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TV『その時歴史が動いた〜ひらがな革命・古今和歌集』

私たちが学校で最初に学ぶ文字「ひらがな」。しかし、「ひらがな」が公式に使われるようになったのは漢字よりずっと後のことだった。そして、その背景にはある政治的意図があった。
平安時代中期、日本では中国に学んだ律令制度が崩壊の危機を迎え、抜本的な政治改革が求められた。この時、朝廷で政治を担ったのが、中国文化の教養で出世の階段を登った菅原道真と、エリート貴族で和歌の名手だった藤原時平の二人のライバル。
道真は衰退しつつあった唐に解決策を求めることをあきらめ、遣唐使を廃止。律令制度から脱皮した政治体制を作ろうと改革に乗り出す。しかし貴族たちの反発にあい志半ばで失脚。後を継いだ時平は、改革を進めるには律令制度導入以来、中国の思想や制度を絶対視してきた官僚達の意識変革が重要と考える。そして、新時代を告げるシンボルとして、和歌に使われ漢字より低く見られていた日本独自の文字「ひらがな」に注目、「ひらがな」で書かれた勅撰和歌集の編纂を命じる。
この完成を契機に改革は軌道にのり、『源氏物語』などの「ひらがな文学」が誕生、「国風文化」が花開く。
「ひらがな」が正式な日本語として認められるまでの知られざるドラマを描く。


久しぶりの平安もの!なので、放送予定を知った時から楽しみにしておりました。
この番組、今に始まったことじゃないけど、最近特に取り上げる時代が戦国と近代に偏り過ぎな気がするんだよねぇ。同じ時代や人物を何度も扱うより、たまには平安〜室町あたりもクローズアップして欲しいな。戦国時代でも、前半は全然やらないし…(-"-;)

不満はとりあえず置いといて、今日の放送はなかなかよかったと思います。
特に、藤原時平については「イメージが変わった!」という人が多かったんじゃないでしょうか。私も以前は、嫉妬心と私利私欲から菅原道真を左遷に追いやった、しょうもない奴(笑)だと思い込んでました。しかし実際は優れた政治手腕を持ち、道真の件も周りの貴族たちや天皇・上皇を巻き込んだ複雑な思惑が絡んでいた…という事を知り、単なる安っぽい悪人ではないのだなと認識するようになりました。

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四天王寺

大阪市内中心部の住宅街にある四天王寺。『日本書紀』によれば、今から約1400年前の推古天皇元年(593)に聖徳太子が建立した、日本仏法最初の官寺です。
その6年前、仏教支持派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間で戦いが起こりました。蘇我氏側についた太子は、仏教の守護神・四天王に「もし戦に勝てば必ず、四天王を安置する寺塔を建てます」という祈願をし、勝利を収めました。そして報恩謝徳のため、摂津難波の荒陵(あらはか)に建てられたのが四天王寺です。
長い歴史の中で度重なる戦火に見舞われ、創建当初の建物は残っていませんが、多数の宝物と飛鳥時代の様式を再現した中心伽藍が当時の雰囲気を今に伝えています。

四天王寺1 石の鳥居 四天王寺2 極楽門
(*クリックすると画像が拡大します)

左画像は、寺の西側入口に建つ石の鳥居。創建時の木造の鳥居を、永仁2年(1294)忍性上人が石造に改めたもので、重要文化財に指定されています。
中央の扁額には「釈迦如来転法輪処 当極楽土東門中心」と書かれており、「ここはお釈迦様が説法を説く所で、極楽の中心である』という意味だそうです。
右画像は、鳥居の内側にある極楽門。かつては「西の大門」という名前でしたが、戦後再建された後、極楽に通ずる門の意で極楽門と呼ばれるようになりました。

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漫画『学研まんが 人物日本史』シリーズ



私が歴史好きになったのは、同じような人は多いと思うけど、子供の頃に読んだ学習用の歴史漫画がきっかけです。あれと出会ってなければ、たぶん今頃こんなブログもやっていなかっただろう…という程、自分にとっては影響力の大きい(大きいか?)ものでした。
通史の本は、名作と名高い小学館「少年少女日本の歴史」を愛読してたけど、一方で学研から出されていた伝記本漫画「人物日本史」シリーズも集めていました。このシリーズの中で、私が特に印象に残っている2冊を紹介します。

ちなみに小学館のは大学生くらいまで持ってたんですが、学研の方は中学生の時に処分してしまったので、さすがにだいぶ記憶が薄れています。この記事を書くにあたって図書館で読み直して来ようかなと最初考えたんだけど、あえて記憶だけで書いてみるのもおもしろいかなと。なので今もこの本をお手持ちの方で、間違いに気付いてもあんまり怒らないでね(^^;

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若き江戸っ子の魁先生 ー 藤堂平助

慶応3年(1867)11月18日の深夜、御料衛士盟主の伊東甲子太郎と3人の同志が、以前在籍していた新選組の者たちによって暗殺された「油小路事件」が発生しました。これは新選組最後の、そして最も大規模な内部抗争となりました。
新選組誕生時からのメンバーでありながら隊を離脱し、この事件でかつての盟友たちにより討たれた藤堂平助について、今回は紹介します。

◆殿様のご落胤
藤堂平助は弘化元年(1844)江戸生まれ、諱は宜虎(よしとら)といいます。
彼の出自には「伊勢国津藩主・藤堂和泉守高猷(たかゆき)の御落胤」という有名な説があります。藤堂の刷刀「上総介兼重」は津藩御抱えの刀工で、一介の浪人が買えるようなものでない(新選組隊士の佩刀の中で最も高額)のが根拠とされています。母は駒込の花屋の娘と伝わっていますが、真偽の程は定かではありません。しかし藤堂の御落胤話は同時代の薩摩藩の雑記録にも記されており、当時は結構信じられていた噂だったようです。
長じて千葉道場玄武館に入門し、北辰一刀流目録を取得しますが、後の御陵衛士同志・加納鷲雄は「藤堂は、(当時道場を開いていた)伊東の寄り弟子だった」と述べています。その後に近藤勇の道場・試衛館に出入りするようになったと思われますが、経緯や時期については不明です。

◆上洛、新選組幹部へ
文久3年(1863)試衛館の面々と浪士組に参加し上洛。新選組結成後は副長助勤、後に8番隊組長に就任しました。幹部格の中では斎藤一と並び最年少でした。翌年6月の池田屋事件では近藤隊に配属され、屋内に突入し奮戦。額を負傷し途中で戦線を離れますが、くだんの刷刀の刃は「ささらのごとく」ぼろぼろになってたそうです。
禁門の変に参加後間もなく、藤堂は入隊者を募るため江戸に下ります。この時彼は、かねてからの知古である伊東を誘いました。永倉新八は『新撰組顛末記』で「藤堂は伊東を入隊させる事により、隊の反佐幕化を図った」としていますが、加納は「伊東に『新選組は勤王集団です』と加盟を勧めた」と語ってます。いずれにせよ伊東は、遅れて江戸にやって来た近藤と面談し、新選組への入隊を決意しました。

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第三回アンケート結果

先日の告知通り、アンケート『新選組で最強の剣士は?』は、本日をもって終了させていただきました。今回も投票にご協力いただいた方々、どうもありがとうございました。
過去の結果については、下記の記事をご覧下さい。
・第一回アンケート「あなたの一番好きな戦国武将は?」
・第二回アンケート「貴方が好き・興味のある将軍は誰?」

では×2、早速結果発表です。

1位/沖田総司(29票)
沖田総司像(サムネイル)
総得票数の半分近くを集めた、断トツの一位です。
「名前的に沖田さんかな」というコメントにもある通り、新選組に興味がなくとも沖田総司の名前は知ってる人が大半ですし、結果としては妥当でしょうね。おめでとうございます〜
ちなみに↑の画像はあまり貼りたくなかったんだけど(笑)、他にコレといっていいのも見つからなかったので仕方なく、昔総司の記事を書いた時に続いてまた採用…。

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悲劇の歌人皇子 ー 有間皇子

古代では皇位をめぐる争いは、敗れた者はたとえ皇族でも惨殺される事が少なくありませんでした。政争の犠牲となった人々の中でとりわけ有名なのは、若くして命を断たれた孝徳天皇の皇子・有間皇子と天武天皇の皇子・大津皇子の2人でしょう。
11月11日は、その有間皇子の命日にあたります。

◆父帝に先立たれ
有間皇子は、父が有馬温泉に湯治へ赴いた時に生まれたため、その名がついたと言われています。ちなみに母は小足媛(おたらしひめ)といいます。
父の孝徳天皇は、中大兄皇子と中臣鎌足が中心に起したクーデター「乙巳の変」(645年)の後に即位しました。先帝の皇極天皇は中大兄皇子の母親で、孝徳天皇の実姉です。つまり有間皇子と中大兄皇子は、従兄弟同士の関係になります。
孝徳天皇はクーデターの同年、都を飛鳥から難波宮に遷都し、そこで中大兄皇子や鎌足と共に数々の改革に着手します(=大化の改新)。しかし白雉4年(653)、中大兄皇子は都を再度飛鳥に戻すよう要求してきました。天皇が拒否すると、中大兄皇子はほとんどの皇族や臣下達を連れて飛鳥に帰ってしまったのです。中大兄皇子の妹・間人皇女(はしひとのひめみこ)は孝徳天皇の皇后でしたが、彼女ですら兄に付き従い、天皇の元から去ってしまいました。
気落ちした天皇は失意の中、翌年の10月に難波京で崩御。そして先帝・皇極女帝が、飛鳥京で斉明天皇として重祚しました。

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リンクとアンケートの件、その他諸々

せっかく好天に恵まれた3連休だったというのに、わたくしは食あたりで死んでました・・・。みんな健康には気をつけよう><
それはさておき、この度リンク先に「平家礼賛」様「Samurai World」様を追加させていただきました。両サイト様とも大変内容が充実しており見応えがありますので、ぜひご一見下さい。

それから、右カラムで現在実施しているミニアンケート『新選組最強の剣士は?』は、11/15で締め切ります。一度投票済の方でもOKなので、気が向けばご協力のほどををよろしく〜。

あと、最近更新が滞りがちですみませんm(_ _)m お世話になってる方々の所にもなかなか遊びに行けなくて…。もしかしたら、しばらくこんなペースが続くかもしれません。書きかけで中断してる記事も2つほどあるので、できあがったらひっそりアップしておくので気付いたらまた読んで下さい(^^;

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関東独立国家の夢の終焉 ー 北条氏直

11月4日は、後北条氏の最後(5代目)の当主・北条氏直が、天正19年(1591)に亡くなった日にあたります。
後北条氏は京から関東にやって来た伊勢長氏(北条早雲)に始まり、5代100年に渡り大きな勢力を振るいましたが、天正18年に豊臣秀吉の小田原征伐を受けて滅亡しました。なぜ彼らはあっけなく滅びてしまったのか、氏直の生涯と共に簡単に紹介してみます。

◆嫡男として順調に育つ
北条氏直は永禄5年(1562)、小田原城で誕生しました。幼名を国王丸といいます。父の氏政は北条氏4代目当主、母の黄梅院は武田信玄の長女でした。しかし永禄12年、信玄の駿河侵攻がきっかけで武田・北条・今川の三国同盟が破綻。それに伴い黄梅院は甲斐に送り返されため、氏直は母と生き別れになってしまいました。ちなみに彼女は実家に戻った半年後、27歳で亡くなっています。
その後の氏直は天正5年(1577)に元服と初陣を果たし、3年後に19歳で家督を継ぎます。しかし実権は、隠居の父・氏政が引き続き握っていました。北条氏は氏直と織田信長の娘の婚姻を計画し、織田家との縁戚関係を背景にして、関東を統一しその主となる ー という秘かな願望を持っていました。

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