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TV『その時歴史が動いた〜継体天皇』

 1500年前の倭国。ヤマト政権は、皇位継承をめぐる豪族たちの争いで混迷を深めていた。そうした中、越前の地にいた王族が天皇位につく。第26代・継体天皇である。
 越前から近江にかけてを地盤とした継体天皇は、朝鮮半島との交易や鉄生産など、強固な経済的基盤を背景にしてヤマトの豪族たちに迎えられた。継体天皇はそれまでの天皇とは異なり、ヤマトの中枢には入らずに淀川沿いに王宮を構えて港づくりを展開する。それは、朝鮮半島との外交ルートを強化し、国家統一のために必要な大陸の先進の知識を導入するためだった。
 しかし、継体天皇が国家統一にむけて動き出したまさにその時、目の前に大きな敵が立ちふさがった。筑紫君磐井(つくしのきみいわい)率いる九州の豪族たちが、独立のために反旗を翻したのだ。ヤマト政権をゆるがすこの危機に、継体天皇は豪族たちの力を結集して立ち向かった。
 25年の治世で、ヤマト政権による国家統一の礎を築き上げた継体天皇。即位から1500年を迎えたいま、最新の考古学調査と史料分析から、謎多きその実像に迫る。


私はこの時代については全く詳しくないんですけど、継体天皇のいささか謎めいた経歴にはなんとなく興味があるので見てみました。
概ね『日本書紀』の記述に添った内容だったようですね。古代史に詳しい方が見れば物足らない部分があったかもしれませんが、まだ評価の定まっていない新説を無理やり大げさに紹介するよりは、こういうオーソドックスな構成の方が余程良いと思いました。

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南北朝の始まり(1)〜後嵯峨天皇の即位

延元元年/建武3年(1336)に朝廷が分裂してから、元中9年/明徳3年(1392)に両朝が合一するまでの南北朝時代。特に最初の10数年は戦乱が絶えず、混乱を極める時代となりました。日本の歴史の中でも未曾有の、2つの朝廷が並行して存在するという事態。そのきっかけは分裂から約70年ほど前の、後深草天皇・亀山天皇の兄弟による皇位を巡る争いに端を発していました。何故こういう事が起こったのか、兄弟の父・後嵯峨天皇の時代にまで遡って紹介してみます。

keizu1_20071116050132.jpg承久3年(1221)勃発した承久の乱の後、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇が配流となり、仲恭天皇は廃されました。鎌倉幕府は「今後、後鳥羽上皇の血統の皇位継承は認めぬ」と決め、後鳥羽院の同母兄・守貞親王の子を後堀河天皇として即位させました。守貞親王自身は出家しており皇位には即けませんでしたが、天皇がまだ幼かったため、後高倉院と名乗り院政を行いました。

ところがそれから20年余り経った仁治3年(1242)、後高倉院の孫にあたる四条天皇がわずか12歳で急死。父も祖父も既にこの世を去っており、やむを得ず後鳥羽上皇の孫王の中から皇位継承者を選ぶこととなりました。
朝廷内の実力者である九条道家は、順徳上皇の次男・忠成王を推しました。しかし執権・北条泰時の返答は「鶴岡八幡宮の御託宣の結果、土御門上皇の遺児・邦仁王がよろしいでしょう」というものでした。こうして邦仁王、すなわち後嵯峨天皇が即位することとなったのです。

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大河ドラマ『風林火山』第45回「謀略!桶狭間」

このドラマのサブタイトルは、例年に増して「!」が付くものが多いように思えますが、気のせいかしら??
それはさておき、前回(第44回「信玄暗殺」)が自分的には不満が多く、今回もどうなる事やらと少し不安だったんですが「今川方視点からの桶狭間」が貫かれていて、全体的にはいい内容だったと思います。戦闘シーンがほとんどなかったのと、織田信長がシルエットのみの出演だったのには賛否両論があるかもですが、私はかえってすっきりしてよかったと感じました。
ただ、今川義元が死ぬところはちょっと「?」だったような…。史実と違い銃撃を受けたのは別に構わないんだけど、なんだか腰を抜かして気絶したように見えてしまったので。どうせならもっと派手に何発も喰らって死んで欲しかった(爆)。でも血みどろになったり必死に抵抗する姿を見せない方が、気位が高く優雅な彼の最期には相応しかった…てことなのかな!?

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幕政改革の挫折 ー 北条貞時

鎌倉幕府の9代目執権・北条貞時は、知名度の点では彼の父(北条時宗)や息子(北条高時)と比べると、やや劣っています。けれども彼の生涯は、幕府組織の行き詰まりを象徴しているかのように私には思えて、興味深い人物です。

◆霜月騒動と平禅門の乱
北条貞時は文永8年(1271)12月12日に出生しました。弘安7年(1284)父の時宗が亡くなり、彼は14歳で執権に就任します。
当時の幕府は元寇の恩賞問題や国防の強化など、問題が山積の状態。そのため若年の貞時に代わり、安達泰盛が幕政を主導しました。泰盛は貞時の母方の伯父で、時宗存命中より幕府内で大きな影響力を持っていた有力御家人です。
泰盛は、将軍権威の強化を図る政策を次々と打ち出しました。北条得宗家の専制を抑え、将軍直属の御家人衆の立場回復を狙ったのです。しかし御内人(得宗家直属の家臣)たちは一斉に反発、中でも内管領(御内人筆頭)で貞時の乳母夫でもある平頼綱は、泰盛と激しく対立していきます。

そして頼綱は「泰盛の息子が『我が曾祖父は、実は頼朝公の御落胤である。だから自分は源姓を称すべきだ』と言い触らしています。これは将軍になる野心の表れに違いありません」と讒言して貞時を焚き付け、安達氏討伐の下知を引き出させました。
弘安8年11月、貞時の命を受けた頼綱たち御内人は泰盛を誅殺。安達一族や泰盛派の御家人も多数殺され、その影響は鎌倉のみならず地方にも波及しました(霜月騒動)。以後御家人の勢力は完全に失墜、平頼綱は強大な権勢を振るいます。彼の政治の手法は極めて峻烈で、恐怖政治として人々に怖れられました。

一方、果断で気鋭な青年に成長した貞時は、自分なりの政治理念を志向し始めました。しかし頼綱が相変わらず専横を続けているため、徐々に彼のことを目障りに感じるようになっていきます。
永仁元年(1293)4月、ついに貞時は頼綱邸に討手を差し向けました。運が尽きた事を悟った頼綱は一族と共に自害(平禅門の乱)。23歳になっていた貞時は、ようやく自ら政治の実権を掌握する事ができたのでした。

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