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小説『群雲、関ヶ原へ』

4101446210群雲、関ヶ原へ〈上〉 (新潮文庫)
岳 宏一郎

新潮社 1997-12
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太閤に続いて加賀前田利家も逝った。家康は秀吉の遺法をこれ見よがしに犯し続ける。動乱の機運が世を包む。会津百二十万石を領す上杉景勝を取り込むべく、家康と三成が激しく動く。黒田、加藤、福島、毛利、島津、宇喜多等、群雄もそれぞれの思惑で蠢動しはじめる。西か、東か、景勝の英断が下る。歴史の軸が旋回しはじめた…。
関ヶ原という壮大なドラマを新しい視点で描く歴史雄編。

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頼朝の死の真相は如何に?

建久9年(1198)の12月27日、源頼朝は相模川の橋供養に出席し、その帰路で病を発症。そして翌年の1月13日に53歳で亡くなりました。
彼の死因は「落馬が原因」と一般的に言われていますが、実は諸書により書かれている事がまちまちなのです。『明月記』『愚管抄』等には「頼朝は1月11日に出家し、13日に薨去した」とあり、日にちは間違いないと見られますが、これらは死因については書かれていません。そんな謎めいた頼朝の死にまつわる各説を、いくつか紹介します。

<1>落馬説
『吾妻鏡』では建久7年〜10年の1月までの記事が全く欠落しており、頼朝死去前後の裏付けがとれません。落馬の話が出て来るのはその13年後、建暦2年(1212)2月28日の記事です。
大意を要約すると「相模川の橋の修理の件について、北条義時・大江広元らが話し合った。『あれはかつて稲毛重成が造った橋だが、橋供養に行かれた頼朝公は帰途落馬して死に、当の重成も後に誅された。不吉なのでもう架けない方がよいのでは』という見解を将軍家(=実朝)に申し上げると、『父上は功成り遂げた後に往生されたのだし、重成は自業自得であって橋とは関係ない。橋があれば近隣住民も助かるのだから、早く修復せよ』と仰せられた」と書かれています。
稲毛重成とは、北条政子・義時の妹を娶っていた御家人。その妻が亡くなり、供養として架けたのがくだんの橋だったのです。重成は元久2年(1205)、北条時政の意を受け畠山重忠一族を討ち取りますが、直後に彼自身も殺害されました。

しかし13歳で初陣を果たし、生涯弓馬と離れる事のなかった頼朝が、そうあっさりと落馬するものか疑問も残ります。そして他の書物には別の原因も記されています。

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祝・復刊!〜『悪人列伝』

4167135493悪人列伝―中世篇
海音寺 潮五郎

文藝春秋 2006-12
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歴史上の人物は自ら弁護する自由がない。だから評伝するにあたっては、検事の論告のようであってはならない、判事のようであるべきだというのが著者の態度だ。
この巻には、藤原兼家、梶原景時、北条政子、北条高時、高師直、足利義満の六人をとりあげ、従来の悪人像を人間的な史眼によって再評価している。

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青蓮院

青蓮院は、知恩院の北隣にある天台宗の門跡寺院です。その歴史は非常に古く、伝教大師最澄が比叡山に造った僧侶の住坊のうちの一つが起源と伝えられています。
門跡寺院とは、皇族や摂関家など高貴な身分の子弟が入寺した、特定の寺院を指します。中でも青蓮院は、妙法院・三千院と並び天台宗の三門跡とされる格式の高さを誇りました。歴代の門主には、天台座主を4度務めると共に歴史書「愚管抄」を著わした慈円(藤原忠通の息子で九条兼実の弟)や、幕末に朝廷内の公武合体派として活躍した、中川宮こと青蓮院宮尊融親王(維新後は久邇宮朝彦親王)などがいます。
現在はこじんまりとした印象のお寺ですが、安土桃山時代までは今の知恩院の範囲も寺域内に含んでいた、大規模な寺院だったそうです。

青蓮院14 青蓮院12
(*クリックすると画像が拡大します)

左は門前に建つ碑、右は境内入口横の紅葉です。
門前には親鸞上人の手植と伝えられる樹齢800年の大きなクスノキがあり、天然記念物に指定されています。親鸞は9歳の時に慈円の元で出家し、その後も師の法然と共に慈円の庇護を受けました。宗派は違えど縁の深い人物ということで、境内には親鸞童形像も建てられています。

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平安神宮

平安神宮は明治28年(1895)に平安遷都1100年を記念し、遷都当時の天皇である桓武天皇を祭神として創建されました。
また創建を記念して同年より、平安京遷都の日である10月22日に時代祭が行われるようになりました。その後、皇紀2600年にあたる昭和15年(1940)には、平安京最後の天皇・孝明天皇が合祀されています。
当時の京都は、天皇や公家衆がこぞって東京へ移住して人口が急激に減り、町は寂れかけていたといいます。京都が日本の都であった時代の最初と最後の天皇を祀るこのお社に、人々はかつての雅で華やかだった平安京の面影を見たことでしょう。

平安神宮1 大鳥居
(*クリックすると画像が拡大します)

大鳥居。これは昭和4年(1929)に建てられました。
高さは24.4mで、日本最大級だそうです。この写真ではあまりよくわからないけど、近くで見るとほんとにデカい!

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さよなら山内夫妻〜『功名が辻』最終回「永遠の夫婦」

今年の大河ドラマもついに最終回を迎えました。終わってみれば早いものですね。
最終回は、一豊が死んでから幕府と豊臣家の対立・大坂の陣を経て、千代が亡くなるまでの十数年を1回で収めきれるのかと心配でしたが、結構手堅くまとめられていてよかったです。
特に一豊の臨終シーンと、ラストの回想シーン以降はなかなか感動的でした。最後のナレーションは余計だったけどね…。

また今回は、ラストということで夫妻にゆかりのある人物が総出演でしたね。祖父江新右衛門の次男なんて、存在を忘れかけてましたよ(^^;
かなり無理矢理登場させてるな〜と感じた人物(堀尾吉晴とか)もいましたが、そこはまぁ視聴者サービスてことで許せました。

不満だった点は、淀殿の死にざまですかね。あまりにあっけなくて、何じゃこりゃ?って。あくまで誇り高い女性として、最期はやっぱ自害して欲しかったかな。でもこのドラマの淀ならば、あれでよかったのか?よくわからん(爆)
ちなみに淀殿のキャラは、初めはやり過ぎ感がして好きになれなかったけど、秀吉が死んで少し落ち着いてしまうと、今度はなぜか物足らない気すらしました(笑)。傲岸な態度の裏にある悲しみを、永作博美は上手く演じていたと思います。
あと秀忠役の中村梅雀は、変にキョドってる設定な上に、家康の西田局長(@探偵ナイトスクープ)と並ぶと、まんま『八代将軍吉宗』の再現で笑えた。しかしあんなチョイ役なら、わざわざ梅雀さんに演じさせなくてもいいような気も…。

毎年のことですが、(何度か見逃してるとはいえ)一年間見続けて来たドラマが終わると、一抹の寂しさがありますね。スタッフ&キャストの皆様、お疲れさまでした。

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相国寺

相国寺は京都御苑の北側、今出川通を挟んで同志社大学の奥を入った所にあります。

相国寺1 総門
(*クリックすると画像が拡大します)

この寺は室町3代将軍の足利義満が、当時既に死去していた夢窓疎石を勧請開山として、約10年の歳月を費やし明徳3年(1392)に完成させた一大禅宗伽藍です。相国とは太政大臣の唐名で、義満がのちに太政大臣の位についたことから命名されました。
創建時は約144万坪もの寺域を持つ京都最大の禅宗寺院の一つで、また五山文学の中心地として栄えましたが、不幸なことに度々火災に見舞われています。最初は完成からわずか2年後に全焼し、その後も応仁の乱などに巻き込まれ、室町時代だけで計4回焼失。江戸時代に入ってからも天明8年(1788)の大火で大部分の堂宇を焼失し、現存伽藍の殆どは19世紀初頭の文化年間の再建です。
現在は鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)を初めとする末寺を全国130カ寺に擁し、臨済宗相国寺派の大本山となっています。

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駿河大納言の乱心 ー 徳川忠長

寛永10年(1633)の12月6日、3代将軍徳川家光の実弟である忠長が、幽閉先で自害しました。
彼は乱行が募って父や兄に疎まれ、大逆非道の罪で改易・蟄居処分となり、自刃して果てたのでした。幼い頃は利発な若君と評判だったのに、何故自滅の道を歩んでしまったのでしょうか。

◆両親に愛された弟
忠長は慶長11年(1606)、2代将軍の徳川秀忠と正室・お江与(崇源院)の3男として出生しました。家光より2歳年下で、幼名は国松(または国千代)と言います。
秀忠夫婦は病弱でおっとりした性格の竹千代(家光)より、才気煥発で容姿も優れていた国松を可愛がったため、見かねた家康が嫡庶の別を正すように示唆したといわれています(竹千代の乳母・春日局が家康に実情を訴えたという話も)。城内の者たちも、将軍夫妻の愛情深い国松を「もしや次期将軍は国松君では」と考えチヤホヤしていたようで、蔑ろにされた竹千代の屈辱感は後々まで尾を引くことになります。
またドラマ等ではよく「竹千代を春日局に取られたと感じたお江与が、せめて国松だけはと自分の手元で育てた」となってますが、当時の上流階級の女性が自分で子育てをする事はまずありえません。国松の乳母は、秀忠の側近・土井利勝の妹がつとめていたそうです。

◆栄華と転落の軌跡
成長した忠長は元和4年(1618)甲斐20万石を拝領し、元和9年に織田信雄(信長の次男)の孫娘を妻に迎えました。寛永元年(1624)駿河・遠江に転封し55万石を領し、2年後には権大納言に叙任され通称「駿河大納言」と呼ばれるようになります。
御三家をも凌ぐ待遇を得た忠長は、領国経営に勤しみます。寛永3年(1626)将軍家光が上洛する際、渡渉の不便を解消すべく大井川に舟橋を架けたり、城下町の再開発を図ったりしました。
同年、後水尾天皇の二条行幸の随行のため上洛している際、崇源院の訃報に接しました。自分を溺愛してくれた母を失った現実は、やがて忠長の心を深く蝕んでいくことになります。

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京都御苑

京都御苑とは、かつての京都御所・仙洞御所(上皇の住まい)などを囲んでいる一画です。面積約63ヘクタールもの広大な地所で、現在は国民公園として開放され、市民のくつろぎの場ともなっています。

京都御苑11
(*クリックすると画像が拡大します)

平安京成立当時の内裏(皇居)は、今の御苑より約2kmほど西の場所でしたが、やがて度々の戦乱や火災で荒廃してしまいました。もともと里内裏(臨時の皇居)だった「土御門東洞院殿」を、元弘元年(1331)光厳天皇の即位の際に使用して以来、正式な御所と定めたのが現在の京都御所にあたります。南北1300m・東西700mに及ぶ敷地内には、明治以後東京に遷都するまで、200もの宮家や公家の邸宅が建ち並び公家町が形成されていたそうです。
御所はその後も何度も大火に見舞われ、現存の建物は安政2年(1855)に再建されたものです。

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江戸時代の落書きアート?

NIKKEI NET「松山城に武士の似顔絵、江戸時代建築職人の落書きか」
 松山城天守閣(松山市、重要文化財)の約40年に1度の改修工事で、はがした壁板の裏に描かれた武士の似顔絵が見つかった。松山城総合事務所は、江戸時代後期の再建工事で職人が落書きしたとみている。
 壁板は長さ約2メートルで幅18センチ。黒い墨で武士の絵が2カ所に描かれていた。一つは真正面からの絵で、目をつり上げ、口をへの字に結んだ厳しい表情。裃の線がうっすらと見える。
 もう一つは、真上から見下ろしたようなちょんまげ頭の絵で、紋付きを羽織っている。服装などから工事の現場監督をしていた「作事奉行」とみられる。同事務所は家紋を分析し、誰の似顔絵なのか推定したいという。
 同事務所の森正経学芸員は「工事を厳しく監督する奉行の似顔絵を描いて、クスクス笑っていたのでは」と想像。平和な時代の穏やかな武士と職人の関係を浮かび上がらせる貴重な発見としている。(後略)


ぷぷっ(≧m≦) リンク先に載ってる、正面顔の落書きが笑える〜。
口うるさい奉行に対して、こっそりこんな落書きを描いてストレス発散してたんですかね。仕事後に職人同士で飲みに行ってブーブー文句言ったり、裏で奉行に変なあだ名をつけて笑い者にしたりとか(←妄想し過ぎ)
歴史的な価値があまりなくとも、当時の人々の感覚や生活ぶりが伝わってくるような物が見つかると、何だか楽しいですね。当たり前の事とはいえ、昔の人も現代人と変わらない一面があったんだなと実感できます。
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