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花山天皇のスキャンダル

◆一夜明ければタダの人
寛和2年(986年)6月22日の夜、当時の帝であった花山天皇が突然、清涼殿から失踪してしまいました。
内裏では当然大騒ぎになり、必死に捜索した結果、翌朝になってようやく居場所が判明。天皇の叔父である中納言・藤原義懐(よしちか)たちがその寺に駆けつけると、なんと天皇は昨夜のうちに勝手に出家してしまわれていたのです。

この前代未聞の椿事について、『栄華物語』では「寵愛していた弘徽殿女御こと藤原忯子(よしこ)と死別し、悲嘆のあまり世を儚み出家を決意した」と、花山帝の心境を伝えています。しかし『大鏡』では、天皇は右大臣の藤原兼家一家の策謀にはめられたとしており、生々しい事情が書かれています。
花山帝はまだ子供がなかったため、皇太子に従兄弟の懐仁親王を立てていましたが、彼は兼家の娘が生んだ子でした。一刻も早く孫を帝につけ実権を握りたいと願っていた兼家は、天皇が弘徽殿女御の死で厭世的になっていると耳にし、天皇を退位させようと計画を巡らせたのです。
まず兼家の息子の道兼が、天皇へしきりに「この上は御出家され、女御様の菩提を弔う生活をなさいませ。私もお供いたします」と勧めました。説得に心を動かされた花山帝は、道兼の導きで秘かに宮中を脱出。ところが剃髪の直前、道兼は「父に最後の挨拶をしたいので」と言い出し、寺を立ち去ってしまったのです。
その間に兼家らは、三種の神器を懐仁親王のもとへ運び込み、即位の準備を済ませていました。道兼がいつまでたっても戻らぬため、天皇はようやく自分が騙されたと気付きますが、時すでに遅しでした。
天皇を迎えに来た義懐は、頭を丸めた花山帝を見て自身の政治生命の終わりを悟り、その場で自分も出家してしまったそうです。

こうして懐仁親王が一条天皇として即位、兼家は念願の摂政に就任し我が世の春を迎えました。この兼家の四男が、有名な藤原道長ですね。
さて騙されて退位に追い込まれた花山天皇は、この話だけだと「藤原氏の陰謀の犠牲になった、かわいそうな帝」といった印象を受けます。ですが実はこの人、在位中から晩年まで醜聞や奇行が絶えなかった、歴代天皇の中でも有数のお騒がせものでありました。

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今日の戯言・悲しい出来事

京都の泉涌寺の塔頭・戒光寺には、油小路の変で亡くなった伊東甲子太郎や藤堂平助ら、御陵衛士たちのお墓があります。その墓地がこの度「不心得な参拝者」のため、彼らの命日(11月18日)以外は一般のお参りが禁止になってしまったそうです。
詳しくはこちらのサイト様をご覧下さい。
自分が以前戒光寺の墓地を訪れた時、本堂には御陵衛士や新選組関係の書籍が揃えられ、お寺の関係者の方も親切に応対して下さり、とてもよい印象を持ちました。いずれ再度お参りに行きたいと思っていたのに、こんな事になってしまい非常に残念でなりません。

新選組関係者の墓地で、トラブルがあったのはこれが初めてではありません。
沖田総司のお墓も、昔熱狂的なファンが非常識な行動をしたために、総司忌の時以外はお参りできなくなってしまったのは新選組愛好者の方なら皆知ってる事実でしょう。
また、山南敬助や沖田氏縁者の眠る壬生の光縁寺。こちらは現在も参拝可能ですが、大河ドラマ放映時はやはり不心得な参拝者たちのために、かなり迷惑を被ったと聞いてます。

この手の人たちは、いったい何を考えてるんでしょうか??モラルの低下としてしまえば簡単でしょうが、もし自分の親族や先祖のお墓が、同じような目にあったらーと想像すれば、やってはいけない行動は自ずとわかる筈だと思うのですが…。
またお墓参りというより観光気分でやって来て、傍若無人な行動を取ってしまっている人も結構いるのではないでしょうか。以前ネット上でそういう行為を自慢げに書いてる人を見て、呆れたこともありますし…。

いくら歴史上で有名な人物といえど、今となってはお墓が残っていない人も多いんですよね。だから自分の敬愛する人物の墓参りが可能なだけでも、とても幸せなことだと私は思います。先人たちへの畏敬の念を忘れず、地下に眠っている人が不快に感じる行動はぜひ控えて欲しいものです。
まあもちろん大多数の方は、普通にマナーを守って参拝しているのですけどね・・・。

*関連サイト=・戒光寺公式ホームページ
       ・史跡・墓参マナーサイト

大河ドラマ『風林火山』第25回「非情の掟」

今回はちょっと他に書きたい記事もあるので、箇条書きの形で短めにまとめてみました。

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歴史本『新選組二千二百四十五日』

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近藤勇、土方歳三、沖田総司。おのれの志を貫き通した最後の侍たち。新選組は争闘の巷と化した京都の治安を守るために結成され、分裂を越え、最強の武装集団となる。だが、時代の波は彼らを北へと追いつめてゆく―。
気鋭の研究家が、埋もれていた史料から、有名無名の人々の肉声を聞きとり、その実像を活き活きと甦らせる。文庫版には特別対談も収録。『新選組決定録』改題。

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大河ドラマ『風林火山』第23回「河越夜戦」

"由布姫劇場・第一章"がとりあえず終了し、むさ苦しい男ども(笑)が繰り広げる緊張感に溢れたドラマが、久しぶりに戻ってきましたね。それはいいんだけど、前回の「三国激突」は謀略に次ぐ謀略といった内容で、最近の女性たちの愛憎劇路線に慣れきってしまっていたため、ついて行くのが大変でしたわ…。
まあおそらく上田原の戦いあたりまでは、政治&合戦メインの話が続くんじゃないですかね。

河越夜戦は、天文15年(1546)北条軍が、山内・扇谷の両上杉家と古河公方の連合軍を破った戦争です。一説では約10倍の兵力差をはね除けての勝利と言われており、日本の戦史上でも稀に見る大逆転劇とされています。(しかし史書によって、合戦が行われた年や兵の人数などがまちまちで、攻撃も夜ではなかったという見方もあるようです)
桶狭間の戦い・厳島の戦い(毛利元就が陶晴賢を撃破した)と共に戦国三大奇襲戦の一つともされていますが、先の2つの合戦と比べると、一般的な知名度はやや劣りますよね。私が知っている限りで映像化されたのは初めてなので、かなり楽しみにしていました。
ただ、本来武田氏とは関係のない戦いなのに、山本勘助が参加する設定が少し引っかかってたんですよね。すべて史実通りにしろ!とは思わないけど、どんな事件にも主人公が絡む展開にすると、去年の二の舞になってしまいそうな不安があって…。気にし過ぎかな?

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光源氏に例えられた桜梅少将 ー 平維盛

富士川の戦いの時にちょっと触れた、平維盛のことについてまとめてみました。

◆容姿端麗な貴公子
維盛の生年は諸説あるものの、一般的には保元3年(1158)生まれとされています。父の重盛は言うまでもなく平清盛の嫡男ですが、母は『尊卑文脈』によると「官女」とのみ記され、素性は不明です。
維盛は長男ですが、最初に叙任されたのが次男の資盛の方が先であることなどから、「維盛は元々重盛の庶長子で、後に嫡男として立てられた」という見方もあるようです(*1)。しかし以降の官位の昇進は維盛の方が早く、25歳で従三位・右近衛中将となり公卿に列せられています。

成長した維盛は、笛や舞を得意とする美しい青年になりました。
安元2年(1176)後白河法皇50歳の御賀の宴で、桜の一枝をかざしながら「青海波」を舞った時は、その姿を女房たちが「深山の桜梅(おうばい)のよう」と賞讃し、桜梅少将と呼ばれました。弟・資盛の恋人だった女性が後に綴った『建礼門院右京大夫集』でも、この宴での舞は「光源氏を思い起こさせた」と書かれてます。
また彼女は維盛のことを「容貌はもちろんながら、心配りにおいても際立っており、まるで春の桜のような素晴らしい人だった」と回想しています。

維盛は15歳で、後白河法皇の近臣・藤原成親の娘である新大納言局と結婚しました。成親の妹は重盛の正妻だったため、義理のいとこ同士の夫婦という事になります。
新大納言局は絶世の美人で、両親は入内させるつもりでしたが、彼女は「心に決めたお方がいますので」と拒否し、維盛と結ばれたと『源平盛衰記』には書かれています。当時では珍しい恋愛結婚ですよね。維盛は近寄ってくる女性たちと時には火遊びに及ぶ事もありましたが、生涯この妻を大事にしました(*2)。
こうして彼の前半生は、宮中でもてはやされ、家庭では愛する妻子に囲まれて、平家嫡流の御曹司として何不自由なく幸せに暮らしていたろうと想像します。

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息子を思う母の気持ち

河北新報「最上義光実母寄進か 宝光院所蔵刺しゅう 山形大調査」
 山形城主最上義光が帰依した寺院、宝光院(山形市八日町)所蔵の刺しゅう「文殊菩薩(ぼさつ)騎獅像」が、義光の実母が1563年に制作して同院に寄進したとみられることが山形大人文学部の調べで分かった。文殊像は虫食いなどで傷みが激しくなっており、宝光院から寄贈を受けた同大は修復を進めている。
 山形大人文学部は2004年度から3年間、宝光院所蔵の古文書約850点と文殊像の分析を行った。松尾剛次人文学部教授によると、文殊像には「寿昌寺に住む永浦尼(えいほに)」という文言が刺しゅうされ、永浦尼が制作者とみられる。永浦尼については諸説あるが、同学部の調査で、寿昌寺が義光の父である最上義守の菩提(ぼだい)寺であると判明したことなどから、永浦尼は義光の母である可能性が高いと結論付けた。(中略)
 日本美術史が専門の宮島新一地域教育文化学部教授は「制作年代、制作者が分かる上、出来栄えが良く、美術的な価値が高い」と指摘。松尾教授は「文殊像が作られた年に、義守と義光は上京している。義光の母が夫と子どもの安全を祈って刺しゅうしたのではないか」と推測する。(後略)


最上義光は、伊達政宗の伯父にあたる人ですね。私にとっては「独眼竜政宗」で原田芳雄さんが演じていた、ギラギラした悪役の記憶が強いです。実際の彼も、弟や長男を死に追いやったり、人気の高い政宗と敵対したことなどから、一般にはあまりよい印象を持たれていないのではないでしょうか。
しかし権謀術数を用いる一方で武勇にも非常に優れており、内政手腕が高く善政を布いたため、地元では現代でも英雄として慕われているそうです。また弟の中野義時と家督相続をめぐって争った話も、近年ではかなり疑問視されているとのこと。どちらにしろ戦国武将としては、能力の高い人物であったのは確かだと思います。

で、義光のお母さんはどんな人かいなと調べてみましたが、「小野氏女」ということのみで詳しい素性等はわかりませんでした…。
義光は1546年生まれなので、この文殊像の制作時は18歳。専門家の方が「上京する夫と子の安全を祈って制作したのでは」と推察されてますが、いずれ君主となる息子の成長や、最上家の安泰を願う気持ちも込められていたのかもしれませんね。

ちなみに検索していたら、こんなサイトを見つけました。
最上義光歴史館
「ヨシアキの自己紹介」てコーナーが、なんかかわいい(笑)
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