伝説の高塔・浅草十二階物語
明治中期から大正時代にかけて、東京でもっとも高い建物でありランドマーク的存在だった浅草凌雲閣(りょううんかく)。建物の高さをとって、通称「浅草十二階」とも呼ばれていました。
関東大震災で被害を受けて取り壊され、実際の姿を見た人はいまやほとんどいないと思いますが、多くの文学やメディア作品に登場する一種伝説的な建築物です。
◆大評判となった日本一の高塔
江戸時代には浅草寺の門前町だった浅草は、明治6年(1873)に日本初の公園に指定され、深夜まで店舗の営業が許可されるようになりました。その後馬車鉄道や隅田川の蒸気船の開通により、一大繁華街として発展します。
そんな中、凌雲閣が開業したのは明治23年(1890)11月11日のこと。前年完成したパリのエッフェル塔の人気が日本でも報じられたり、その2年ほど前から大阪で眺望閣(5階建)や北野凌雲閣(9階建)などの高閣が評判を呼んでいたのが、建設のきっかけになったと言われています。
建物は八角形をしており、10階までは赤煉瓦造りで11・12階は木造。高さは220尺(約66m)と報じられましたが、後に再測したら避雷針も含め173尺(約52m)であることが判明。それでも当時としては日本最高層の建築物でした。
内部は2階から7階までに46の店舗が入り、8階は休憩室、それより上層階は展望室。店舗には輸入品を扱う店が多く、さながら百貨店の前身のような様相を呈していました。観覧料は大人8銭・子供4銭。最上階には30倍の望遠鏡も設置されており、「関八州の山々まで見渡せる」と謳われました。また売り物として「百美人投票」なるコンテストの写真展示と、日本初のエレベーター(当時は「エレペートル」と呼ばれた)が1〜8階まで2基設置されました。しかしこれは開業直後から故障が頻発し、半年あまり経った翌年の5月に操業中止となります(のち大正3年(1914)に再設)
モダンな外観と途方もない高さが人々の度肝を抜き、十二階はたちまち浅草のシンボルとなりました。翌年の正月三が日には、帝都を一望しようと訪れた客の数は約2万人にも上ったそうです。明治・大正期の浅草の絵はがきには、塔の南側にあった通称「ひょうたん池」越しの十二階がしばしば写されています。
・在りし日の浅草十二階の絵はがき
関東大震災で被害を受けて取り壊され、実際の姿を見た人はいまやほとんどいないと思いますが、多くの文学やメディア作品に登場する一種伝説的な建築物です。
◆大評判となった日本一の高塔
江戸時代には浅草寺の門前町だった浅草は、明治6年(1873)に日本初の公園に指定され、深夜まで店舗の営業が許可されるようになりました。その後馬車鉄道や隅田川の蒸気船の開通により、一大繁華街として発展します。
そんな中、凌雲閣が開業したのは明治23年(1890)11月11日のこと。前年完成したパリのエッフェル塔の人気が日本でも報じられたり、その2年ほど前から大阪で眺望閣(5階建)や北野凌雲閣(9階建)などの高閣が評判を呼んでいたのが、建設のきっかけになったと言われています。
建物は八角形をしており、10階までは赤煉瓦造りで11・12階は木造。高さは220尺(約66m)と報じられましたが、後に再測したら避雷針も含め173尺(約52m)であることが判明。それでも当時としては日本最高層の建築物でした。
内部は2階から7階までに46の店舗が入り、8階は休憩室、それより上層階は展望室。店舗には輸入品を扱う店が多く、さながら百貨店の前身のような様相を呈していました。観覧料は大人8銭・子供4銭。最上階には30倍の望遠鏡も設置されており、「関八州の山々まで見渡せる」と謳われました。また売り物として「百美人投票」なるコンテストの写真展示と、日本初のエレベーター(当時は「エレペートル」と呼ばれた)が1〜8階まで2基設置されました。しかしこれは開業直後から故障が頻発し、半年あまり経った翌年の5月に操業中止となります(のち大正3年(1914)に再設)
モダンな外観と途方もない高さが人々の度肝を抜き、十二階はたちまち浅草のシンボルとなりました。翌年の正月三が日には、帝都を一望しようと訪れた客の数は約2万人にも上ったそうです。明治・大正期の浅草の絵はがきには、塔の南側にあった通称「ひょうたん池」越しの十二階がしばしば写されています。
・在りし日の浅草十二階の絵はがき
[More...]
Let's 戦国cooking!
- Sun
- 18:57
- 徒然雑記
先日久々にアクセス解析をチェックしていると、キーワード検索で
「信長と光秀の戦国クッキング」なる謎のフレーズが。
(しかもYahooで検索すると、うちが一番上に表示された…なんでだよ)
はあ〜?いったい何じゃそれは!???てな訳で非常に気になって調べてみたら
東京ガス:ガス・パッ・チョ!(サイト下部の「TVCM紹介」をクリック)
のショートムービーだと判明。早速見てみると、信長のワガママぶりと光秀の若干さむいツッコミに心を打たれました(笑)
全然知らなかったけど、東京ガスのCMて妻夫木くんといろんな歴史上の人物が共演してるのね。他のバージョンもとぼけた感じでおもしろいし!「妹子って呼んで♪」の酒井若菜がかわいい。大阪ガスも負けないように、もっと弾けたCM作って欲しいよ。「秀吉と三成の安土桃山クッキング」とかさぁ(語呂悪い…)
んで、自分も一丁『信長風気まぐれ炒め』を作ってみようかと思い立ったのですが(アホですか?)レシピを見るとパプリカだのマンゴーだのスターフルーツだの、気まぐれで作るには材料費が結構お高くつきそうなのでやめました。次回はもっと、庶民のフトコロに優しい料理をお願いしたい…個人的には酒の肴系が希望です。しかしこれ、ほんとに美味しいのかな??
【追記】
実際に『気まぐれ炒め』を作ってみた方の記事を見つけました〜。
「明智光秀はお嫌いですか?」実践!信長と光秀の戦国クッキングー!
うーん、お値段もだけど手間ひまもそれなりにかかりそうな様子…一人で食べるのもむなしいから、家に客人が来た時にでも作ってみようかな。「何これ!?」て言われそうな気もしますが(^^;
「信長と光秀の戦国クッキング」なる謎のフレーズが。
(しかもYahooで検索すると、うちが一番上に表示された…なんでだよ)
はあ〜?いったい何じゃそれは!???てな訳で非常に気になって調べてみたら
東京ガス:ガス・パッ・チョ!(サイト下部の「TVCM紹介」をクリック)
のショートムービーだと判明。早速見てみると、信長のワガママぶりと光秀の若干さむいツッコミに心を打たれました(笑)
全然知らなかったけど、東京ガスのCMて妻夫木くんといろんな歴史上の人物が共演してるのね。他のバージョンもとぼけた感じでおもしろいし!「妹子って呼んで♪」の酒井若菜がかわいい。大阪ガスも負けないように、もっと弾けたCM作って欲しいよ。「秀吉と三成の安土桃山クッキング」とかさぁ(語呂悪い…)
んで、自分も一丁『信長風気まぐれ炒め』を作ってみようかと思い立ったのですが(アホですか?)レシピを見るとパプリカだのマンゴーだのスターフルーツだの、気まぐれで作るには材料費が結構お高くつきそうなのでやめました。次回はもっと、庶民のフトコロに優しい料理をお願いしたい…個人的には酒の肴系が希望です。しかしこれ、ほんとに美味しいのかな??
【追記】
実際に『気まぐれ炒め』を作ってみた方の記事を見つけました〜。
「明智光秀はお嫌いですか?」実践!信長と光秀の戦国クッキングー!
うーん、お値段もだけど手間ひまもそれなりにかかりそうな様子…一人で食べるのもむなしいから、家に客人が来た時にでも作ってみようかな。「何これ!?」て言われそうな気もしますが(^^;
- Tag :
- 戦国時代
漫画『へうげもの』
![]() | へうげもの 1 (1) 山田 芳裕 講談社 2005-12-22 売り上げランキング : 1924 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
"へうげ"とは ー 読みは"ひょうげ"、ふざけおどけることの意。
群雄割拠、下剋上の戦国時代。立身出世を目指しながら、茶の湯と物欲に魂を奪われた男がいた。織田信長の家臣・古田左介。天才・信長から壮大な世界性を、茶聖・千宗易(利休)から深遠な精神性を学び、「へうげもの」への道をひた走る。
週刊モーニングで連載中。単行本は3巻まで刊行(2006年9月現在)
[More...]
- Tag :
- 戦国時代
漫画『JIN ー 仁』
![]() | JIN ー 仁 (第1巻) 村上 もとか 集英社 2001-04 売り上げランキング : 16004 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
脳外科医・南方仁はある夜、病院から逃走を図った身元不明の入院患者と揉み合ううち、なぜか幕末の江戸へタイムスリップしてしまう。途方に暮れながらも医師の魂を奮い起こし、現代の医療器具も薬もない中で、自分の知識のみを頼りに人々の命を救うべく活躍していく物語。
スーパージャンプで連載中。単行本は5巻まで刊行(2006年9月現在)
[More...]
- Tag :
- 幕末
花隈城
織田信長に叛旗を翻した荒木村重ゆかりの城「花隈城」の跡地に、先日行って来ました。はっきり言って、史跡としては見る影もない状態なんですが(笑)まぁ一応ご紹介。
花隈城は永禄10年(1567)に信長が中国へ勢力を伸ばす拠点として、摂津守護の和田惟政に築かせました。その後、摂津を治めることになった村重が修築して完成させたといいます。
天正6年(1578)村重は突然、信長に対し謀反を起こしました。伊丹の有岡城・ついで尼崎城に篭城しますが、最終的には城を脱出し毛利氏を頼って安芸に逃亡。花隈城も池田恒興・輝政親子らに攻められ、天正8年8月2日落城。築城後わずか13年後のことでした。一説では、村重は尼崎城を出た後ここに逃げ込んだとも言われています。
城の地点は、当時は海に面して突き出た台地だったらしく(現在は海岸線からだいぶ離れている)海陸の要害地でした。古図によると本丸の西北隅に天守、東南隅に櫓を設けて二の丸、三の丸と北に続き、その東に侍町と足軽町があり、東西約350m・南北約200mの規模を誇る近世城郭の形態を完備した偉容を示していたと伝えられるものの、建物の詳しい構造などは不明です。

(*クリックすると画像が拡大します)
公園内には「花隈城趾」と記された碑が建っており、かつてここに城があった事を伝えています。昭和3年(1928)に、池田輝政の子孫である池田宣政侯爵が建てたものです。
花隈城は永禄10年(1567)に信長が中国へ勢力を伸ばす拠点として、摂津守護の和田惟政に築かせました。その後、摂津を治めることになった村重が修築して完成させたといいます。
天正6年(1578)村重は突然、信長に対し謀反を起こしました。伊丹の有岡城・ついで尼崎城に篭城しますが、最終的には城を脱出し毛利氏を頼って安芸に逃亡。花隈城も池田恒興・輝政親子らに攻められ、天正8年8月2日落城。築城後わずか13年後のことでした。一説では、村重は尼崎城を出た後ここに逃げ込んだとも言われています。
城の地点は、当時は海に面して突き出た台地だったらしく(現在は海岸線からだいぶ離れている)海陸の要害地でした。古図によると本丸の西北隅に天守、東南隅に櫓を設けて二の丸、三の丸と北に続き、その東に侍町と足軽町があり、東西約350m・南北約200mの規模を誇る近世城郭の形態を完備した偉容を示していたと伝えられるものの、建物の詳しい構造などは不明です。

(*クリックすると画像が拡大します)
公園内には「花隈城趾」と記された碑が建っており、かつてここに城があった事を伝えています。昭和3年(1928)に、池田輝政の子孫である池田宣政侯爵が建てたものです。
[More...]
京都に憧れ続けた武将 ー 大内義隆
武士も大守ともなると、文化や芸術の教養が必要なのは当然ですが、あまりにもそちらに耽溺し過ぎて貴族化するとお家を衰退させる原因になりかねません。そういった人物として、戦国時代では今川氏真や朝倉義景などが有名ですが、今回はもう一人の典型例・大内義隆を紹介します。
◆西国一の大大名
大内義隆は永正4年(1507)に、周防・長門などの守護大名である大内義興の嫡子として生まれました。
父の義興は6ヶ国の守護を兼ねた、文武両道の優れた武将。また山口に身を寄せていた前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、義稙を将軍に復職させ、自らは管領代として11年間中央の政治を取り仕切る程の実力者でもありました。
亨禄元年(1528)に義興が病没し、家督を相続した義隆は大内氏のさらなる勢力拡大を目指しました。まず九州へ出兵し、長い戦いの末に大友氏と和睦して名門守護・少弐氏を滅亡させ、北九州をほぼ制圧しました。その後将軍家から促され上洛を計画しますが、父の代から紛争が絶えない出雲の尼子氏との対立が激化したため、これは取りやめます。
天文9年(1540)、先年大内氏の傘下に入った毛利氏の本拠地・吉田郡山城を尼子晴久が攻撃したため、義隆は重臣の陶隆房(のちの晴賢)や内藤興盛らを援軍に派遣しこれを撃退。また翌年には厳島神社家の友田氏・安芸守護の武田氏を続けざまに滅ぼして、安芸を完全に支配下に収めました。
このように義隆の前半生は、武人としての功績もなかなか優れたものでした。
しかし天文12年の尼子遠征での大敗がきっかけで、彼の武将としての活動は事実上終わった形になります。義隆は大軍を率いて尼子氏の本拠・月山富田城を攻めましたが、寝返りが出た大内軍は散々な総崩れ。また退却の途中、養嗣子・晴持は船が転覆し溺死してしまいました。
この敗戦が余程ショックだったのか、義隆は自ら出陣することをしなくなり、もっぱら文化的活動にうつつを抜かすようになっていきます。
◆西国一の大大名
大内義隆は永正4年(1507)に、周防・長門などの守護大名である大内義興の嫡子として生まれました。
父の義興は6ヶ国の守護を兼ねた、文武両道の優れた武将。また山口に身を寄せていた前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、義稙を将軍に復職させ、自らは管領代として11年間中央の政治を取り仕切る程の実力者でもありました。
亨禄元年(1528)に義興が病没し、家督を相続した義隆は大内氏のさらなる勢力拡大を目指しました。まず九州へ出兵し、長い戦いの末に大友氏と和睦して名門守護・少弐氏を滅亡させ、北九州をほぼ制圧しました。その後将軍家から促され上洛を計画しますが、父の代から紛争が絶えない出雲の尼子氏との対立が激化したため、これは取りやめます。
天文9年(1540)、先年大内氏の傘下に入った毛利氏の本拠地・吉田郡山城を尼子晴久が攻撃したため、義隆は重臣の陶隆房(のちの晴賢)や内藤興盛らを援軍に派遣しこれを撃退。また翌年には厳島神社家の友田氏・安芸守護の武田氏を続けざまに滅ぼして、安芸を完全に支配下に収めました。
このように義隆の前半生は、武人としての功績もなかなか優れたものでした。
しかし天文12年の尼子遠征での大敗がきっかけで、彼の武将としての活動は事実上終わった形になります。義隆は大軍を率いて尼子氏の本拠・月山富田城を攻めましたが、寝返りが出た大内軍は散々な総崩れ。また退却の途中、養嗣子・晴持は船が転覆し溺死してしまいました。
この敗戦が余程ショックだったのか、義隆は自ら出陣することをしなくなり、もっぱら文化的活動にうつつを抜かすようになっていきます。
[More...]
- Tag :
- 戦国時代

