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名奉行金さん御出座!ー 遠山景元

いまマツケン版の『遠山の金さん』放送してますね。見たことないんですが、マツケン金さんはどんなもんなの?キャラ的に暴れん坊将軍と被りそうにも思えるんだけど…。
そんな話はさておき、金さんのモデルとなった人物は正式名を遠山左衛門尉景元といい、安政2年(1855)2月29日に61歳で亡くなっています。実際の「金さん」はどんなお奉行さまだったのでしょうか。

◆トントン拍子の出世ぶり
景元は寛政5年(1793)8月23日生まれ。幼名は通之進、のちに金四郎を名乗りました。父は遠山景晋(かげくに)という旗本で、長崎奉行や勘定奉行などを歴任し、昌平黌時代は人材登用試験で首席だった程の秀才でした(ちなみにこの時、御家人の部で首席だったのが狂歌師の大田南畝(蜀山人)です)。
文政7年(1824)家督を継ぎ、その翌年から幕府に召し出されます。小納戸頭・作事奉行などを経て、天保11年(1840)ドラマでもお馴染みの北町奉行に就任しました。
町奉行といえば裁判官のイメージがありますが、現代でいうところの都知事・警視総監・税務署長・消防総監などを兼ねている超重要職でした。当然激務であり、お裁きは全体の任務の一部に過ぎなかったのです。

出仕の遅かった景元が異例の栄達を遂げたのは、本人の資質はもとより、天保の改革を主導した老中・水野忠邦の後押しがあったからです。水野の推進する風紀取締りも行いつつ、一方では上司と対立する事も厭いませんでした。
ある時芝居小屋が火元となった火事があり、水野は南町奉行・鳥居耀蔵の進言を受け、この機会に芝居を廃止しようとしました。しかし景元は敢然と反対し、浅草界隈への移転にとどめたため、芝居関係者は彼の計らいに厚く感謝したそうです。
この事がひとつの契機となり、遠山景元は下情に通じた名奉行、対して厳しい取締りで庶民に嫌われていた鳥居は悪役、という印象が広まりました。そして後に芝居や講談を通じて、ヒーロー・遠山の金さんに虚構化されていったのです。

◆刺青話の裏には家庭の事情が
さて金さんといえば「桜吹雪の刺青」がトレードマークですが、遠山景元も彫り物を入れていたのでしょうか?結論からいうと、どうも虚構の話と混乱されてる部分も多く、確かな証拠は残ってないようです。
では何故刺青の噂が出たのかというと、それは彼の複雑な家庭環境が遠因でした。

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戦時下の徒花・愛国百人一首

百人一首にはスタンダードな「小倉百人一首」の他に、影響を受けて後世に作成された撰集が多数あり、それらを総称して「異種百人一首」と呼ばれています。室町時代に足利義尚が選定した「新百人一首」から丸谷才一の「新々百人一首」まで様々なものが存在しますが、最も異彩を放っているのが、太平洋戦争中に生み出された「愛国百人一首」です。
これは日本文学報国会なる団体が計画したもので、昭和17年(1942)に新聞紙上で公表され、翌年には単行本や絵入カルタが刊行されました。選定委員には佐佐木信綱・斎藤茂吉・折口信夫・川田順などの著名な文学者が名を連ねています。
選定理由として、「和歌を通しての指導精神を示すため、国民が朗読するに足る、高い日本精神に満ちた古来の愛国歌を採録した」等々、いかにも戦時中らしい発想が述べられています。小倉百人一首は恋の歌が多いので、非常時には相応しからんとみなされたんでしょうね。

その他の選定条件として
・万葉集以降〜幕末までの歌の中より選ぶ。
(幕末に作られた歌でも、作者が明治以後も生存していた場合は除外)
・なるべく一般に理解しやすく、健やかで朗らかで積極性のあるものを重視。
・よみ人知らずの作や小倉百人一首の歌は除く。
・「愛国」の意義はある程度まで広くする。
親子や夫婦の情愛、国土愛の自然諷詠などのテーマが例として挙げられ、「百首の単調を破るためにも宜しいであろう」と一応文学的な配慮も。
・作者の人物性も考慮。
「口先ばかりの愛国歌やいかがわしい人物の作は採らず、真の愛国者、愛国の事実を体験した人、武に限らず文によって尽くした人、自分の職域に於いて国家に貢献した人」という基準が提示されています。

そうして選ばれた百首は、江戸時代の人物でほぼ半数を占めるなど時代に多少の偏りがみられます。中でも万葉時代の歌(23首)と幕末志士の歌(約20首)が多いのが特色で、本居宣長や賀茂真淵など国学者たちの名前も目立ちます。
具体的にどのような歌が収録されていたのか、以下にいくつか書き出してみます。といっても、私は和歌の善し悪しがよくわからない奴なので、とりあえず作者の知名度優先で選んでみました(^^;

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大河ドラマ『風林火山』第7回「晴信初陣」

前回からの続きで、北条氏康に仕官を願い出た山本勘助。
んー、氏康はどう見ても「若殿」というには老け過ぎで苦しい。実際の彼は、前回勘助に詰め寄っていた、福島越前守の息子・彦十郎(後の北条綱成)と同い年なんですよね。この頃なら22〜3歳くらいかな?ドラマ中では、さすがに年齢のことには触れませんが…。
でも氏康が勘助に語り聞かせた話は、なかなかいい内容でしたね。サザエに例えるあたりは上手いけど、やっぱり若さがないような気がする(笑)。しかしまだまだ青臭さが残る晴信、得体の知れないところのある義元と比べると、一番真っ当で常識的な雰囲気の殿様です。

【後日追記】手元の人名事典を見てみたところ、北条綱成の幼名は「勝千代」となっていたので訂正しておきます。調べずに書いちゃダメですね…
武田信玄の幼名と同じなので、おそらく視聴者の混乱を避ける為にドラマ内では変更したのかと思います。

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奈良朝セレブの華麗なる私生活

神亀6年(729)2月10日、「長屋王の変」が起こりました。
藤原氏による陰謀の犠牲となり、悲劇の宰相とも呼ばれている長屋王。しかし一時は政界のトップを務めていた人物で、彼の邸宅跡の発掘調査によると、その絶頂期は大変豪奢な生活を送っていたそうです。
その暮らしぶりを紹介・・・する前に、まずは長屋王のプロフィールと、彼を死に至らしめた事件について簡単に書きます。

◆長屋王の生涯
長屋王は天武天皇の孫にあたり、高市皇子とその正夫人・御名部皇女(みなべのひめみこ)の第一子として生まれました。
高市皇子は天武天皇の第一皇子ですが、生母の身分が低かったため、皇位継承順は弟たちよりも下でした。しかし壬申の乱では父を助けて活躍し、持統天皇の即位後は太政大臣に就任した優秀な人物でした。また母の御名部皇女は天智天皇の娘で、持統天皇の異母妹・元明天皇の同母妹になります。
(*当時の天皇家は近親婚を繰り返しており、文章では関係がわかりにくいので、この系図も参考にしてね〜。長屋王は載ってないけど…)

長屋王は長じて、元明天皇の娘で文武天皇・元正天皇の姉妹である吉備内親王と結婚し、順調に出世コースを歩みます。政界の第一人者だった右大臣・藤原不比等が養老4年(720)に亡くなると、翌年後任となり次いで左大臣に昇進、皇族や臣下を主導する立場となりました。
不比等の息子・藤原四兄弟は「このままでは藤原氏の影が薄くなってしまう」と面白くありません。そこで自分たちの妹で聖武天皇の妃である光明子を「皇后」にまつり上げ、その威光を利用する計画を立てます。しかし当時の皇后は天皇亡き後、後継者不在・または幼い場合代わりに即位する事もあったため、内親王(天皇の皇女)に限ると定められていたのです。
今や皇族のエース的存在の長屋王は、当然この案に大反対。そうこうしているうち、聖武天皇と光明子の長男である皇太子・基皇子が夭折してしまいました。聖武天皇の他の皇子は、別の夫人が生んだ安積親王しかおらず、また彼も亡くなった場合、長屋王と吉備内親王の間の男子に継承権が移る可能性も出てきました。どちらにしても藤原氏にとってはお先真っ暗。焦った四兄弟は、強引な手段をとったのです。

長屋王の自宅は突然、多数の兵士たちによって包囲されました。「長屋王が国家転覆を計画し、天皇を呪詛している」という某下級役人の密告を受け、真偽を確かめるため要人たちが彼を詰問しに来たのです。どのような取調べが行われたかはわかりませんが、最初から判決は決まってたようなものだったのでしょう。
2日後、長屋王は邸内で自殺しました。享年46とも54とも言われています。同時に、妻の吉備内親王と3人の息子たちも命を絶ったのでした。

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なんだかんだで2周年です。

私事になりますが、当ブログは2/8で開設して丸2年を迎えました。
超飽きっぽい自分が、よく続けられているなと我ながら呆れ…いや驚いてます。
去年は図書カードプレゼントなんてやったりしましたが、今年はちょっとバタバタしていたこともあり、何にもなしという事でご容赦下さいm(_ _)m 万が一来年まで続いていたら、3周年記念としてまた何かやろうかなーと、うっすら考えています。
(言い切ってしまって大丈夫なのだろうか・・・)

そして、こんな中途半端ブログにいつも目を通してもらっている皆様には、感謝の気持ちでいっぱいです
特別専門的な内容でもなし、扱っているテーマはバラバラ、サービス精神皆無、文章は長ったらしい上に堅苦しい(わかってるなら直せよ)、こんな所読んで面白いのかな?と不安なんですが。自覚はあっても、方針は変えませんけど(笑)
今後とも中味・更新頻度とも気の赴くままマイペースで運営していく所存なので、それでもいいよ〜という奇特な方(爆)がいましたら、よろしくお願いいたします。

肖像画ニュース2本

asahi.com「酔っぱらい信玄 京都井伊美術館 屏風が見つかる」
 戦国武将・武田信玄が酒宴を開いている様子を描いた珍しい屏風(びょうぶ)が見つかったと、東山区の京都井伊美術館が5日発表した。福井県にある重臣の山縣(やまがた)三郎兵衛の子孫の家に伝わっていたと推測されるといい、同館が昨春、古美術商から買い入れた。武装姿ではなく、信玄の宴の姿を描いた絵は珍しいという。
 大きな杯を手に胸をはだけた信玄が中央に座り、家臣が踊るのを眺めている。酒を飲む家臣たちも描かれている。
 信玄の脇に描かれた刀のつばとさやに武田の家紋が描かれ、屏風の箱に信玄の法号「機山公」が記されていた。江戸初期に描かれたと思われるが、絵師は不明。7月まで同館の特別展「戦国の龍虎 上杉と武田」で展示されている。


リンク先に屏風の一部が載っているけど、これほんとに武田信玄〜?と思ってしまう、ただのオッサン(すみません)なんですが。気の荒い戦国武士たちは、酒が入って無礼講ともなればこんな感じだったんですかね。
山縣三郎兵衛とは、武田四名臣のひとりである山県昌景のことですね。昌景は長篠の戦いで討死していますが、彼の子息で越前松平家に家老格で仕えた人物がいたそうです。(参考:こちらのHPの山県氏の記述より)
屏風が武田の重臣の末裔から廻り廻って、赤備えの鎧を受け継いだ井伊家の子孫の美術館に来たのには、なんだか不思議な縁が感じられる気もします。

ちなみに屏風が展示されているのはこちら→京都井伊美術館TOP
建仁寺の近所にこんな所あるんだー、全然知らなんだ。有名武将の甲冑や刀剣などが多数所蔵されているようなので、ちょっと見学してみたい気もしますが、開館時間が短い上に入場料がお高めなのが痛いなぁ。おそらく個人経営なのでしょうから、ある程度は仕方ないかもですけどね…。

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戦国好感度ランキング

ネットサーフィンしてたら、こんなランキング見つけました。

 好感が持てる日本の戦国時代の武将ランキング
goo戦国武将ランキング
 →11〜30位も見る
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どうして「好感が持てる」と、微妙に回りくどいタイトルなんでしょうね(^^; 普通に「好きな戦国時代の武将」にしときゃいいのに。
まーベスト10は、だいたいオーソドックスなメンツですな。伊達政宗が3位とは少し意外だったけど。個人的には、元就公が前田利家に負けてるのがちょーーっと納得いかなかったり。謙信ちゃんが信玄殿より下なのは、いつものことなので別にいいけどさ…と言いつつ、やっぱちょっと悔しい(笑)。
11位以下を見ても一目瞭然ですが、やはりテレビの影響てのは大きいんですねえ。

ところが20位より下になると、なぜか急にマニアック化していて笑えます。
・古田織部:明らかに「へうげもの」の影響じゃん。
・宇喜多秀家:関ヶ原の西軍諸将なら、大谷吉継のが人気ありそうなのにな。
・朝倉孝景:知名度だけでいけば、息子(義景)の方が上と思うんですが。
他にも丹羽長秀・佐々成政なんて渋いところから、足利義昭(この人、戦国"武将"なのか?)まで種々雑多。いったいどういう層にリサーチしたのか謎だ・・・。

君はひこにゃんを見たか?

井伊氏の居城として栄え、現在は天守が国宝に指定されている彦根城。
その彦根城が今年で築城400年を迎えるらしく、3月からは「彦根城築城400年祭」が盛大に行われるそうです。
そんな中最近、肝心のお祭り以上に話題になっているヤツが・・・。
ひこにゃん

こいつの名前はひこにゃん

○井伊の赤備えのカブトをかぶった猫(彦根藩二代藩主 井伊直孝公を手招きして、雷雨から救った招き猫)をモデルにしています。
○愛称につきましては、彦根や彦根城の「ひこ」と猫の鳴き声の「にゃん」をかけあわせ、子どもさんから高齢者までの皆さんに親しんでいただくため、ひらがなにしました。かわいらしく、呼びやすい名前です。
彦根市ホームページより)

という由来をもつ、400年祭のイメージキャラクターです。
イラストでもなかなかええ感じのゆるキャラ加減なのですが、着ぐるみバージョンもあって、その写真がこちら↓↓
京都新聞|キャラっと@HAPPY

か、かわえぇ〜!!白いボテッとした顔が雪見大福のよう。
それにこのつぶらなお目目もう萌え死に寸前(←バカ)
ひこにゃん着ぐるみはお祭りのPRのため、連日各地に出陣し愛嬌を振りまいているそうです。この週末は大阪で、兵庫の誇るアイドルマスコット・はばタンとコラボするらすぃ。(はばタンを知らない人はここを見よう→はばタン倶楽部
すごく見に行きたい!ついでにグッズも欲しい〜けど用事があって行けない(T_T)

私は彦根城はまだ訪れた事がないので、400年祭を契機に一度行ってみようかなーと元々思ってたんだけど、これで完全に決めました。
ひこにゃんに会いに行くぞ!待ってろよ!!(目的が変わっている…
城オタクも猫マニアもどちらでもない人も、みんな今年は彦根に集合しよう

・・・あまりにもアホな内容なので、少しは歴史関係の事も書いておきます(笑)
上記の「井伊直孝を手招きして雷雨から救った猫」の逸話は、井伊家の菩提寺である東京・世田谷の豪徳寺に伝わるものです。直孝と猫のお話、また豪徳寺についてはこちらに詳しく載っています。一説にはこれが招き猫の起源とも言われてます。
招き猫の由来は他にも諸説紛々あり定かではないようですが、もしこの話が実話とすれば、直孝さんはきっと猫萌え属性だったんでしょうね!?

*関連HP=・400th BLOG:彦根城築城400年祭実行委員会事務局日誌
以前はお固い記事もあったけど、最近はすっかり単なるひこにゃんブログと化してます^^。スタッフの人の文章がおもしろい!お薦め記事は「ひこにゃん、すす払いに出陣!」無茶しやがって…。
      ・国宝・彦根城築城400年祭 公式ホームページ
9月には「佐和山・一夜城復元プロジェクト」なんてのも予定されているらしい。石田三成ファンは行くべし!?
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