吉、そして武田家に仕官するきっかけをくれた板垣と出会った、葛笠村での日々にあることを象徴しているのかなと感じました。

最終回なのに、なんだか全くまとまってない感想になってしまいましたけど、一年間見続けて来た『風林火山』もこうして幕を閉じました。
最近の大河ドラマの中では一番の出来映えだったと思います。

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平氏の南都焼き討ち(2)

<前回の記事(1)はこちらへ

◆南都の壊滅
12月25日、清盛の五男・重衡を大将軍、甥の通盛を副将軍とする追討軍が南都に向けて進発しました。小競り合いを経て、戦いは28日に決着がつきました。
中山忠親の日記『山槐記』には、同日の未の刻(午後2時頃)に「南方に煙が立ち上っているのが見えた。夜になると炎の光がより鮮明に輝くようになった。追討軍が奈良の在家に火を放ったか、あるいは衆徒が放火したのか」と記されています。けれども実際は、忠親が想像しえなかった事態になっていたのです。

南都に侵入した追討軍が寺に放った火により、興福寺・東大寺を中心に付近の諸寺は壊滅的な被害を受けました。東大寺は金堂(大仏殿)など大半の伽藍が焼失、かろうじて正倉院などいくつかの倉が残ったのみでした。興福寺も38カ所の堂舎が焼失し、多数の貴重な仏像や経典も失われました。また修学の僧侶や住民などの非戦闘員も含め、多くの焼死者が出たと言われています。わずかに春日大社のみが災を逃れたという惨状でした。

『平家物語』では「夜になって重衡が灯りを求め、配下の福井某が周囲の在家に火を放ったところ、折からの北風に煽られ燃え広がった」と、大火災になったのは偶発的とされています。しかし、より古い形態を残しているという『延慶本平家物語』には「重衡は順々に南都を焼き払っていった。福井某は悪僧の籠る城や寺内の堂舎に火をかけた」と、意図的に火をつけたように書かれているのです。
先に園城寺にも焼き討ちをかけている事、出陣前に九条兼実が耳にした噂などからしても、少なくとも興福寺に対しては当初から火を放つ予定だった可能性が高いのではと思います。

ちなみに焼き討ちの件を聞いた兼実は『玉葉』に「言語の及ぶ所にあらず、筆端の記すべきにあらず」と、憤激と悲嘆を込めて綴っています。摂関家の嫡流出身の兼実は、元々平氏に批判的でした。その平氏に心の拠り所である氏寺の興福寺を焼失させられ、まさに世も末と打ちひしがれたことでしょう。

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平氏の南都焼き討ち(1)

治承4年(1181)の12月28日、平重衡を総大将とする平氏軍が、南都(奈良)の寺院に焼き討ちをかけました。火災により東大寺・興福寺などは数多の死者を出すと共に主要な堂宇を失い、今まで大きな勢力を誇ったこれら有力寺院は壊滅的な打撃を蒙りました。
南都の寺院勢力はかねてから平氏政権に反抗的な態度を続けており、断固とした処置を取るしかないと判断した平清盛の命で、平氏軍は奈良に攻め入ったのです。けれども現代とは比較にならないほど神仏が敬われ且つ畏怖されていた当時、何故こんな乱暴な方法を取ったのでしょうか。

◆背景
聖武天皇により建立された東大寺と、藤原氏の氏寺であった興福寺は、平安時代末期になってもしばしば京都政権に圧力を加えていました。両寺はいわば律令制・摂関政治の象徴であり、最高の宗教的権威を保っていたのは勿論、多数の荘園や僧兵をも有していました。近江の延暦寺・園城寺(三井寺)と共に、朝廷や貴族にとっては無視しえない勢力だったのです。
権力が院から平氏に移っても、事情は同様でした。清盛が福原への遷都を強行したのは、宗教勢力の圧迫から逃れることも理由の一つだったのです。

治承3年11月、清盛は反平氏色を強める後白河法皇を幽閉し、院政を停止させるクーデターを起こしました。同時に法皇の側近も処罰され、関白の松殿基房も解官・配流の憂き目に遭います。これに寺社勢力、特に法皇の帰依が厚かった園城寺と藤原氏のトップである基房の追放に反発した興福寺は、危機感を抱きました。
翌4年の5月、法皇の皇子・以仁王と源頼政が中心になり打倒平氏の挙兵が計画されました。しかし事前に露見したため以仁王は一旦園城寺に逃れ、さらに南都の寺社勢力を頼り興福寺へ向かいます。以仁王らは奈良に辿り着く前に宇治平等院で敗死しましたが、南都の衆徒たちはこれを契機に園城寺や諸国の源氏と連携し、平氏に敵対する動きを見せ始めたのです。

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火事と喧嘩は江戸の華と言うけれど…

MSN産経ニュース「「明暦の大火」の被害つづる 岡山藩主の書状発見」
 岡山藩主の池田光政が1657年1月、江戸の大部分が燃えた「明暦の大火」の被害状況などを記した書状が岡山市内の民家で見つかった。大火直後の状況を藩主自ら記した貴重な史料だ。
 書状は、大火から1週間後の1月27日の日付。いとこの鳥取藩主、池田光仲の書状に返信した。光仲の屋敷が焼失しなかったことを「大変結構なこと」とし、自らの屋敷は焼失したが「無事脱出した」と家臣から報告されたことなどがつづられている。(中略)

 光政は日本最古の庶民学校、閑谷学校を開くなど藩政の基礎を築いた「名君」とされる。書状には、光仲の長男が4代将軍の徳川家綱に初めて拝謁したことを「おめでとう」と祝う記述も。
 岡山市教育委員会文化財課は「名君とされた光政の人となりがにじみ出ている」と話している。(後略)


このニュースを見て、私の子供時代の愛読書「小学館版 学習まんが―少年少女日本の歴史」に載っていた池田光政と明暦の大火のエピソードを思い出したので、取り上げてみました。
岡山に滞在していた光政が、江戸で未曾有の大火が発生したことを江戸屋敷からの使いで知り、将軍家や自らの家族が被害を受けていないか心配する…といった内容だったと思うんですけど(手元に本がないのでうろ覚え)。
もともとの本筋は、参勤交代制が確立し、諸大名が江戸と国許でどのような生活を送っていたのかを、光政を主人公にして描いてたんですね。その中で触れられた話で、おそらく作者の方の創作だと思うんですが、ホントにこんな書状が発見されるなんて凄い偶然だなーとちょっと驚いてしまったのでありました。

明暦の大火は「江戸三大大火」のひとつで、最も大きな被害を出したものです。明暦3年(1657)1月18日の未の刻(午後2時)頃に発生し、まる2日ほども燃え続けたそうです。江戸の市街地の大半が灰燼に帰し、死者は一説によると10万人にものぼったという大惨事になりました。この時江戸城の天守閣が焼失して、幕末までついぞ再建されなかったのは有名ですね。
現代ではさすがにここまで火事が広がることはほぼないと思いますが、災害はいつの世になっても怖いですよね… (-人-)ナム

*参考サイト=東京建築業協会 明暦の大火による江戸の大改造

*池田光政についての過去記事=・民衆のための政治 ー 池田光政

大河ドラマ『風林火山』第48回「いざ川中島」

いよいよ川中島プレナイトとも言うべき回を迎えました。
これまでの対戦は互いを牽制し合っていた程度にしか過ぎませんでしたが、今回こそは相手の息の根を止めてやると意気盛んな武田・上杉の両軍。戦場に向かう諸将たちも、おそらく命がけの激闘になるだろうという覚悟のほどが見られました。
あまり時間がないので、また箇条書きで簡単にまとめます…。

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南北朝の始まり(2)〜持明院統と大覚寺統

<前回の記事(1)はこちらへ。表の数字は天皇即位の順番>

keizu2.jpg後深草天皇は、彼に仕えていた女房・二条が記した『とはずがたり』のおかげで好色なイメージが強いですが、性格は穏やかで体が弱かったと言われています(でも60代まで生きてるんですけどね)
父の後嵯峨上皇は、剛毅で英邁な弟・恒仁親王(亀山天皇)の方を溺愛しており、強引に天皇に即位させました。おまけに文永4年(1267)亀山天皇に長男の世仁親王が誕生すると、翌年にはその世仁親王をわずか2歳で立太子させたのです。
ここまでの後深草上皇は内心の不平を抑え、父の決定におとなしく従っていました。しかし文永9年2月に後嵯峨法皇が崩御すると、「治天の君」継承の正当性をめぐって、兄弟間の確執が表面化する事となったのです。

治天の君とは、やや乱暴な言い方ですが天皇家の家長として、国務の実権を握っている上皇・天皇を指すことばです。平安後期の白河上皇以後は、上皇(複数人在世時は最も先代の上皇)が政治を執る院政が定着し、天皇が親政を行うのは上皇が不在の時に限られていました。
そのため従来の例からすると、すでに上皇である後深草が治天の君となり院政を開始するのが当然であったわけです。しかし後嵯峨法皇の四十九日の法要の折、法皇の遺言書を開封したところ、そこには治天の君と財産分与の件について書かれていました。

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