補陀落渡海の伝説
◆究極の修行
補陀洛(ふだらく)とは観世音菩薩が住んでいるとされる浄土のこと。『華厳経』にはその様子を「泉があふれ木々が繁り、花の香りが漂い、観音菩薩は金剛の宝石の上に座す」と描いています。
いつの頃からか日本では、この補陀洛が遥か南洋の彼方に存在すると信じられてきました。そして憧れの浄土を目指し、簡素な小舟でたった一人、海へと漕ぎ出していく僧侶たちがいたのです。この行を「補陀洛渡海」と呼んでいます。
渡海を決意した僧は、わずかな食料と灯火の油と共に舟に乗り込み、四方を鳥居に囲まれた小部屋に入ります。そして外から釘を打ち付け出られなくします。舟は伴船に曳航され、沖へ出ると綱を切断。あとは風と潮のなすが侭に漂流し続け、僧はひたすら経を唱え補陀洛に辿り着くことを念じたといいます。
二度と帰ってくることはない、死を覚悟の上の凄絶な捨身行。彼らがその後どうなったかは記録に残っていません。運良く離島に漂着した者もいたかもしれませんが、おそらくほとんどが海の藻屑として波間に消えて行ったのでしょう。
補陀落渡海の伝承は高知の足摺岬や室戸岬、茨城の那珂湊などにも残ってますが、メッカとなった場所は紀伊熊野の那智の浜でした。那智山の麓にある補陀洛山寺の境内には渡海上人の碑が建てられており、貞観10年(868)から享保7年(1722)まで、計25人の名前が刻まれています。中には以前紹介した平維盛なども含まれていますが、多くは補陀洛山寺の僧侶だったようです。
しかし16世紀末頃を境に生きたまま海へ出て行くことはなくなり、以後は補陀洛山寺の住職が死亡した時に、遺体を舟に乗せ海に流す水葬として行うようになりました。それは金光坊という僧の事件がきっかけとなったと伝えられています。
補陀洛(ふだらく)とは観世音菩薩が住んでいるとされる浄土のこと。『華厳経』にはその様子を「泉があふれ木々が繁り、花の香りが漂い、観音菩薩は金剛の宝石の上に座す」と描いています。
いつの頃からか日本では、この補陀洛が遥か南洋の彼方に存在すると信じられてきました。そして憧れの浄土を目指し、簡素な小舟でたった一人、海へと漕ぎ出していく僧侶たちがいたのです。この行を「補陀洛渡海」と呼んでいます。
渡海を決意した僧は、わずかな食料と灯火の油と共に舟に乗り込み、四方を鳥居に囲まれた小部屋に入ります。そして外から釘を打ち付け出られなくします。舟は伴船に曳航され、沖へ出ると綱を切断。あとは風と潮のなすが侭に漂流し続け、僧はひたすら経を唱え補陀洛に辿り着くことを念じたといいます。
二度と帰ってくることはない、死を覚悟の上の凄絶な捨身行。彼らがその後どうなったかは記録に残っていません。運良く離島に漂着した者もいたかもしれませんが、おそらくほとんどが海の藻屑として波間に消えて行ったのでしょう。
補陀落渡海の伝承は高知の足摺岬や室戸岬、茨城の那珂湊などにも残ってますが、メッカとなった場所は紀伊熊野の那智の浜でした。那智山の麓にある補陀洛山寺の境内には渡海上人の碑が建てられており、貞観10年(868)から享保7年(1722)まで、計25人の名前が刻まれています。中には以前紹介した平維盛なども含まれていますが、多くは補陀洛山寺の僧侶だったようです。
しかし16世紀末頃を境に生きたまま海へ出て行くことはなくなり、以後は補陀洛山寺の住職が死亡した時に、遺体を舟に乗せ海に流す水葬として行うようになりました。それは金光坊という僧の事件がきっかけとなったと伝えられています。
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- 歴史雑学
荒田八幡神社
平清盛は治承4年(1180)6月、京から福原(現在の神戸市中央区・兵庫区)へ遷都を断行しました。けれどもあまりに突然の決定で造営も急拵えだったため、貴族たちからは不満続出。そして東国での源氏挙兵に対処する必要に迫られ、同年11月にわずか半年足らずで再び京に都を戻しました。
兵庫区にある荒田八幡神社の付近一帯は、清盛の異母弟にあたる平頼盛の山荘があったと伝わっています。そして遷都の際には、いまだ皇居が完成してなかったことから、頼盛の山荘が安徳天皇の行在所(あんざいしょ)となりました。安徳天皇は数日後に清盛邸へ移られ、代わりに天皇の父・高倉上皇が頼盛邸に入り、仮の上皇御所とされたそうです。

(*クリックすると画像が拡大します)
この神社は元の名を高田神社といい、かつては別の場所に鎮座していたそうですが、明治31年に宝地院(後述)の境内にあった八幡社と合祀し荒田八幡神社となりました。
兵庫区にある荒田八幡神社の付近一帯は、清盛の異母弟にあたる平頼盛の山荘があったと伝わっています。そして遷都の際には、いまだ皇居が完成してなかったことから、頼盛の山荘が安徳天皇の行在所(あんざいしょ)となりました。安徳天皇は数日後に清盛邸へ移られ、代わりに天皇の父・高倉上皇が頼盛邸に入り、仮の上皇御所とされたそうです。

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この神社は元の名を高田神社といい、かつては別の場所に鎮座していたそうですが、明治31年に宝地院(後述)の境内にあった八幡社と合祀し荒田八幡神社となりました。
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大河ドラマ『風林火山』第28回「両雄死す」
- Tue
- 23:47
- 映像 - 大河ドラマ「風林火山」
いや〜最後の10分ほどは、ほとんど"千葉真一ワンマンショウ"と化していましたが、それでも構わないと思えるくらい、見事で壮絶な板垣信方の最期でしたね。御年67歳とは思えない身のこなしはさすがです。まさに矢折れ刀尽きるまで戦って死んで行った様は強烈でした。
そして、いつも勘助に嫌味を言いつつ、本心では人一倍甲斐の行く末を案じていたゴリさんも殉職・・・じゃなかった、甘利虎泰も討死。板垣のような派手な見せ場はないものの、戦いを早く終わらせ味方の損害を少なくするために、たった一人で敵陣に乗り込んでいく後姿は涙ものでした。
そして、いつも勘助に嫌味を言いつつ、本心では人一倍甲斐の行く末を案じていたゴリさんも殉職・・・じゃなかった、甘利虎泰も討死。板垣のような派手な見せ場はないものの、戦いを早く終わらせ味方の損害を少なくするために、たった一人で敵陣に乗り込んでいく後姿は涙ものでした。
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TV『その時歴史が動いた〜今川義元 真説・桶狭間の戦い』
織田信長がその名を天下にとどかせた桶狭間(おけはざま)の戦い。今川義元の大軍を信長が奇襲し、奇跡的な勝利をとげた合戦として知られている。
しかし近年の研究で、これまでの義元像そして桶狭間の戦いそのものの実態に、従来の通説と異なる様々な事実が明らかになっている。
貴族化した武将とされてきた今川義元は、実際は、家臣・農民の組織化をはかり一大軍事集団を作り上げた革新的武将だった。
一方、東海地方の覇権をめぐって対立していた織田氏は、義元に敗退を重ねていた。父・信秀の死後、義元との戦いを引き継いだのが信長。この時わずか19歳。
“天才的な武将”とされる信長だが、実はその手本を敵将・義元に求め、その強さの源である「組織力」を徹底的に学んでいた。その中から信長はさらなる創意を重ね、のちに“ノブナガイズム”ともいわれる独自の軍事力を作り上げていった。
頭角をあらわす信長に危機感を抱く義元は、ついに信長軍殲滅(せんめつ)を決行。義元と信長。二人の革新者の戦略が桶狭間で激突する。
番組では、戦国の改革者・今川義元、そして義元としのぎを削ることで成長を遂げた若き織田信長、この両雄の対決を描く。
番組の冒頭で松平アナが「今日は今川義元の名誉回復をしたいです」という旨のことを述べていましたが、義元の事蹟については半分くらい、残りの半分で桶狭間の合戦の"真実"を紹介しており、なんとなくどっち付かずな構成に思えました。
本気で「義元の再評価につなげたい」という意図があったのなら、普通に彼の生涯を追って行く内容で充分だったんじゃなかろうか。せっかく大河ドラマで扱っているのに太原雪斎のことはスルーだし、松平元康(もちろん後の徳川家康ね)のことも全然触れなかったし…。
今川家研究で有名な小和田哲男氏が出演してたから期待したのに、ちょっとガッカリしました。
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歴史本『モノ語り日本史 歴史のかたち』
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あなたも歴史への時空の旅に出かけてみませんか?「信長のマント」「元寇の新兵器」「大坂城になれなかった残念石」「龍馬の船」など、さまざまな「かたち」「モノ」から歴史を読み解く。『読売新聞』夕刊の連載、前半40回をまとめ単行本化。
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