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奈良時代の公害

日曜日の夜に放送されている『素敵な宇宙船地球号』という番組で、先日水銀について特集していたのですが、その中で「平城京がたった70年余りで滅びたのは、水銀が原因!?」と、いささかセンセーショナルな?話が紹介されていました。

東大寺の大仏(正式な名称は「東大寺盧舎那仏像」)は、創建時の部分は台座の一部しか残っていないのですが、その台座の下部をよく見ると金塗料が付着しています。これは、当時大仏の表面を金メッキで覆っていたからだそうです。
その方法とは ー まず金を水銀で溶かし、しばらくするとやわらかい固まりになります。この状態をアマルガムといい、それを大仏の表面に塗ります。そして炎であぶると、金より沸点が低い水銀が蒸発し、金が下から出て来て表面に残ります。
しかし大量の水銀蒸気により(使用した金は400kg、水銀はその5倍の2トンにも及んだとの事)、作業員に手足の痺れなどの中毒症状が頻発。当時の人々はこの奇病を「大仏の祟りだ」と恐れ、やがて大仏建設から数十年と立たないうちに、平城京から遷都せざるをえなかった・・と。


てな内容でした。でも桓武天皇が平城京から長岡京へ都を移したのは、既存の古い仏教勢力や天武天皇系統を支持する一派(桓武帝は天智天皇系)と縁を切りたかったからじゃなかったっけ…?私は奈良時代のことは疎いですが、まぁ庶民レベルでは「祟り」が囁かれていたとしても、それが遷都の最大の原因ではなかったと思うけどねぇ。
しかし大仏製造にあたって、そういう水銀中毒の害が出ていたのは初めて知りました。国家と人民の安泰を願って作り始めた筈の大仏が、結果は物資的にも人的にも多大な犠牲を払った末に完成に漕ぎ着けたのは、何とも皮肉だなと感じました。

「親切者」総長の死 ー 山南敬助

今日2月23日は、元治2年(1865)に新選組の総長を務めた山南敬助が亡くなった日です。隊から脱走を試み、追手の沖田総司に捕えられて連れ戻され、彼の介錯により壮絶な切腹を遂げる話はファンにはあまりにも有名ですが、その「脱走」の理由は諸説紛々、現在に至るまで謎のままとなっています。
死の真相だけでなく、彼の経歴には不明な部分が多くて、記事としてまとめるのは難しいんですが(実は面倒になって、やめようかと思った/笑)、まぁ追悼の意味を込めて判明している事だけでも書いてみたいと思います。

山南敬助は天保4年(1833)仙台藩の剣術師範の次男として生まれ、若い頃に脱藩し江戸に出て剣術を学んだ…と一般的にはなってますが、仙台には「山南」という名字は存在せず、正確なところは分かっていません。
また名字の読みは通常「やまなみ」ですが、「三南」「三男」という記述が確認されるため(当時の人名の記述は、読み方が合っていればOKだった)、実際は「さんなん」が正しいのではという説もあります。
(余談ですが、私が在住している県には『山南町(さんなんちょう)』という地名がある為、彼の名を初めて見た時「これで『やまなみ』て読むの?」とちょっと驚きました)

永倉新八の回想録では、山南は北辰一刀流を修め免許皆伝となってますが、近年の研究で小野派一刀流の門人だったという記録が残ってるそうです。その後、これもはっきりした年や来歴は不明ですが、天然理心流に入門したと思われます。
文久元年(1862)に近藤勇が宗家襲名の披露試合を開いた時、山南も試合に参加しているので、永倉や原田左之助たちのような食客(居候みたいなもの)扱いとは異なり、正式に門人となっていたようです。

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プレゼント当選発表

先日から大々的に(どこがだ)募集していた、ブログ一周年記念のプレゼント企画、昨日をもちまして締め切らせてもらいました。応募していただいた皆様、どうもありがとうございました。
お祝いのメッセージなどもいただき、今まで続けて来てよかったなと思えましたし、今後の励みにもなりました。
さて、図書カードに当選された方の発表です。

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一周年☆記念企画やっちゃうぞ

先日の2月8日をもちまして、このブログ「Cafe Japanesque」は、開設一周年を迎えました。

まったくの思いつきと勢いのみでスタートしたブログでしたが、自分の無知さを思い知らされて悩んだり、ネタに困ると時代劇や漫画の感想でごまかしたりしつつ、どうにか一年間続けることができました。ある意味奇跡です(笑)
それもこれも、日頃ここを訪れて下さる皆様のお陰だと思ってます。いただいたコメントに励まされたり、他の方のブログやサイトを見て刺激を受けたりしています。
最近は更新が遅れがちで、個人的な環境が変わればさらにペースが落ちるかもしれませんが、できるだけ長くブログを続けていきたいと考えてるので、今後ともよろしくお願いします。

そこで、日頃のご愛顧に感謝を込めて(←スーパーの安売りみたいだな)ささやかではありますが、プレゼントを用意させていただきました。
「全国共通図書カード 500円分」2名の方にあげちゃいます!
・・・ほんとにささやかですんませんm(_ _)m いろいろ考えたんだけど、いい物が他に思いつかなかったので…。まぁ歴史本購入時の足しにでもして下さい。
募集要項は「続きを読む」をクリック!

(この記事は、プレゼント募集締切日まで一番上に掲載しておきます)

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日本の名城100選

神戸新聞「100名城に兵庫県の5城」
 日本城郭協会は13日「日本100名城」を発表した。世界遺産の姫路城から、弥生時代の吉野ケ里遺跡(佐賀県)や近世の五稜郭(北海道)まで、時代と地域を代表する多彩な「城」を集めた。
 同協会は城を「土塁などで囲まれた防御施設」と定義。(中略)100名城は(1)優れた文化財(2)著名な歴史の舞台(3)時代や地域の代表 ー などを基準に、一般からの投票で集まった478城などを歴史や建築の専門家が検討した。兵庫県内では姫路城のほか、赤穂城、篠山城、明石城、竹田城(朝来市)の5つが選ばれた。有名でも小倉城(北九州市)や富山城(富山市)などは「史実通りに復元されていない」として選ばれなかった。(後略)


「日本城郭協会」てのがあるんですねー、しかも財団法人。昭和31年に設立された歴史ある団体みたいですが、私めは平成18年の今日まで知りませんでした(笑)
さて気になるその100選のラインナップですが、協会のHPを見たら、リストを見るにはPDFファイルをDLせにゃならんらしいので、ちょっと面倒でしょ?そこでヒマ人なやさしい私が、以下に転載してあげましたよ。

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神戸海軍操練所跡

幕末期に勝海舟の進言がきっかけで創設された「神戸海軍操練所」の跡地に行って来ました。

神戸海軍操練所跡1 神戸海軍操練所跡2
(*クリックすると画像が拡大します)

ことの成り立ちは文久3年(1863)、上洛中の将軍・徳川家茂が船で大阪湾を巡察した際に、軍艦奉行並の勝海舟も同行しました。そして神戸村に上陸した時、彼は家茂に「京都・大坂を控えた要害の地であるここに、ぜひ海軍の仕官育成機関を創りたい」と直談判します。海舟の提案は受け入れられ『神戸海軍操練所』設立が決定しました。
操練所は翌年の5月に完成し、以前から大坂で海舟が開いていた私塾も同じ場所に移転し『神戸海軍塾』となります。操練所は幕臣たちが学ぶ場所でしたが、海軍塾は諸藩の志士を集めており、その塾頭を務めていたのが坂本龍馬です。彼は海舟の指示を受け、越前藩主の松平春嶽から塾の建設資金を調達するなど活躍しました。
しかし同年6〜7月に起こった池田屋事件や禁門の変に、海軍塾生で係わった者がいたことが判明(池田屋で死んだ望月亀弥太は元塾生)。「勝が倒幕志士を育成している」などという噂が広がり、海舟は軍艦奉行を罷免され江戸へ召還、操練所も慶応元年(1865)に閉鎖となってしまいました。
実質一年ほどの命運だった神戸海軍操練所ですが、操練所と海軍塾からは龍馬を初めとして睦奥宗光・近藤長次郎などの人材を輩出し、これらのメンバーが後に亀山社中〜海援隊を結成する事になります。彼らにとっては、短くとも飛躍のための重要な期間であったといえるかもしれません。

某大手通信会社のビルの横にある橋の真ん中に、この碑はポツンと建っています。碇型の碑の前にある本を象った石の表面に、神戸海軍操練所についての説明が書かれていました。現在周りはオフィスビルなどが立ち並んでおり、残念ながら往時を偲ぶものはこの記念碑くらいしかありません。
私はたまたまこの近くに用事があったのでついでに寄ったのですが、駅から遠いし周りには特に何にもないので正直言って、地元の人orヒマ人orよほどの物好き以外には薦められる史跡ではありません(笑)。あとここから少し離れた「みなと公園」という所にも操練所の記念碑が、睦奥宗光(兵庫県知事も務めた)の顕彰碑と共に建っているそうです。

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殿様は美味がお好き♪ー 松平治郷

今日はバレンタインデーですね男性の皆様は、成果はどうでしたか?
個人的には、バレンタインが楽しみだったのは学生時代までかな…。社会人になると義理チョコが必須になるし、本命の方も、プレゼントとか考えるの面倒くさいし(^^;)
そんなコトはさておき。チョコや洋菓子には食傷した貴方に、和菓子の話です。
日本の三大菓子処て、どこだか知ってますか?京都、金沢、そして松江なんですよ。しかも、一人当たりの和菓子消費量が一番なのは松江。江戸時代に、流派を立ち上げてしまう程の茶道好きな藩主がいたことから、茶の湯につきものの和菓子が必然的に発展したのだそうです。
てなわけで今回は、今日が誕生日であるその名物お殿様、「不眛公」こと松平治郷を取り上げます。

治郷は宝暦元年(1751)に生まれ、父の隠居により17歳で家督を継ぎます。
松江藩松平家は、徳川家康の次男・結城秀康を祖とする越前松平家の傍流にあたる、親藩大名の名家。表向きは約19万石の石高がありましたが、代々その財政事情は苦しく、彼が藩主となった頃にはほぼ破綻状態といってもいいほどでした。そのため就任直後から、先代以来の家老・朝日丹波守茂保と共に藩政改革に乗り出します。

治郷と朝日丹波がまず実行したのは、積極的な農業政策でした。そのために治水事業や新田開発を行い、朝鮮人蔘やろうそく、さらには漆工や陶器などの特産物や工芸品の生産も奨励しました。また領民たちにも倹約令の施行や、藩債務の踏み倒し、年貢の割合の引き上げなど厳しい政策を強いることになります。
こうして藩の財政改革は成功しました。松江藩は、以前はからっぽだった藩の金蔵に、今度は多くの金銀が蓄財される豊かな藩へと変貌を遂げます。

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ドラマ『戦国自衛隊・関ヶ原の戦い』

一応ちゃんとした感想は、次回を見た後で書こうかなと予定しているので(気力があればの話だけど・・汗)短くササッと触れます。

まぁ時代考証についてはね、こういうドラマでうるさく言うのも野暮なので、そこは目をつぶりますよ。ほんとは、めっちゃいっぱいツッコミたいんだけど〜「家康も三成も、あの時期にあんな所にいないってば!」とか「淀殿があまりにオバハン過ぎる」「小早川秀秋は、何をしょっちゅう一人でぶらついてるんだ?」等々(結局書いてるじゃん(^^ゞ)

でもさー、それを差し引いても、描き方がすごい中途半端なドラマである印象を受けたんですよ。アクションに重きを置いてるのか、人間ドラマなのかどっちなのよ?という感じ。どうも掘り下げ不足というか、登場人物(特に自衛隊員たち)の行動や考え方に、必然性がいまいち感じられない事が多かったです。なので見ていて、結構イライラしたんですよねー。
でも来週は、隊員たちが東西両軍に別れて戦うことになるので(そこに至るまでの経緯は、私にはやっぱり強引に思えたけど)、ちょっとは入り込んで見ることができる…かな?
ちなみに自分があの状況に置かれたら、最初から何のためらいもなく東軍につくね!だって結果知ってるんだし、やっぱ生き抜くことが大事だもん♪→夢のない奴ですみません(笑)

俳優陣は、津川さんと藤原くんがよかったです。家康&本多正信を、津川&長門兄弟で演じてるのは笑えたけど。あと島左近役の松方弘樹もシブかったな。
(以上、2/1記載分)


というわけで、全部見たらちゃんと感想書くと宣言してしまった以上、一応触れますが・・なんていうか、新しく記事を立てる気にすらならないので、先週書いた分に付けたしという形にさせてもらいます。あぁーもう、出来れば思い出したくもないよ

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「幕末英傑集合写真」の怪

私がよく拝見しているブログ「花江茶亭」さんで先日、「幕末志士たちの集合写真」と称して出回っている、いわゆる『フルベッキ写真』についての新聞記事を取り上げていらっしゃいました。
とても興味深い記事だったので、こちらでも紹介させてもらおうと思います。

東京新聞「幕末の志士大集合 フルベッキ写真の謎」
【後日追記】東京新聞サイト内の記事は既に削除されてしまっているので、Internet Archiveより取得したページをリンクしています(画像は表示されません)。

■マユツバなのに収まらぬうわさ
 「根拠がないのに、うわさは一向に収まらない。困るんですよ。学者はみんな(英傑大集合は)マユツバだと言っているのに。次の次の世代になると、ますます本物だと信じる人が多くなる」この写真、いわゆる「フルベッキ写真」を撮影した日本の商業写真の開祖・上野彦馬。その弟の孫にあたる上野一郎・産業能率大学最高顧問は嘆く。
 「フルベッキ写真」が話題になった最近の例は1985年。自民党の二階堂進副総裁(当時)が議場に持ち込み、しばし歴史話に花が咲いた。「こちら特報部」では、その直後3回にわたって「追跡・謎の写真」を連載、長崎にあった佐賀藩校「致遠(ちえん)館」の生徒とフルベッキの写真で、撮影は1868(明治元)年から2年の間に撮られ、「英傑大集合」ではないとの結論に至った。その際、手がかりを教えてくれたのが上野氏で、同氏は「こんな騒ぎには終止符を」と語ったのだが…。

■明治天皇まで写っている説も
 2002年ごろ、今度はインターネットで高額で取引され「本物だろうか」との相談が寄せられた高知県立坂本竜馬記念館がホームページで注意を呼びかけた。ネットでは今も出回っている。ちなみに、21年前は、31人の英傑が「判明」していたが、現在出回っているものは44人全員の名が書き込まれている。明治天皇が写っているという説も。しかもネット時代だけに伝説は、より速く広範囲に広がる。
 さらに04年12月、朝日、毎日、日経の各紙に「幕末維新の英雄が勢ぞろい」「歴史ファン驚きの写真」と、写真を焼き付けた12万6千円の陶板額の広告が掲載され、「新聞に掲載されたのだから本物か」と謎が再燃した。広告文には「本物である可能性が高い」「この維新史の資料が埋もれていたことが惜しまれてなりません」とある。(中略)

 フルベッキ写真は、過去にも書物に登場している。大隈重信監修「開国五十年史」(明治40年)には「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」のタイトルで、岩倉具視の息子の岩倉具定らが写っていると説明文にある。雑誌「太陽」(同28年)も、1914(大正3)年の「江藤南白」も「佐賀藩の学生」と説明してきた。
 ところが肖像画家の島田隆資氏が1974、76年に雑誌「日本歴史」に論文を発表。島田氏は、複数の西郷の肖像画を比較し、西郷が写っていると断定。大久保利通、坂本竜馬、陸奥宗光、高杉晋作ら22人を割り出した。撮影時期は、彼らが写っているという前提のもと、維新前の1865(慶応元)年とした。他の書物にある「維新後」「致遠館」との矛盾は、維新後に敵味方に分かれた英傑たちが一緒に写っているのは困るという政府の圧力で、致遠館の学生として発表したと片づけた。
 顔が似ているかどうかを論拠にした島田論文を、文献を基に研究する歴史の専門家たちは「これだけの人が集まったのなら記録があるはず」と、相手にしてこなかったが、島田説の信奉者は多い。(中略)

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大徳寺/芳春院

大徳寺は正中2年(1325)、禅僧・宗峰妙超により開創されました。
後醍醐天皇の庇護を受け発展したものの、室町幕府が開かれると、後醍醐帝と関係の深かった大徳寺は五山十刹から格下げされました。この事をきっかけに大徳寺は五山十刹を離脱し、以後は在野的立場で座禅修行に専心する道を取ります。応仁の乱で一時荒廃しますが、一休宗純らが復興。戦国時代には豊臣秀吉や諸大名の帰依を受け、また一休に学んだ茶礼は村田珠光・武野紹鴎・千利休へと伝えられ、茶の湯の完成へと到ります。その後も貴族・大名・商人など幅広い層の保護や支持を受けて栄えました。

大徳寺は京都の寺院の中でも有数の規模を誇り、境内には20か寺を超える塔頭が立ち並んでますが、常時公開されているのはそのうち4か寺。各塔頭ごとに拝観料が必要なので全部見ると結構なお値段になるのと、時間にもあまり余裕がなかったため、今回は特別公開中だった加賀前田家の菩提寺・芳春院を中心に見て回る事にしました。

大徳寺4 芳春院
(*クリックすると画像が拡大します)

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