ドラマ『聖徳太子』
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第1部「厩戸皇子」
第2部「日出ずる処の天子」
出演:本木雅弘(厩戸皇子)ソル・ギョング(伊真)中谷美紀(刀自古郎女)柄本明(穴穂部皇子)加藤雅也(崇峻天皇)松尾敏伸(来目皇子)今田耕司(小野妹子)國村隼(秦河勝)近藤正臣(用明天皇)宝田明(物部守屋)松坂慶子(推古天皇)緒形拳(蘇我馬子)
西暦585年。新羅の武人・伊真は密命を帯びて倭国へ渡った。飛鳥の都では折しも、朝廷内の二大勢力である蘇我馬子と物部守屋の権力闘争が激化していた。伊真は、当時倭と友好関係だった百済人と偽り、鍛冶部として働き始める。間もなく彼は蘇我氏の邸で、不思議な魅力を持つ少年・厩戸皇子と出会う・・・。
飛鳥時代を舞台に若き日の厩戸皇子(=聖徳太子)の物語を、脚本・池端俊策、演出・佐藤幹夫の『太平記』コンビで映像化した歴史絵巻。仏教の影響を受けた厩戸が、新国家建設に目覚めるまでを描く。剣を手に戦場を駆け抜けたりと、教科書などで有名な従来の聖徳太子のイメージを覆す作品となっている。
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大河ドラマ『風林火山』第42回「軍師と軍神」
- Wed
- 22:08
- 映像 - 大河ドラマ「風林火山」
由布姫を失った悲嘆のあまり、衝動的にセンチメンタル・ジャーニーへ旅立った山本勘助と、二派に分かれて対立する家臣たちに「やってられんわ!」と出奔してきた長尾景虎が、奇しくも高野山で鉢合わせる・・・。
まあぶっちゃけありえない設定なのですが、これはこれで息抜きの回?としては、それなりに面白かったような。特に殺陣のシーンはカッコよかった。急に対決することになった雰囲気を出すためか、段取りをきっちり決めずに撮影に挑んだそうですけど、なかなか迫力が出ていました。しかし景虎は狩衣を着たままで、袖が邪魔にならないんだろうか。
住職の清胤に一喝され、翌朝勘助と景虎が並んで朝食をとってた所は、まるで半分コントのようでした(^^; 公式サイトの内野さんとGacktさんの対談で、この場面の事を「叱られた小学生のよう」「お前のせいで朝食がまずい、みたいな感じ」と形容してたのもおかしかったです。自分を見つめ直すために来山した筈なのに、普段の因縁を持ち込んで争う二人を諭す清胤。佐藤慶さんの演技は味があっていいなと思いました。
まあぶっちゃけありえない設定なのですが、これはこれで息抜きの回?としては、それなりに面白かったような。特に殺陣のシーンはカッコよかった。急に対決することになった雰囲気を出すためか、段取りをきっちり決めずに撮影に挑んだそうですけど、なかなか迫力が出ていました。しかし景虎は狩衣を着たままで、袖が邪魔にならないんだろうか。
住職の清胤に一喝され、翌朝勘助と景虎が並んで朝食をとってた所は、まるで半分コントのようでした(^^; 公式サイトの内野さんとGacktさんの対談で、この場面の事を「叱られた小学生のよう」「お前のせいで朝食がまずい、みたいな感じ」と形容してたのもおかしかったです。自分を見つめ直すために来山した筈なのに、普段の因縁を持ち込んで争う二人を諭す清胤。佐藤慶さんの演技は味があっていいなと思いました。
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漫画『大奥』
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江戸時代初期の関東で、若い男のみが罹患し次々に死亡する、謎の奇病が発生。病は全国に飛び火し、やがて男子は生存率の低さから子種を持つ宝として大切にされ、女子が労働の担い手となる。江戸城でも3代家光以降、将軍職は女子へと引き継がれる。そして大奥は、ただでさえ男子が少ない中で、数多の美男が将軍に仕える女人禁制の男の城となっていた。
男と女の立場が完全に入れ替わった「男女逆転大奥」の物語。
MELODYで連載中。単行本は2巻まで刊行(2007年10月現在)
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タイムマシンにおねがい!?
- Mon
- 21:15
- 徒然雑記
ブログ「蓼食う兎の一日」さんの記事で、こんなアンケートの結果が紹介されていました。なかなか興味深かったので引用させてもらいます。
オリコンランキング:住んでみたい時代ランキング、1位は平安時代
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大河ドラマ『風林火山』第39回「川中島!龍虎激突」
- Wed
- 23:49
- 映像 - 大河ドラマ「風林火山」
村上義清を駆逐して北信濃を制圧した武田晴信と、その村上に支援を乞われ出陣を決めた長尾景虎。今まで互いを意識しながらも相見える事のなかった両人が、とうとう直接対決する時がやってきました。この後12年間、5回に渡って行われた川中島の戦いの幕開けです。
とはいえ、激しい戦闘があったのは天文24年(1555)の第二回と永禄4年(1561)の第四回のみで、その他は様子見程度の小競り合いに終始していたようです。
冒頭で景虎が高らかに宣言していた「運は天にあり…」云々というお言葉。これは「春日山城壁書」と呼ばれていて、文字通り春日山城の壁に上杉謙信が書いたと伝わっている家訓です。戦場での心得を説いているのですが、短い文なので紹介しておきますね。
(余談ですがGacktさんは、今年の謙信公祭でもこの言葉を引用して被災地・新潟へメッセージを送ったそうです。→こちら)
しかし、景虎の異様なテンションを目の前にした家臣団は、圧倒されつつも若干戸惑気味…のように見えたのは気のせい?戦いが始まっても、「いっそ信濃を我らの領土にしてしまえばよいのでは」という家臣の進言を「そんな事は天道が許さぬ。盗人の武田晴信と同じになってしまう」と退ける、潔癖な景虎さん。彼の目的は、天に代わって自分が"悪"の晴信を成敗することのみで、領土を広げたいという野心は二の次どころかなきに等しいわけです。変な奴ですね(笑)
こういう自分に絶対的な自信を持っている理想主義者は、うまくいっている時は無敵ですが、一歩間違うと暴走になりかねません。まして景虎はまだ若いので余計に危うさがあります。そこで宇佐美定満による手綱取りが重要となってくるわけですね。
とはいえ、激しい戦闘があったのは天文24年(1555)の第二回と永禄4年(1561)の第四回のみで、その他は様子見程度の小競り合いに終始していたようです。
冒頭で景虎が高らかに宣言していた「運は天にあり…」云々というお言葉。これは「春日山城壁書」と呼ばれていて、文字通り春日山城の壁に上杉謙信が書いたと伝わっている家訓です。戦場での心得を説いているのですが、短い文なので紹介しておきますね。
戦の勝ち敗けなど誰にも判らない。だから勇気と信念を持ち、死ぬ気でひたすら進んで行けば、必ず道は切り開かれ勝利を収めることができる。・・・てな意味かしら?乱暴な解釈ですが。運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。何時も敵を掌にして合戦すべし。
疵つくことなし。死なんと戦へば生き、生きんと戦へば必ず死するものなり。
家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。
不定とのみ思うに違わずといえば、武士たる道は不定と思うべからず。必ず一定に思うべし。
(余談ですがGacktさんは、今年の謙信公祭でもこの言葉を引用して被災地・新潟へメッセージを送ったそうです。→こちら)
しかし、景虎の異様なテンションを目の前にした家臣団は、圧倒されつつも若干戸惑気味…のように見えたのは気のせい?戦いが始まっても、「いっそ信濃を我らの領土にしてしまえばよいのでは」という家臣の進言を「そんな事は天道が許さぬ。盗人の武田晴信と同じになってしまう」と退ける、潔癖な景虎さん。彼の目的は、天に代わって自分が"悪"の晴信を成敗することのみで、領土を広げたいという野心は二の次どころかなきに等しいわけです。変な奴ですね(笑)
こういう自分に絶対的な自信を持っている理想主義者は、うまくいっている時は無敵ですが、一歩間違うと暴走になりかねません。まして景虎はまだ若いので余計に危うさがあります。そこで宇佐美定満による手綱取りが重要となってくるわけですね。
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戦国大名の末裔たち
来週の『風林火山』ではいよいよ三国同盟の締結について描かれるようですが、皮肉なことに武田・今川・北条の三家とも、この後数十年の間に次々と滅亡してしまったのは周知の通りです。一時は強大な勢力を誇っても、僅かな情勢の変化で呆気なく滅びさってしまうこともある過酷な時代でした。
もっとも滅亡といっても、一族すべてが絶滅してしまったわけでなく、その子孫は細々とではありますが命脈を保ちました。では彼らの末裔たちがいったいどうなったのかを少しばかり紹介します。
甲斐武田氏
武田信玄には7人の息子たちがいましたが、うち3人の子孫が存続しています。その中の本家である、次男の海野信親の系統について紹介します。
信親は盲目のため家督相続からは外されましたが、信濃の名族・海野氏の娘を娶り名跡を継ぎました。後に出家して竜芳と号し、武田家中では「御聖道様」と呼ばれ重きを為したそうです。天正10年(1582)3月、織田軍が甲斐へ侵攻し信親は寺へ匿われましたが、異母弟の勝頼が敗死したと聞くと、自害して果ててしまいました。
その子の信道は織田軍の残党狩りを逃れ、元家臣の土屋長安の保護を受けました。土屋は後に徳川家康に仕え大久保長安と名乗り、奉行として絶大な権勢を振るいます。しかし彼の死後に疑獄事件が発覚し関係者が処罰され、信道も連座して伊豆大島に配流となり、その地で一生を終えました。
月日は流れ五代将軍綱吉の世になり、信道の孫・武田信興が幕府に召し出されて500石を与えられ、表高家衆に列せられました。そして大正4年(1915)信玄に従三位を贈位することになった際、信親が正室・三条夫人の子である事から、彼の子孫が武田家の総本家であると定められたのでした。
また信玄の五男・仁科盛信の子孫は旗本として、七男の信清の子孫は上杉氏に仕えてそれぞれ江戸時代を乗り切り、現在も続いているそうです。
もっとも滅亡といっても、一族すべてが絶滅してしまったわけでなく、その子孫は細々とではありますが命脈を保ちました。では彼らの末裔たちがいったいどうなったのかを少しばかり紹介します。
甲斐武田氏
武田信玄には7人の息子たちがいましたが、うち3人の子孫が存続しています。その中の本家である、次男の海野信親の系統について紹介します。
信親は盲目のため家督相続からは外されましたが、信濃の名族・海野氏の娘を娶り名跡を継ぎました。後に出家して竜芳と号し、武田家中では「御聖道様」と呼ばれ重きを為したそうです。天正10年(1582)3月、織田軍が甲斐へ侵攻し信親は寺へ匿われましたが、異母弟の勝頼が敗死したと聞くと、自害して果ててしまいました。
その子の信道は織田軍の残党狩りを逃れ、元家臣の土屋長安の保護を受けました。土屋は後に徳川家康に仕え大久保長安と名乗り、奉行として絶大な権勢を振るいます。しかし彼の死後に疑獄事件が発覚し関係者が処罰され、信道も連座して伊豆大島に配流となり、その地で一生を終えました。
月日は流れ五代将軍綱吉の世になり、信道の孫・武田信興が幕府に召し出されて500石を与えられ、表高家衆に列せられました。そして大正4年(1915)信玄に従三位を贈位することになった際、信親が正室・三条夫人の子である事から、彼の子孫が武田家の総本家であると定められたのでした。
また信玄の五男・仁科盛信の子孫は旗本として、七男の信清の子孫は上杉氏に仕えてそれぞれ江戸時代を乗り切り、現在も続いているそうです。
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