史上最強のハーレムキング ー 徳川家斉
が、彼らの愛人の数を足した合計よりも、まだ多い女性たちを囲っていた強者が江戸時代におりました。それは江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉です。作りも作ったり、その数は彼の一生のうちで40人を超えると言われています。今日はそんな好色一代男・家斉の命日(天保12年/1841)です。
*正確には「閏1月30日」になります。
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日本最古?の押し花発見
神戸新聞「国内最古?の押し花発見 江戸中期に標本文化」
約300年前の江戸時代中期に作られた「押し花」や「押し葉」の植物標本約70点が、豊岡市が保管する豊岡藩文書から見つかった。和歌集と一緒に残されており、調査に当たった兵庫県立人と自然の博物館(三田市)によると、国内最古の押し花標本の可能性が高く、保存状態も極めて良好だという。(中略)
同市史料整理室が昨年10月ごろ発見。豊岡藩主京極高永(1720〜60)の正室で、歌人として知られる梅寿院(1718〜97)が詠んだ和歌集とともに、縦、横10〜15センチの和紙に挟み冊子にするなどして、木箱に保管されていた。(中略)
和紙に書かれた記述によると、採集期間は1721(享保六)年〜52(宝暦二)年。場所は梅寿院が住んでいた江戸・麹町(現東京都千代田区)の京極家屋敷の庭が多い。ほかに「京都南禅寺」や「近江西光寺」、「相州宮の下(箱根)」などもあった。また、「おし花」の文字も明記されていた。
人と自然の博物館によると、押し花は、国立国会図書館に残る1800年前後のサクラソウが国内最古とみられていたという。(後略)
「大名らの生活伝える 西洋の影響以前の収集」
(前略)東京大学総合研究博物館の大場秀章教授は「(押し花を残した梅寿院は)科学的な探求心の持ち主だったのだろう。シーボルトなど西洋の自然科学の影響を受ける前に押し花をして保存していた意義は大きい」と強調する。
ほとんどが居住地の江戸の屋敷内で採集されており、兵庫県立人と自然の博物館の鈴木武研究員(植物分類学)は「このころから大名の間で花を愛でる生活が広がり始めたのではないか」と上流階級の暮らしぶりを想像する。
梅寿院は、生涯を江戸で過ごしたとされるが、一流の歌人に和歌を学び、歌に励んだことが知られている。見つかった押し花の中には、幼いころのものもあった。豊岡市史料整理室は「歌を詠む心と、自然を思う心が一致していることを深く感じる」と話す。(後略)
リンク先のページには、実際に見つかった押し花の標本の写真が載ってますが、300年近く前のものとは思えないほどきれいな状態です。
きっと、美しい草花や訪れた場所の思い出を、形にして残しておきたいという想いから押し花にしたんじゃないのかなぁ。ひとつひとつ丁寧に作ってある様子からも、梅寿院の人柄が伺えるように思います。
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3代目はお坊ちゃま ー 毛利輝元
三成は戦の首謀者で司令官でもあったけれど、名目上の総大将は当時の毛利家当主・毛利輝元でした。家康に対抗できる大大名として、三成や安国寺恵瓊が担ぎ出したのです。しかし輝元は、大坂城で豊臣秀頼の後見役として常駐しており、当日は一族を戦場に向かわせて自分はその場にいませんでした。総大将自身が不在だったことも、西軍の敗北の一因といえるかもしれません。
今日はそんな、戦わずして負けた大将・毛利輝元が生まれた日(天文22年/1553)です。
輝元は、毛利元就の長男である隆元の息子です。しかし父が永禄6年(1563)に急逝したため、彼はわずか11歳で後を継ぎ、祖父の元就の後見を受けて成長しました。8年後にその元就も亡くなった後は、叔父の吉川元春・小早川隆景に支えられながら領国の拡大に邁進します。
元就の遺訓「我が毛利家は天下を望むなかれ、只御家の繁栄と存続のみに全力を尽くせ」を守り、輝元と叔父たちはもっぱら中国地方での地盤拡大を狙い、尼子氏の残党と戦ったりしていました。しかし天正元年(1573)、織田信長により京から追放された室町幕府最後の将軍・足利義昭が保護を求めてやって来た事から、信長との対立に否応無しに巻き込まれていきます。
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京都守護職の手紙
福島民報「松平容保の書状公開/要職拝命の決意文」
幕末に9代会津藩主、松平容保が京都から国元の家老に送った書状が18日、県庁で報道機関に公開された。幕府の軍事総裁職を拝命する決意を述べた内容で、佐藤知事が郡山市内の古書店のカタログで発見した。4月から知事公館で一般公開(予約制)する。
書状は元治元年(1864)2月18日付で、幅15.7センチ、長さ519.5センチ。容保の口述を右筆と呼ばれる筆記係が書き取ったものとみられる。
当時は戊辰戦争を4年後に控えた幕末の激動期。会津藩は京都や蝦夷地に藩兵を駐在させており、財政は逼迫していた。容保は幕府の軍事面での最高司令官に就任することで一層の財政負担が生じることを懸念していたという。しかし「徳川家長久の道を探った場合、今後どうなろうと藩を挙げて死力を尽くすほかないと決し、(軍事総裁職就任を)お受けした」と記し、徳川家への忠義こそが要職を引き受けた1番の動機だと説明し、藩士に倹約を求めている。
さらに、「海軍の用意を整え、わが国を天下の強国たらしめることも自分の職責である」と国防に関する考え方も披露している。(後略)
元治元年の2月というと、前年の8・18の政変で京都から尊攘激派を追放していたものの、彼らのうちで会津憎しの思いが高まっていた不穏な時期ですね。
会津藩の内部は当時、必ずしも一枚岩の結束ではありませんでした。守護職就任前も猛烈な反対意見が藩内で噴出しましたが、その後も公用方を中心とする京都在住組の方針に、江戸や国元では反発があったそうです。そんな中改めて、藩主の容保が直々に悲愴な決意を語ったこの書状は、前回書いた『孝明天皇と「一会桑」』の内容ともリンクすることもあり、個人的にはとても興味深いです。
それにしても、知事自らが偶然に発見てのが凄いなあ。
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歴史本『孝明天皇と「一会桑」』
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薩長二大雄藩が土佐の坂本龍馬の仲介で同盟を結び、武力倒幕に邁進した結果、維新回天の偉業は成し遂げられた。これが明治以来、日本人の大多数が信じてきた「史実」である。
しかし、これは「薩長史観」「勝てば官軍史観」がでっち上げたフィクションにすぎない。幕末・維新の過程で大きな役割を果たしながら、公定の歴史叙述の中で何故か無視されてきた孝明天皇や、政治勢力としての一橋慶喜、会津、桑名両藩に光を当て、歴史の真実とは何かを問う。
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副島種臣の書
その副島は「蒼海」の雅号を持つ書の名手でもあります。私は彼の書を実物はもちろん、写真でも一度も見たことがなかったため、その事を知識としてなんとな〜く知ってるだけで、普通の人よりちょっと上手い程度かと勝手に考えてました(今思えば恥ずかしい…)
しかし先日、家で購読している新聞に「副島種臣の書の美質」と題し、彼の故郷・佐賀県で現在開かれている「蒼海 副島種臣展」が、プロの書家の方により紹介されていました。私は書のことは全くわかりませんが、彼の書を一見してその独特で力強い表現に大変鮮烈な印象を受けました。

上記の記事にも掲載されていた『春日其四句』。明治16年(1883)頃の作で「野富烟霞色天縦花柳春」と書かれており、読みは「野は烟霞(えんか)の色に富み、天は花柳の春を縦(ほしいまま)にす」だそうです。どう見ても「野」しか読めませんが…(笑)
私には象形文字にしか見えないけど、記事を寄稿していた書家・石川九楊氏は「ミロやパウル・クレーの抽象画を思わせる」と形容し「今風に言えば漫画的ともいえる」「手品師のような巧みな仕掛けがふんだんに散りばめられている」と解説している、遊び心いっぱいの作品なのです。
その他「佐賀県立美術館 副島種臣展」の作品紹介のコーナーを見てみると、見事なまでにバラエティに富んだ作風!石川氏によると副島の書のスタイルは、その政界に置ける立場や心象風景の変遷が反映されてるとの見解を示されています。彼は征韓論に破れて下野し、盟友の江藤や西郷を失い、私生活では家族に次々と先立たれるという苦難に見舞われます。にも関わらず書き続けたその書のスケールの大きさと力強さは、100年後も人々を感嘆させているのです。
高村光太郎や北大路魯山人も絶賛した副島の書。1月いっぱいまでの開催で、他に巡回の予定もないそうです。やはり生で見ると迫力が違うでしょうし、お近くの方はぜひ見に行ってみて下さい。私は佐賀まで行くのは無理なんで(泣)
【後日追記】上記のリンクは無効になってしまってるようですので、代わりに副島の作品がいくつか紹介されている、佐賀県立博物館・美術館の収蔵品検索サイトを貼っておきます。→こちら
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敵に塩を送る
理由はというと、今川氏によって武田氏の領民が塩を絶たれていることを知った上杉謙信が、武田氏と敵対していたにも関わらず越後の塩を送り届け、それが到着したのが1月11日だったらしいです。有名な「敵に塩を送る」という言葉の語源ですね。
永禄10年(1567)、武田信玄は長年にわたる今川氏との同盟を破棄し、駿河国への進出を企てます。桶狭間の戦いで義元が討ち取られて以来、勢力が衰えゆく今川氏に見切りをつけてのものでした。
怒った今川氏の当主・氏真は、縁戚関係にあった北条氏康と結託し、武田の領国に塩を売ることを禁じることにしました。武田氏の領地は海に面していない甲斐・信濃などで、塩を生産することが出来ないため領民は大いに苦境に苦しみます。この時助け舟を出したのが、それまで何度も信玄と戦っていた好敵手・上杉謙信でした。
「義」を重んじる謙信は、領民たちの苦しみを知り、越後から信濃へ塩を送ることを決意。そして次のような書を信玄に送りました。
*適当な現代語訳近国の諸将、貴方へ塩を入るゝを留め候由、承はり候、近比卑怯の挙動と存候。弓箭を執て争ふこと能はざる故と存ずるなり。
某に於ては、只幾度も運を天に任せ、勝敗を一戦の上に決せんとこそ存じ候へ、塩の儀は何程にても某が領国より相送り申べし。
其御国より手形を以て入用次第に取らせらるべし、若し高直(=高値)に致すに於ては、重ねて仰せ聞けらるべし、急度申付候はん。
(今川や北条などが、貴方の国へ塩を入れる事を止めていると伺いましたが、はなはだ卑怯な行いだと思います。武士らしく弓を執って戦う自信がないからでしょう。
私は何度でも運を天に任せ、勝敗は戦でこそ決着をつけるつもりです。なので塩は、私の国から何としてもそちらにお送りいたしましょう。
貴方の国の手形を使って、必要なだけ取り寄せて下さい。もし高値をふっかけるようなら重ねて知らせて欲しい、厳しく申し渡しますので)
そして越後から運ばれた大量の塩が、翌年の1月信濃の松本に到着。信玄と家臣たちは謙信の正義感に大変感動し「味方に欲しい名将だ!」とまで言ったそうです。感謝の意味を込めて毎年1月11日に「塩市」が開かれるようになり、現在も「あめ市」と名を変えて長野県松本市で開かれています。
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大河ドラマ『功名が辻』第1回「桶狭間」&ドラマ『風林火山』
感想は・・ひと言でいえば「まあまあ」かな?久しぶりにオーソドックスな大河という印象。ストーリー的には、一豊絡みの話よりも千代の過酷な運命の方につい見入ってしまいました。
上川さんは野心と優しさを併せ持った一豊像を演じて、期待通りなかなかよかったです。武田鉄矢&前田吟の家臣コンビも、息が合ってイイ味が出てたし。でも、いろんなブログでも触れられてるけど、脇のキャスト老け過ぎ…。桶狭間の時は20代半ばの信長&秀吉が、どちらも50代の俳優さんてのもかなりトホホでしたが、お市と寧々!あれはキツいやろ(2人とも当時10代のはず
)!しかしなんとも勝気なお市でしたよね。それでも柄本さんの秀吉は、いろんな意味でおもしろいキャラになりそうな予感もしたけど、舘ひろしの信長・・年齢の事差し引いても、イメージと違う〜(-.-;) それにあの人、ボソボソ喋るから台詞が聞き取れない時があったし。回を重ねたら、いい感じになっていくのかなと思いたいけど。あと、宅間伸・木村多江・江守徹のお三方が初回のみの出演なのは、仕方ないとはいえちょっともったいない気もしました。
私の一番の心配事「『利家とまつ』の二番煎じチックになったらどうしよう」という懸念はまだ払拭されてないけど、次回は仲間由紀恵さんも出てくるし、しばらくは見続けるのでまあ頑張って下さいと。気に入ったらカテゴリー新設します♪
さて、来年の大河と同じ原作を扱ったスペシャルドラマ『風林火山』。実はこっちの方を、『功名が辻』よりも楽しみにしていたんですが・・。
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ドラマ『新選組!!土方歳三最期の一日』
【あらすじ】明治2年(1869)5月10日夜、新政府軍の総攻撃を翌朝に控えた箱館五稜郭。絶望的な状況で、箱館政府総裁・榎本武揚(片岡愛之助)、陸軍奉行・大鳥圭介(吹越満)ら幹部は別れの杯を交わしたが、その場に土方歳三(山本耕史)の姿はなかった。歳三は、京からの新選組の同志、島田魁(照英)らと共に奇襲をかけ、敵の兵糧を巻き上げていた。歳三は、一緒に戦いたいと言う島田たちを説得して皆に箱館の港と街の警備を命じ、世話役を務めていた市村鉄之助(池松壮亮)を密かに呼んで、故郷の多摩に送り出した。新選組と別れ、永井尚志(佐藤B作)から榎本の決心を聞いた歳三は、再考を促すべく榎本を訪ねようとするが、大鳥が立ちはだかった。立場と価値観が異なる三人の話し合いは、言葉を重ねていくうちに意外な方向に展開していく…。やがて総攻撃が開始され、敵の本陣を目指していた歳三は信じられない光景を目にした。そして、歳三が一本木関門を通過したとき敵の銃声が響くー。
私は極力、事前情報を目にするのを避けてたため(まっさらな気持ちで見たかったんで。裏返せばそれだけ期待していたて事)、いちいち「あーこういう設定で来るのかぁ」など感心しつつ、物語に入り込んで見ることができました。ディテールのこだわりや人物の使い方も、三谷さんならではで相変わらず上手かったし。
まぁ途中「ん?」な展開やツッコミどころもあったし、もちろん史実から検証したらきれいごとに描かれてるのは否めないけど、ドラマとしてはかなり満足しました。
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ローマで日本酒もオツなもの?
河北新報「ローマの冬燗酒つけて人心地 支倉常長の携行品スケッチ見つかる」
伊達政宗の命を受け、ローマを訪問した支倉常長が使ったお燗の道具を、当地のワイン専門家がスケッチした絵図が、東京都内の古書店で見つかった。(中略)「健康的飲み物に関する論文とその製造」の題名で、著者はフランチェスコ・スカッキなる人物、ワインの専門家という。ラテン語で書かれ、1622年に出版された。
常長に関する記録は3ページ分。「教皇パウロ五世在位中の1615年、私が直接に奥州王の代表者(常長)から聞いた。実際にその道具を手に取ってみた」とある。お燗の道具は挿絵の形で描かれ、部位の説明書きがある。火を入れてお湯を沸かし、酒を入れた器の周りを巡らして温めるやり方だ。
以下、文面を要約すればこんな内容だ。
「この国には2種類の飲み物がある。一つは米からつくられたもので、『サケ(酒)』と呼んでいる。夏は冷水で冷やして飲む。日本は、冷泉やわき水が十分あるからだ。冬は、ある人は冷たいままで、ある人は火にかけて温めるための道具を使って、温めて飲む。冬期間の滞在であり、彼らはデリケートなので冷たい飲み物は危険、温める道具が必要だったのだろう。もう一つは『チャ(茶)』と呼び、植物の葉の粉末を湯に入れ、調合して飲んでいた」
宮城県松島町の瑞巌寺には、常長の携行したのと似たお燗の道具が所蔵されている。(中略)常長がローマ入りしたのは1615年10月。11月3日、法王に謁見、政宗からの親書を手渡した。だが、スペインとの交易を目指した法王の取りなしという目的は達せず、翌年1月7日、ローマを出た。
絵図を見つけた高橋由貴彦さんは「常長は顔つきから見て酒飲みタイプの男。ローマも冬はかなり寒い。宿舎で燗酒を飲みながら、故国の人々に思いをはせ、法王からの返事を待ったのでしょう。常長一行の人間味を表現した資料だと思う」と話している。
ほおぅー、酒好きには興味深い記事ですな(笑)
リンク先の記事には、実際に本に描かれていたイラストと、瑞巌寺所蔵の道具の写真が掲載されています。携帯用のお燗の道具があったとはすごいですね。いつ帰国できるやもしれない不安と望郷の念を、酒を飲んで紛らわしていたのかもしれませんね。
しかし「常長は顔つきから見て酒飲みタイプの男」て・・(^_^;)
ちなみにこんな顔(一番右側の人物)です。
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