大河ドラマ『義経』第29回「母の遺言」
まあ細かい事をいうと、一の谷では相変わらずな兵の数の少なさ、鵯越の坂のショボさ、重衡のあまりの弱さ(義経に捕えられる設定なら、せめてカッコよく一騎討ちさせて欲しかった!)が逆の意味で涙ものだったけど、それなりに興味深く見ています。
今日のポイントは、ドラマでの順番通りにいくと、だいたいこんな部分でしょうか。
・平家方、維盛が入水
・義経、任官&正妻を娶る
・常磐御前が他界
戦の失敗続きなどで一族内で居場所が無くなっていた維盛が、とうとう自ら命を絶ちました。経子の口から報告され、入水の瞬間が映るだけなのは「えーっこれだけ!?」と最初少し不満でしたが、このドラマでは平家は敵役だし、そんなに描写に時間割けないのも仕方ないかなと…。あれもこれもと盛り込んでたら、毎週2時間ドラマになっちゃうし。前は私も「あの人が出ない!あのエピソードがない!」と文句言ってたけど、物わかりよくなったっしょ?(^^;) でも登場人物を絞ったぶん、それぞれをちゃんと描いて欲しいとも思うけどね。
しかし維盛、かつては光源氏にたとえられた美男で、重盛が生きていれば歴とした平家の嫡男だった筈なのに。性格的には武士失格な人だけど、悲しい顛末ですよね。弟の資盛が涙ながらに「ボク、兄ちゃんの分まで頑張る」と言ってたけど、
あんたいっつも口だけじゃん!!
でもこの後資盛は、「平家物語」内でのある重要なエピソードを任されると聞いたので、そこに期待しておきます!
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漫画『吾妻鏡』
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鎌倉幕府の動きを日記形式で記した公用書『吾妻鏡』を、少女漫画の第一人者の一人である竹宮恵子氏が漫画化したもの。「マンガ日本の古典シリーズ」の中の作品。全3巻。
<上>1180年〜1184年 <中>1184年〜1195年 <下>1196年〜1266年
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禁門の変
前年の文久3年(1863)長州藩は、会津藩と薩摩藩が連合して起こしたクーデター「8月18日の政変」で、三条実美たち七卿と共に京都から追放されましたが、京への返り咲きを狙いひそかに地下活動を展開します。しかし年が明けた頃になると、なかなか進まない工作にしびれを切らしたのか、兵を率いて京都に乗り込もうという積極派と、まだ機が熟してないと訴える慎重派で、藩内でも意見が対立します。
積極派の意見が抑えきれなくなってきた頃、6月5日に池田屋事件が起こります。奇しくもその前日、兵を挙げて上京する命が出ていた所でした。慎重派の周布政之助や高杉晋作たちは必死に反対しますが、これで決定的に流れは積極派の方に傾きます。
長州勢は京都市内の他に山崎や伏見にも陣を敷きますが、幕府側との圧倒的な兵力の違いから結局一日で壊滅し、来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、真木和泉らが戦死しました。
この期に乗じた幕府は「御所へ向けて発砲した」などを理由に長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行います。これに屈して藩内では、俗論派と呼ばれる幕府支持派が一時的に権力を握り、福原越後や国司信濃など三家老が責任を取らされ処刑、高杉晋作は筑紫へ身を隠すことを余儀なくされました。
この戦闘での火災が飛び火して京の町は火の海に包まれ、3日間燃え続けて焼失家屋は約3万ほどにものぼったと言われています。
ちなみに「蛤御門」という名前は、ずっと開かずの門だったのが天明の大火(1788)の時に初めて開門され、火に焼かれて口を開ける蛤にたとえられたから。もともとは「新在家御門」と呼ばれていたそうです。
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大河ドラマ総集編『草燃える』
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第一回「頼朝起つ」
第二回「平家滅亡」
第三回「征夷大将軍」
第四回「頼家無惨」
第五回「尼将軍政子」
出演:石坂浩二(源頼朝)岩下志麻(北条政子)松平健(北条義時)滝田栄(伊東祐之)国広富之(源義経)真野響子(北条保子)松坂慶子(茜・小夜菊/二役)友里千賀子(静)郷ひろみ(源頼家)篠田三郎(源実朝)金田龍之介(北条時政)大谷直子(牧の方)武田鉄矢(安達盛長)藤岡弘(三浦義村)黒沢年男(苔丸)金子信雄(平清盛)
永井路子の小説「北条政子」「炎環」「つわものの賦」などが原作。
源頼朝と北条政子の出会いから、平家滅亡・鎌倉幕府の創設などを経て、承久の乱で名実共に武士政権が確立されるまでの、約40年間を描く。
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光縁寺
光縁寺は知恩院の末寺にあたり、創建は慶長18年(1613)頃。近くに新選組の馬小屋があり毎日のように隊士が行き来してたのと、お寺の紋「丸に右離れ三つ葉立葵」が山南敬助の家紋と同じで、彼と同年齢だった住職・良誉上人との間に親交が生まれたことから、組との関係が始まったと言われています。
その山南さんがまさか、隊士の中で三番目にここに葬られることになろうとは、本人を含む誰しもが想像し得なかったでしょうけど…。

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馬小屋は光縁寺の斜め前にある細い路地を入った、中学校のグラウンド手前あたりにあったといいますが、今は普通に民家が建ち並ぶばかりで何も残っていません。
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八木邸・前川邸・新徳寺
もともと浪士組は、上洛する将軍・家茂に先立ち、京の治安維持と警護の為に江戸からやって来ましたが、この計画の黒幕だった清河は「浪士組を天皇の兵とし、弱腰の幕府に代わり攘夷を決行する」と突如宣言しました。
彼に一杯食わされた事を知り、激怒した幕府は慌てて横浜警護を名目に浪士組を江戸に呼び戻します。しかし「当初の目的通り、あくまで将軍警護を」と主張し京に在留したのが、芹沢鴨・近藤勇を中心とするグループでした。これが後の新選組の母体となったというわけです。

(*クリックすると画像が拡大します)
新徳寺は原則非公開ですが、たまに正門の右手にある車庫の門が開いてる事があるらしく、その時は例の演説があった本堂の外観が見えるとの事。本堂の姿は幕末当時と変わっていないそうです。
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壬生寺
祇園祭のシーズンだから人多いかなぁと思ってたら、夏休み前で意外と穴場なのか、超すいてました!すごくゆっくり見られてよかったです。まあ単に大河ブームが過ぎ去った後かも?て気もしなくはないですが(笑)
まずは壬生寺。寺伝によると創建は平安京ができる前、奈良時代にまで遡るというとても古いお寺です。有名な「壬生狂言」も、鎌倉時代以来700年以上の歴史を誇っています。
昔は家屋も少なく静かな地域だった壬生一帯が、文久3年(1863)2月、江戸から浪士組の一団がやってきて滞在した時から、彼らのしでかす行いに否応なく巻き込まれていく事になります。

(*クリックすると画像が拡大します)
壬生寺の境内。
ここで沖田総司が地元の子供たちと鬼ごっこなどをして遊んでいたという微笑ましい逸話もありますが、一方では組の兵法訓練の場に使われ、毎月4と9のつく日に参拝客を閉め出して大砲をぶっ放し、おかげで寺の屋根瓦や障子が破損したとか。訓練は屯所が西本願寺に移転してからも続いたそうで、お寺側からすれば迷惑極まりなかったでしょうね。
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福井藩の幕末
京都新聞「五か条の御誓文の草稿落札 福井県、2389万円で」
福井県は12日、明治政府が発足当初に新国家の基本方針を示すために公布した「五か条の御誓文」の草稿を、オークションで入手したと発表した。落札価格は2388万8000円。今後は歴史資料として、福井県立図書館(福井市)に展示する。
福井県は、起草者の1人で政府参与の由利公正が福井藩士だったことから、「郷土で保存したい」と入札に参加。(中略)県が落札したのは、由利の毛筆草稿に土佐藩士の福岡孝弟が修正加筆したものと、福岡が清書したものの2種類。
できれば個人より、大学か博物館のような公のところに落札して欲しいと思ってたんですが、あーいう所って予算的に厳しそうだから期待してなかったんですよ。しかし福井県が意外に頑張ってくれてうれしいっすね。まぁ福井じゃ、私はあまり見に行ける機会はなさそうですが。
しかし草稿と完成分では、結構修正されているらしいですね。夢見ていた民主主義の部分を削られてしまった由利公正は、どういう心境だったんでしょうか。
ところで幕末の福井藩主といえば、四賢候の一人でもある松平慶永(春嶽)ですが、先日亡くなられた彼のお孫さんが、何かと話題の靖国神社の宮司を務めていたという事に驚きました。偶然だったのかもですが、何となく因縁めいた物も感じました。靖国神社って、最初は戊辰戦争での官軍側の死者を弔う為に造られたものですし。
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保元の乱
教科書にも載っているような出来事なので説明もいらないかと思いますが、まあ一応概略を。これは皇位継承をめぐる崇徳上皇と後白河天皇の対立に、藤原氏一族内での争いが絡み、源氏・平氏の武士をもそれぞれ二分して巻き込んだ戦争です。戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、天皇方についていた平清盛は出世街道を上っていく第一歩になりました。
ちなみにこの戦、一日どころかたったの数時間で終わった(未明に始まり、午前8時頃にはもう決着がついてた)そうです。
清盛や後白河天皇は今さらいうまでもない有名どころなので、他に興味深い人物として敗者側の崇徳上皇と「鎮西八郎」こと源為朝を取り上げてみたいと思います。

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肖像写真にまつわるエトセトラ
南日本新聞「薩摩藩使節団長・岩下方平のパリ万博での写真現存」
幕末の薩摩藩家老で1867年のパリ万国博覧会で使節団長を務めた岩下方平(みちひら)が、パリ万博に参加した際に撮影した写真があることが分かった。使節団の1人で岩下の親族・方美の子孫にあたる千葉県印旛郡の岩下方夫さん(85)が保管していたもので、7日までに鹿児島市の黎明館に寄贈された。同館は「現地での様子がよく分かる極めて貴重な資料」と注目している。
岩下は27年生まれ。63年の薩英戦争後には薩摩藩代表として和平交渉に臨むなど重要な役割を果たした。またパリ万博には使節団長として藩士ら9人を率いて参加した。薩摩藩は幕府に対抗して「薩摩琉球国太守政府」を名乗り、各国高官に日本最初の勲章を配っている。
写真は岩下が40歳のとき。ワイシャツにちょうネクタイ、ベストを着けた上に、羽織はかまを重ねる“和洋折衷”のいでたち。「PARIS」と裏書きがあり、パリで撮影されたとみられる。(後略)
かなり無理のある「和洋折衷」ファッションが、笑えるというか微笑ましく感じます。洋服だけでは落ち着かなかったんでしょうねー。
岩下について付け加えると、彼は元々誠忠組で大久保利通らとともに指導的な役割を担っていた人物で、維新後は外国事務局判事、大阪府大参事、元老院議官などを歴任し、晩年には子爵に列せられています。また楠木正成を祀っている湊川神社を、創建しようと建白書を提出したのは彼だそうです。
(*湊川神社の創建にあたっては、薩摩・尾張・水戸藩などの思惑が絡んでゴタゴタがあったようです。この辺なかなかおもしろいのですが長くなるので、また機会があれば書くかもです。)
そしてこのフランス渡航の帰途の様子をまとめた「岩下方平旅日記」という記録があり「七月にマルセイユを発し、九月に長崎に到着する船旅の記録である。簡潔な無駄のない文体で地中海からアラビア、インドを経て帰る途中の都市や海の様子を描いている。ラクダや砂漠のこと、嵐による難船、病で死んだ士官の水葬なども記され、当時を知る資料としても貴重であろう。」(板坂耀子研究室より)
当時の日本人が見た、海外の都市の記録というのもおもしろそうですね。
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