新聞からよむ明治・大正の世相
今回は、明治7年(1874)の創刊以来のすべての記事をデータベース化しているという読売新聞の記事から、明治・大正期のニュースをいくつか紹介します。
*参照サイト=「明治・大正・昭和の読売新聞」
【後日追記】上記コンテンツは読売新聞サイト内から削除されてしまっているので、Internet Archiveより取得したページをご覧下さい→こちら(一部画像は表示されません)
◆明治編
・醜聞で二度失脚、暗殺された明治の大物政治家
星亨(1850〜1901)は陸奥宗光の知遇を得て政界入りし、自由党・立憲政友会で活躍。伊藤博文に信任され衆議院議長や逓信大臣などを務めた敏腕政治家でした。しかし収賄などの黒い噂も絶えず、現代に至る金権型政党政治を築いたともされています。記事を見てわかるように当時のマスコミからも叩かれまくり、ついに逓相辞任に追い込まれています。
左官屋の子から身を起こし英語教師となり、後にロンドンに留学して日本初の弁護士資格を取ったという経歴は、相当な努力家だった事を伺わせますが、一方で人一倍権勢欲も強い人物だったんでしょうかね。
なお星を殺害した伊庭想太郎は、戊辰戦争で遊撃隊を率いて官軍と戦った伊庭八郎の実弟。心形刀流10代目として剣術を教えながら、東京農学校校長や日本貯蓄銀行の頭取も務めていました。剛直な性格で、政界の金権腐敗が許せず凶行に及んだといいます。彼は事件後終身刑を受け、6年後獄死したそうです。
・明治版「大学は出たけれど」その1・女性編
・明治版「大学は出たけれど」その2・男性編
この時代大学へ進学できるのはかなりのエリートだろうし、就職なんて困らなかったのではというイメージがあったけど、そんな簡単じゃなかったんだなー。
調査を行った明治45年(1912)は景気が停滞気味だったのか、帝大や早慶といった名門を出ても、なかなか希望通りの職にありつけない人もいたようですね。彼らの方も、つまらない会社には行きたくないとプライドがあったでしょうし。しかしそんな不況下でも理工系は売り手市場だったり、商業・語学などの実用教育を受けた者も順調に就職しているのは、今と全く事情が同じでおもしろいなと感じました。
女性の方は、せっかく卒業しても職に就かずに結婚してしまう場合が多かったんですね。おそらく本人の意思よりも、早く嫁ぐよう周りから促されたり、女性の働き口自体が限られていたことが大きかったのではと思います。そんな中、大半が最初の決意を貫き通し医学の道へ進んだと言う「日本女医専門学校」の卒業生たち。解剖実習を熱心に見守る彼女たちの姿に、記者が感嘆している部分が印象的です。
・「作られた毒婦」高橋お伝
高橋お伝は「明治三大毒婦」の一人といわれる有名な悪女。しかし彼女が起こした犯罪の概要を読むと、内容も動機もよくある事件のひとつに過ぎないものです。後の阿部定のようなセンセーショナルな話題を呼ぶ要素は特に見当たりません。
お伝が稀代の毒婦とされたのは記事にもある通り、彼女を実像以上に凶悪な女に仕立て上げて描いた物語や芝居が原因でした。お伝の処刑の前年、「夜嵐お絹」という女殺人犯をモデルにした物語が当たりをとっており、これに触発されたのではないかと思います。
ちなみにお伝の遺骸は、学問のためと称して局部を切り取られ、それをホルマリン漬けにして東大医学部に保存してたらしいですよ。私にはお伝の犯罪よりも、こっちの行為の方がよっぽどおぞましい気がするけどね。
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大河ドラマ『風林火山』第32回「越後潜入」
- Wed
- 22:56
- 映像 - 大河ドラマ「風林火山」
最近あまりに暑くて、パソコンの前に長時間向かう気力がないので(虚弱すぎ?)、また箇条書きで感想をまとめました。
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本能寺の遺構・遺物発見
京都新聞「本能寺の無防備覆す 信長が“城塞並み”防御か」
京都市中京区の旧本能寺跡で、「本能寺の変」の直接の証人というべき大量の焼け瓦が見つかった。瓦が埋まっていた堀には、堅固な石垣が積まれ、境内全域ではなく特定の建物を守る堀だったとみられる。織田信長が全く無防備の状態で襲われたのではなく、城のように防備を固めていた可能性が出てきた。(中略)
ほぼ同時代の京を描いたとされる上杉本洛中洛外図(国宝)で、本能寺は瓦ぶきと板ぶきの建物が2棟ずつ描かれる。境内全体を囲む堀があったとみられるが、細かい部分は雲で隠れ、境内に堀があった可能性は知られていなかった。
調査を担当した関西文化財調査会の吉川義彦代表は「石垣の丁寧な造りは職人技」と驚く。今回、境内の内側にも堀が見つかったことで、二重の堀を持つ堅固な寺だったことになる。
本能寺を含む京の法華寺院は、町衆の信仰を集め繁栄したが、比叡山延暦寺の怒りを買い、1536年、天文法華の乱でことごとく焼かれ、その後、再建された。
今谷明・国際日本文化研究センター教授は「比叡山ににらまれていた再建時の法華寺院は、境内に堀は造れなかったはず。信長が寺を城塞(じょうさい)化するために造った堀だろう」とみる。堀は、掘った土砂を積み上げた土塁を伴うのが一般的だ。今谷教授は「堀や土塁で館を囲み、僧侶らが入れない特別な空間をつくっていたのだろう」と、信長が最期を遂げた館が堀の近くにあったと推測する。
一方、西川幸治・同センター客員教授(都市史)は「防御施設にしては中途半端で、信長のパワーにふさわしくない。天文法華の乱を経験した寺側が設けたものではないか」と話す。(後略)
Yahooのトップにも出ていたし、TVや新聞でも報道されたので、ご存知の方も多いと思います。旧本能寺跡から、本能寺の変で焼失した際のものと見られる大量の焼けた瓦や、堀・石垣の跡が発見されたというニュース。
本能寺というお寺は今でもありますが、信長の生前とは場所が変わってるんですね(再建時に秀吉の命で移転したそうです)。跡地にマンションを建設することになって、それに伴う発掘調査で判明したようで。
貴重な遺構や遺物が発見されたのは喜ばしいことだとは思いますが…気になったのはこの記事の伝え方。寺に石垣や堀があったというだけで、信長が無防備だったという説が覆るって、ちょっと無理があるこじつけじゃないの?
本能寺の構えが万全であったとしても、明智光秀の軍は1万数千人、対して信長が連れていた手勢は「わずかばかり」というから、数百人くらいでしょうか。兵の数からして劣勢は歴然です。それに戦国時代の寺院が、武力闘争に備えて城塞としての態を成していたのは、珍しいことではありません。代表的なのが石山本願寺ですね。
だいたい戦国武将で、まるっきり無防備だった人なんていると思えないし。本能寺の変の前にも、信長は上洛の際に同寺に数回宿泊しています。本能寺を利用していた理由はいろいろあったでしょうが、防備に信頼を置いていたのもその一つなんじゃないでしょうか。もっとも上の記事によると今谷明氏は、境内の堀については信長が作らせたと見ているようですが…。
信長が無防備だったというなら、そもそも光秀の背反を予測できなかったこと自体がそう言えるんじゃないですかね。
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暑中御見舞い申し上げます
- Mon
- 23:13
- 徒然雑記

(*画像提供先=「十五夜」様)
台風も去って、本格的な夏到来ですね。私が住んでいる所では、昼間はさすがに暑いけど夜は涼しい日が多いので、例年に比べて過ごしやすいように感じます。
さて日本的な夏の風物といえば花火、朝顔、スイカなどが思い浮かびますが、今回は上の画像で使った金魚について少しだけ紹介。
金魚が中国から日本に伝来したのは、室町時代後期にあたる16世紀前半だそうです。江戸時代に入って元禄年間には養殖も始まり、裕福な武士や商人たちに人気を博しました。豪商・淀屋辰五郎は、大きなガラスの水槽を天井に取り付けて金魚を泳がせ、下から眺めて暑気払いをしたと伝えられています。この頃は金魚はまだまだ贅沢品だったんですね。そして約100年後の文化・文政期に、金魚の価格が下がったことから金魚売りや金魚すくいが普及し、一般庶民も本格的な金魚飼育が楽しめるようになったとのことです。
幕末になると、金魚は日本画や浮世絵の題材としても用いられました。下はそのうちのひとつ、歌川国芳「金魚づくし 百ものがたり」です。かわいい絵でしょ?わたしは国芳が大好きで、実はこの画像が貼りたかっただけなの(笑)
金魚が猫についての怖い百物語をしていて、話が終わると本当に猫が現れ驚いている設定です。慌てふためいている金魚と、今にも飛び掛らんとする猫の表情の対比がユニークですね。

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井伊直弼の心の内
中国新聞「豪腕大老、繊細な面も? 通商条約めぐる新記述」
幕末の大老井伊直弼が1858年に日米修好通商条約を調印した際、諸大名の承認を得ず手続きを進めたことを悔やんでいたとする史料が10日までに見つかった。
史料を展示している彦根城博物館(滋賀県彦根市)の史料係渡辺恒一さん(40)は「安政の大獄などから、豪腕をふるう強権的な人間像が描かれてきた直弼だが、繊細な一面もあったことがうかがえる」と話している。
史料は全三巻、計約300ページ。彦根藩の側近が直弼の政治活動を記録した「公用方秘録」の草稿版の写本とみられる。
史料には、側近から「諸大名の承認のない調印に批判が生じる」と指摘された直弼が「其所ヘ心付不申段ハ無念之至(その点に気付かなかったのは無念)」と後悔したとする記述があった。現存する草稿版には条約調印前後の記述そのものがなく、史料はこの部分が抜け落ちる前に写したものとみられる。
一方、明治政府に提出された同秘録の清書版には、今回の史料にある“後悔”の記述はなく、直弼が「天皇の許可なく調印する全責任を負う」という趣旨の強気の発言だけが記されている。(後略)
井伊直弼は幕末史には欠かせない人物の一人ではありますが、評価が大変難しいというか、人によってかなり分かれるのではという気がします。安政の大獄で実行した過酷な大弾圧の印象により、一般的には独裁者ぽいイメージが強いんじゃないでしょうか。
この辺はまだ勉強不足なんであまり突っ込んだことは語れないけど、開国路線を取ったこと自体は間違いじゃないと私は考えています。ただ反対派を抑え込むのに、あんな強引なやり方しかなかったのだろうか?とは思いますが…。
正直言うと個人的には、直弼よりも徳川斉昭の方がいまいち好かんのよね(笑)。でも2人とも優れた人物だったのは確かだし、もう少し違う時代に生まれていれば、普通に名君主として穏やかな生涯を送れたのかなとは感じます。
さて見つかった文書はハリスに日米修好通商条約締結を迫られ、それを調印する際に、諸大名の承認を得ず手続を行ったことを直弼は悔いていたという内容。もっと固い信念の上で、独断で決定を押し進めたと思ってたので、なんか意外でした。清書版には強気の言葉のみが書かれているとのことですが、実際の心中は不安や後悔の念などで揺れ動いていたのかもしれませんね。
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