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TV『バチカンに眠る織田信長の夢』

前宣伝で「信長コード」なんて言ってるあたりから、うさんくさそうな予感はしていたんだけど、やっぱりねって思いました(^^; しょせんはTBSか…。
ていうかさー、前置きが長ったらしい割に後半はかなり強引な展開だし、屏風絵や信長の遺体のことや本能寺の黒幕やらイエズス会がどうとか、いろいろ詰め込み過ぎて超中途半端な番組構成。結果的に、説得力がまるでなかった気が。
こんなんがWindows Vistaのプロモ番組でいいんですか、マイクロソフト社さん?

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大河ドラマ『風林火山』第4回「復讐の鬼」

先週のラストで予測がついてたけど、ミツが武田信虎に殺されてしまいました(涙)
でもてっきり弓矢で射られたのかと思ってたら、その時は摩利支天のお守りに当たって助かったけど、すぐ後に刺殺されてたんですね。お守りのご加護も、あったのやらなかったのやら…という感じで。
暗示的な描写に留まってたけど、あれは『甲陽軍艦』にある「信虎は妊婦の腹を生きたまま裂いた」というエピソードの引用ですね。この行為は悪逆非道な君主と伝えられる人物の定番話で、古くは武烈天皇から、豊臣秀次や松平忠直などにも同様の伝説があり、信憑性としてはかなり疑問符がつくのではと私は思います。『甲陽軍艦』自体、虚実の話が入り混じってるシロモノだしね…。

ドラマの話に戻って、ミツはけなげでかわいらしい娘だったので、無惨な死は余計に痛ましかったです。でも彼女の死がきっかけで、勘助が武田家仕官への道の第一歩を踏み出すことになったのは、何だか皮肉な気がします。
平蔵がミツのお墓の前で、「お前(勘助)が武田を討ったら甲斐に戻ってきて、お前のために米を作る」と語るところも印象的でした。武田に召し抱えられる伝助や太吉とは対照的に、他国に旅立った平蔵。次に登場する時は、どんな境遇になっているんでしょうか。
それにしても、来週から出演者がムサい野郎ばっかになるなー(別にいいけど)。もう少ししたら三条夫人が嫁いで来るのかな?

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古地図特集やってるよ

Yahoo!地図情報 - 古地図で東京めぐり(*掲載期間3月15日まで)

Google Earthのパクリ二番煎じっぽい気がしないでもないけど、あちこち適当に検索して見てみると、なかなか楽しいです。
私の友達の自宅近辺を見たら、江戸時代はなーんにもない村だったんだなとか(今はわりとお洒落と言われている街)、東京タワーは金地院の敷地内だったのかーとか、いろいろわかって面白い。
あと石高的には全然たいした事のない大名や旗本でも、現代の感覚からすると凄く広い屋敷に住んでいたんですね。地図で見ると改めてよくわかります。
残念なのは、古地図の具体的な年代が書かれてないことかな。江戸時代のものは、武家屋敷の大名の名前からして後期〜幕末にかけてだと思うんだけど、明治は何年頃なのかよくわかんない。
ま、特に調べたい場所がなくとも、特集記事を読んで江戸から東京への町の変遷ぶりに驚くのもいいんじゃないでしょうか。
ちなみに私は決してYahooの回し者ではありませんので、あしからず(笑)

【後日追記】上記Yahooの特集は残念ながら削除されてしまいましたが、変わりに「goo地図」で「江戸切絵図」(江戸時代に木版で刷られた町の区分図)が提供されており、現在の東京の地図と比較することができます。
合わせて、昭和22年と昭和38年に撮影された航空写真も見ることもでき、それぞれに「地図を重ねる」ことも可能。いろいろな場所を見比べてみると、町の変遷の様子がなかなか楽しいですよ。

大河ドラマ『葵 徳川三代』

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出演:津川雅彦(徳川家康)西田敏行(徳川秀忠)尾上辰之助(徳川家光)岩下志麻(お江)小川真由美(淀殿)波乃久里子(お初)尾上菊之助(豊臣秀頼)田村亮(藤堂高虎)すまけい(伊達政宗)神山繁(本多正信)三林京子(阿茶局)大河内奈々子(千姫)酒井美紀(東福門院和子)樹木希林(春日局)金田龍之介(天海僧正)蟹江敬三(福島正則)小林稔侍(片桐且元)林隆三(土井利勝)江守徹(石田三成)中村梅雀(徳川光圀/ナレーター)

『八代将軍吉宗』に続くジェームス三木の脚本作品。関ヶ原の合戦に勝利して天下を取り、江戸時代の基礎を築くまでの、徳川将軍家創生期の物語。全体の構成は『大日本史』を編纂する水戸光圀が語り部となり、明暦の時代から過去を振り返る形で展開される。
また多額の制作費をかけ再現された関ヶ原の合戦シーンは映画並みの迫力と評価され、以後のNHK番組でも度々使用されている。

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ドラマ『坂の上の雲』主要キャスト発表

NHKニュース ー 「坂の上の雲」出演者決まる
「坂の上の雲」は、日露戦争で活躍した軍人の秋山兄弟と俳人の正岡子規という四国・松山出身の3人を中心に、明治に生きた日本人の青春群像を描いた司馬遼太郎の代表作です。NHKでは、この作品を大河ドラマを超える大型ドラマとして制作しますが、主な出演者が決まり、18日東京・渋谷で記者会見が行われました。
主人公の1人で、連合艦隊の参謀として当時世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を破る秋山真之に本木雅弘さん、その兄で後に陸軍大将となる好古に阿部寛さんが決まりました。また、兄弟の友人で明治の俳壇をリードした正岡子規を香川照之さん、子規を支える妹の律を菅野美穂さんが演じます。(中略)
撮影はことしの秋からで、中国やロシアでの海外ロケや最新の特撮を駆使してスケールの大きな番組を目指します。「坂の上の雲」の放送は再来年の秋から始まり、全13回、3年にわたって放送される予定です。


ある意味オーソドックスではあるけれど、安心して見られそうないいキャスティングだと思います。香川さんに至っては、ちょっと顔が子規に似てるし。東郷・乃木・児玉などの有名どころも、誰になるのか楽しみですね。

けど3年かけて放送とは、気の長い話だな〜。しかも全13回なら、4ヶ月に一度!?次見る頃には前回のストーリー忘れちゃいそうだよ(爆)。予定が延び延びになっていたから、いっそもう再来年の大河ドラマでやっちゃえばいいのにと思ってたんだけど。一本撮るのにそれくらい時間がかかるてことなんでしょうかね。
まあとにかく、放送終了予定の5年後まで、皆で頑張って長生きしましょう(笑)

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のっぽもチビも全員集合!

人の価値は外見じゃない!・・・とはいっても、歴史上の人物がどんなルックスだったのか、多少は気になりますよね〜。そういう訳で、今日は日本史上の有名人で、おおよその身長が判明している人たちを集めてみました。
その前に、日本人の体型・顔立ちの移り変わりを簡単に。

現代の日本人がほぼ皆、縄文系(彫りの深い顔・毛が濃い・身長は低め・胴が短く手足が長いetc.)と弥生系(のっぺり顔・体毛が薄い・色白・胴長短足etc.)の特徴が入り混じっているのは、割と知られてますよね。
旧石器人の子孫の縄文人が、約2500年前に大陸から来た渡来人(弥生系)と混血するようになり、その後どのように変化して行ったのでしょうか。

縄文時代の成人男性の平均身長は156cm。弥生時代に入ると渡来人が定住し始め、弥生末期〜古墳時代の平均身長は160.5cmになります。ですが平安時代以降、渡来がほとんど途絶えると徐々に低くなり始め、14世紀には157cmに落ち込みます。
しかも顔の造りも平坦になって行き、中世の墓や遺跡から見つかる人骨を調査すると、鼻よりも歯の方が前に出ている例が目立つそうです。要するに、中世の日本人の特徴は「チビでぺちゃんこ鼻に反っ歯(出っ歯)」…(*_*)

これは、自給自足で何でも自由に食べていた古代人と違い、文明が発達するにつれ上からの締め付けが厳しくなり、庶民の食生活が段々貧しくなったためです。
また粉食の普及などで食べ物が軟らかくなって下顎の筋肉が退化。顔の左右からの締め付けが弱まり、鼻が低くなりました。顎も小さくなりましたが、歯の数や大きさはすぐに変わらないため、押し出されて反っ歯になったそうです。

その後も平均身長は緩やかに低くなり続け、江戸末期から明治初めにかけて最も低くなりました。ただし江戸時代以降は、歯の縮小が下顎の退化に追いついてやや改善され、鼻も多少高くなりはじめたそうです。
また身長に関しては、当然身分や地域によって差異があったと思われます。武士はさすがに鍛えていた事もあり、いつの時代も体格は庶民よりよかったらしいです。
それを念頭に置いて、以下の一覧をどうぞ。

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大河ドラマ『風林火山』第1回「隻眼の男」

期待と不安が入り混じった気持ちで見た「風林火山」の初回でしたが…。
いやあ、予想していた以上にいい感じではないですか!!^^

世間の前評判では、登場人物もキャストも地味とかいわれてましたが、私的にはそれより『武蔵 MUSASHI』の二の舞になるんじゃないか〜なんて懸念があったんですね。主人公は実在の人物だけど、謎の部分が多いためフィクションを多用するが、かえって物語がつまらなくなってしまうパターン。
(ちなみにわたくし、『武蔵』は2、3回でリタイアしてしまいました。もともと主演の2人があまり好きじゃなく、見る前から気乗りしなかったのもあるけど…)
しかし今回は、まだまだ様子見な部分もありますが、山本勘助はなかなか魅力的なキャラクターだし、ドラマ全体にも何かワクワクする雰囲気があると思いました。加えて、歴史的な背景もそれなりにしっかり描いてくれそうですし。

そしてここ最近の大河にはなかった、骨太な作風。信長が現れるもっと前の時代の、都から遠く離れた地方の泥臭い空気が、いかにも殺伐とした戦国の世を感じさせます。
まぁ去年までのような明るく取っ付きやすい内容ではないし、生々しいシーンもあったりで好き嫌いが別れるのかもしれませんが、個人的には一年を通してこの調子を貫いて欲しいです。

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年末年始番組を斬る!

この年末年始に視聴した歴史関連番組(というか、ほぼ時代劇)の感想を、簡単に書いてみました。単に好き勝手なことをほざいているだけですが、まぁこんな意見もあるのかって事でご容赦をm(_ _)m

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銀箔調査、その後

以前「銀閣寺に銀箔が貼られていたかどうか調べるらしい」というニュースを紹介した事がありましたが(こちら)、その調査結果が判明したようです。自分で書いておきながら、そんな話てっきり忘れてた…。

京都新聞「銀閣寺、銀箔なかった/科学の目 通説裏付ける」
 世界文化遺産・銀閣寺(慈照寺、京都市左京区)には銀箔(ぎんぱく)がまったく使われていないことが、お寺の初めての科学的調査で確認された。金箔が豪華に張られた金閣寺(北区)と違い、漆塗りの建物だったことで通説を裏付けたかたちとなったが、お寺は「銀箔がなくても銀閣の価値は変わらない」としている。
 調査は国宝・銀閣(観音殿)の二層外壁のうち、表面のすり減り具合の顕著な部分を大規模な修理の行われた大正時代以前のものと判断。その部分から試料を採取して行われた。エックス線による元素分析とICP/MS(誘導結合プラズマ質量分析法)と呼ばれるごく微量の元素でも検出できる分析法を用いたが、銀は検出されなかった。
 銀閣寺は室町幕府の足利義政(1436−90)が造営した山荘の東山殿を義政の死後、禅寺に改めて現在に至っている。銀閣はこけらぶき二層の楼閣建築で、数度の修理を経て、創建当時の姿をとどめている。
 「銀閣」の通称は江戸時代以降に使われ始めたといわれる。金閣に対する呼び方、あるいは池の反射光が漆塗りの外壁に映ったことからそう呼ばれたというのが通説となっている。幕府の財政難や完成直前に義政が死去したために銀箔が張られなかったともいわれ、一部では実際に銀箔が張られていたという説もある。(後略)


「銀箔がなくても銀閣の価値は変わらない」て、そら当然でしょう!というか、銀箔なんてない所に価値があるんですよ!外国人には金閣寺の方が受けるようだけど、知ったこっちゃないですね(^^;
まぁ本当に銀箔を貼る予定だったのかどうか分かりませんが、もし計画はあったのなら、実行できなかったのはやっぱ予算不足だったんでしょうねー。嫁(日野富子)の方が金持ちだったようだからね。

父の遺訓を守って ー 楠木正行

南北朝時代の正平3年/貞和4年(1348)1月5日、河内国四條畷で、北朝方と南朝方による激戦が行われました。いわゆる「四条畷の戦い」です。
北朝方の大将は足利尊氏の腹心・高師直、対する南朝方を率いていたのは楠木正成の嫡男・正行(まさつら)。南朝方はこの戦いの前まで勢力を盛り返しかけていましたが、結果は圧倒的な兵力差により惨敗。正行をはじめ多くの武将が討死しました。
今日は、父の遺志を継ぎ南朝の守護に人生を捧げ、若くして散った「小楠公」楠木正行を取り上げます。(主に『太平記』の記述に寄っていますが、あの本は史実と脚色が入り混じっていると言われてるので、それを念頭にお読み下さい)

◆父親と永遠の別れ
正行の生年ははっきりしていませんが、『太平記』に父の正成が戦死した時で11歳という記載があるため、嘉暦元年(1326)生まれとされている事が多いようです。
延元元年/建武3年(1336)5月、正行は兵庫へ出陣する父に同行します。しかし摂津桜井の駅で、正成より「わしはおそらく生きて戻れないだろう。天下の権は足利尊氏が握るだろうが、お前は一族もろとも朝廷に尽くせ」と後事を託され、河内赤坂に帰国しました。
正成の首級は京で晒された後、尊氏の計らいで楠木の館へ送り届けられました。それを見た正行はショックのあまり仏間へ向かい、父の形見の短刀で自害しようとしますが、寸前の所で母・久子に制止されます。
「父上が途中でそなたを帰したのは、何のためだったのかわからぬのか!あの時『楠木の一族郎党を率いて、朝廷の為に戦え』と言い残されたのでしょう?」と母に論され、我に返った正行は以後、文武に励んだと伝えられています。

この「桜井の別れ」のエピソードは、太平記の作者の創作という説もあります。でもたとえ場所や内容が異なるとしても、正成が何らかの遺言を息子に残した可能性は高いのではないかと、私個人的には思っています。

◆南朝期待の若き武将
それから約10年の月日が流れ、成長した正行率いる楠木勢は本拠地の河内で力を蓄え、いよいよ本格的な活動を開始します。
正平2年/貞和3年(1347)8月、紀伊の隅田党を攻め、翌月河内国八尾城を攻略し、藤井寺では足利方の細川顕氏勢を撃破。幕府は山名時氏を援軍として使わしますが、正行は天王寺・住吉にてこの連合軍をも破り、南朝側の気勢は大いに上がりました。
この戦いで彼は、敗走する際に橋から落ちて溺れる敵兵を救助し、衣服や馬を与え送り帰してやりました。正行の恩義に報いようと、後の戦いで楠木勢として参戦した者が多かったーという話が残っています。

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