大河ドラマ『義経』第47回「安宅の関」
まあ以前は鎌倉方・平家方・朝廷といろいろクローズアップしないといけない人物が多かったから、仕方のない面もあるけど。
冒頭、義経一行の行方について詮議する鎌倉の皆さん。頼朝の隣に座る政子が怖過ぎ!相変わらず心の奥底に弟に対する情を捨てきれない頼朝をけしかけるあたり、「新たな体制の中心になるアンタがそんなんでどうするの、もっとしっかりして!」的な気迫を感じます。
一方義経たちは、一夜の宿を提供してもらった木こりの家で、なんとその木こりの妻になっている巴と再会。義経が「恨みや憎しみも生きる張りになる」と言ってくれたので今は幸せに暮らしていると感謝するんだけど、義仲が巴を逃がした意味ももうちょっと思い出して欲しかったかな…。でも頭の片隅にはいつも義仲の事を忘れず、自分が幸せになるのが彼も喜んでくれるだろうと考えていると、解釈しておきましょうか(^^) あと、自分の子供ではないとはいえ、あんなにかわいがってた義高が斬られた事は知ってるんだろうか?てのも気になりました。
ちなみに実際の巴は、義仲と別れた後に捕えられ鎌倉に連れて来られた時、有力御家人の和田義盛に見初められ再嫁。子供ももうけますが、数十年後に和田合戦で一族が滅亡すると尼になり余生を送ったという話があります。あくまで伝承の域を出ないと思われますが…。しかし小池栄子は「大奥」で、目玉ひんむいて怒ってる姿ばかり最近見てるんで、フツーな女性の役で見ると何かホッとしますわ(笑)
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鼻毛の名君 ー 前田利常
代わりに「今日は何の日」系のサイトさんを検索していたら見つけた、文禄2年(1593)の本日がお誕生日の加賀藩第三代藩主・前田利常のことを書いてみます。
利常は有名な戦国大名・前田利家の四男として金沢に生まれました。
四男といっても彼の出生時、父はすでに56歳。側室の子であったため跡を継ぐ予定もなく、幼少時は長姉・幸とその夫の越中守山城主・前田長種に養育されました。しかし7歳の時に利家が死去、嫡男の利長が2代藩主となりますが彼には男子がいなかったので、生来優れた器量を持つ利常を養嗣子とする事を決定します。関ヶ原の戦いでは丹羽氏との和睦の際に人質に出されたりもしましたが、慶長10年(1605)に利長が隠居し、利常は13歳で正式に家督を継ぎました。
その後は2度の大阪の陣で活躍を見せたり、内政面では城下の整備・辰巳用水の建設など城下町の基礎作りや、改作法や十村制の制定など農政事業の強化に取り組み藩政を安定させ、産業・文化面の発展にも力を尽くします。後年新井白石にも称賛された程の、加賀百万石の基礎を築いた人物でした。
ところで前田家は、藩祖の利家と豊臣秀吉との盟友関係から、利家死後は常に徳川に対する謀反の疑いを吹っかけられて来ました。関ヶ原前夜に、利家夫人のまつ(芳春院)が江戸へ人質に出されたのは有名ですが、その後も念には念を入れてか、利常は8歳の時に徳川秀忠の娘・珠姫を正室に娶らされます(ちなみに珠姫は3歳)
しかしこの頃幕府は「外様大名どもに高い石高を持たせてたら、謀反を企てそうでヤバい」とばかりに、些細な事で減封・改易を申し渡していました。それに引っかかったのが福島正則・加藤忠広(清正の息子)など豊臣恩顧の大名たち。そして100万石の石高を誇る前田家は、次なる格好のターゲットと噂されていました。
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大河ドラマ『義経』第46回「しずやしず」
それにしても、来週が安宅関(勧進帳)の話てことは、平泉に着いてから義経の最期までを2回分で終わらしちゃうてことですか。うーんいくら、平泉での義経一行のエピソードがほとんど残ってないからといっても、一応3年くらい期間があるのに短すぎるんじゃないの?とちょっと不安。
さて今日はサブタイ通り、静が鎌倉に連行されてからのお話がメインだったけど、石原さとみがすごく良くて感動
正直泣けました…。今までやれ「表情に乏しい」だの「みんな静ばっか贔屓して、正妻はのけ者扱いでかわいそう」などと不満たらたらだったんですが、今回は愛する男と引き裂かれた女の情念を見事に表現できていたと思います。
特に生まれた子供を取り上げられて半狂乱になっているシーンは、鬼気迫る演技でした。あと頼朝に尋問される時のふてぶてしさ。「実の兄だか知らないけど、私の大好きな義経様を苦しめる人なんて許せない!」みたいな。開き直った女の迫力に、頼朝もタジタジ。あぁいう普段はおとなしい人ほど、怒った時のパワーは凄まじいんですよね。
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東慶寺・浄智寺
ここは弘安8年(1285)に北条時宗の夫人・覚山尼が、時宗の菩提を弔う為に息子の北条貞時を開基として建てたお寺です。明治に至るまで男子禁制の寺法の元に、多くの悩める女性たちを救済してきました。江戸時代は離婚は夫の方からしかできませんでしたが、この寺に駆け込んだ女性が3年間奉公すれば別れる事ができたのだそうです。しかし明治35年(1902)以降は男僧の寺となっています。

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東慶寺の本堂「泰平殿」
現在の建物は昭和10年(1935)に再建された物で、奥には本尊の「釈迦如来坐像」が祀られています。美しい中庭には、 4月になると大きなしだれ桜が花をつけるそうです。
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「日野市立新選組のふるさと歴史館」公式HP
しばらくサボっててすいませんでした。体調を崩してたり、まあいろいろありまして…。
今日からまたボチボチと更新していきますよ!鎌倉のお寺紹介も、実はまだ一回分残ってるんでね(もういいって?)(^^ゞ
さて、土方歳三や井上源三郎の出身地である東京都の日野市に、「日野市立新選組のふるさと歴史館」が12/10開館する事が決定しましたが、それに先駆けてこの度HPがスタートしました。
日野市立新選組のふるさと歴史館
歴史館の館長で、土方に関する著書もある村瀬彰吾氏のブログ『■Shougo.Blog■』によると
「歴史館のHPも、HPやブログを持っている方はどんどんリンク、紹介してください。」
との事なので、思いきり紹介しちゃいます。
展示物を見てみると、局長の書状の写しや、佐藤彦五郎日記とか天然理心流の奉納額、山崎烝の短冊なんて珍しいのもあるよ〜きゃー凄い

私は遠方なのでオープンしてもすぐには行けないけど、なんとか一度足を運んでみたいものです。楽しみだなぁ♪
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蘇我氏の夢のあと
読売新聞「蘇我入鹿邸跡?出土、日本書紀の記述と一致」
奈良県明日香村川原の甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で、7世紀の掘っ立て柱建物跡5棟が出土したと、奈良文化財研究所が13日、発表した。
研究者らは、大化の改新(645年)で暗殺された飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿(いるか)の邸宅「谷(はざま)の宮門(みかど)」の可能性が高いとみている。建物が甘樫丘に入り込んだ谷を大規模に造成して建てられ、焼けた壁土なども見つかったことが、「日本書紀」の記述と一致した。古代の豪族支配を象徴する蘇我氏と、国家の大改革を導いた大化の改新の実像に迫る一級の資料として注目されそうだ。
現場は甘樫丘の東麓で、入鹿暗殺の舞台となった飛鳥京跡の北西約600メートルの地点。蘇我氏が建立した日本最古の寺、飛鳥寺からは南西に約600メートルの位置にあたる。背後の尾根を登れば、入鹿が殺害された飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)をはじめとする歴代天皇(大王)の宮殿が造られた飛鳥京跡が眼下に広がる。
同研究所が約730平方メートルを発掘したところ、建物5棟分の柱穴と長さ12メートル以上の塀の跡が見つかった。うち1棟は幅10.5メートル、奥行き3.6メートルの規模で、直径20〜30センチの柱穴が並んでいた。柱筋に沿った溝(深さ20〜30センチ、幅80センチ)には、7世紀前半の土器や、焼けた壁土や炭が埋まっていた。
これらの建物は倉庫などとみられ、母屋にあたる主要な建物は、さらに東側にあると予想される。現場のすぐ南の斜面でも1994年の調査で、焼けた壁土や建築部材、土器が出土していた。
「日本書紀」には、644年11月に「蘇我大臣蝦夷(おおおみえみし)と、子の入鹿は家を甘樫丘に並べ建てる。大臣の家は上の宮門、入鹿の家は谷の宮門という」という記述があり、翌645年6月に入鹿が暗殺された翌日、蝦夷が自邸と入鹿邸に火を放って自害したと書かれている。(後略)
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円覚寺
ここは弘安5年(1282)に鎌倉幕府第八代執権の北条時宗が、文永・弘安の役(=元寇)での戦没者追悼の為、宗の国の高名な禅僧であった無学祖元を招いて創建しました。「円覚」の寺号は、寺地選定の後に、この地から石櫃に入った円覚経を掘り出した事によるものです。
6万平方メートルという超広大な寺域を誇り、創建当時は塔頭が42もある巨大寺院でしたが、その後度々の戦火や地震でほとんどが亡失し、現在は主に元禄期に再建された18の塔頭が残るのみです。

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円覚寺山門。夏目漱石が小説「門」で描写したのはここ。天明3年(1783)の再建で、楼上には観音像や十六羅漢像などを安置しています。
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鶴岡八幡宮

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創建は康平6年(1063)、源頼義("八幡太郎"こと源義家の父)が奥州で前九年の役を平定し、戦勝記念に鶴岡(現在の材木座周辺)に源氏の氏神として八幡宮を祀ったのが始まりです。その後、鎌倉に入った源頼朝が治承4年(1180)に現在の場所へ移築し、火災で焼失したのを機に建久2年(1191)に上下両宮の体制として造営しました。
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寿福寺・英勝寺
寿福寺は正式名称を「亀谷山(きこくさん)寿福金剛禅寺」といい、正治2年(1200)に北条政子が栄西を開山とした建てた臨済宗の寺院で、鎌倉五山第三位の名刹です。
この地は元々、源頼朝の父・義朝の館があった場所といわれ、鎌倉入りした頼朝は当初ここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといいます。
現在残る伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裏などですが、境内の拝観は不可。しかし外門から山門にいたる敷石の参道は静寂の感が漂う美しさで知られてます。政子と実朝の墓といわれている五輪塔は、裏山の墓地にあります。

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上野東照宮
元和2年(1616)、死期の近い徳川家康の見舞いに駿府城に滞在していた藤堂高虎と天海僧正は家康の病床に呼ばれ「我ら三人一処に末永く魂鎮まるところを造ってほしい」と遺言をされます。
そこで藤堂家の屋敷があった上野の地に、寛永4年(1627)東照宮を造営しました。しかし3代将軍の家光はその建物に満足せず造り直しを命じ、慶安4年(1651)に完成したのが現代まで残る唐門や本殿になります。御祭神は家康の他に、吉宗と慶喜が祀られています。
ちなみに「上野」の地名は、津藩藤堂家の所領地である伊賀上野に地形が似ているということで名づけられたそうですよ。

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参道を真っすぐ進むと、この唐門につきあたります。なんか色が悪くてすいません(逆光だったもので…)。実際は赤×金のコントラストがもっと鮮やかで美しいんですよ〜。
柱の内外には、不忍池の水を飲みに行ったという左甚五郎による昇り龍・降り龍が彫られており、講談でもおなじみらしいです。
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