山内一豊って・・
京都新聞「山内一豊の書状見つかる/長浜城主時代では初めて」
長浜市教委は27日、戦国武将の山内一豊が長浜城主だった時に出した書状が、滋賀県米原市の旧家から見つかった、と発表した。豊臣秀次の側近、田中吉政にあてた公文書で、一豊の長浜城主時代の書状が見つかったのは初めて。十数点残っている一豊の文書より古いという。
市教委によると、書状が出されたのは記述などから1587年8月5日。当時は豊臣秀吉のおい、秀次が近江八幡城を居城に近江を支配し、田中吉政は筆頭宿老として秀次を補佐、一豊も秀次の重臣として長浜城主を務めていた。
見つかった書状は1通で、縦約29センチ、横約43センチ。文面では、方広寺(現京都市東山区)に建立する大仏の敷地造成を終えたことが報告されている。また伊吹山麓(現在の米原市大清水、大原、上平寺地区)の住民が、山林伐採などを巡る土地争いで訴えを起こし、これを裁定するよう依頼している。(後略)
来年の大河に向けて、タイムリーな話題(ちょい早いか?)ではありますね。
しかし個人的には「なんで山内一豊なんかが大河で取り上げられんの?」という疑問がありまくりなんすけど。この人は信長・秀吉・家康の三代に仕えて、幕末まで続く土佐山内家の初代藩主になった人ですが…なんていうか、結局最終的に勝者にはなったけど、特筆するような活躍をしたわけでもなく、大悪党でもなく、おマヌケ野郎でもない(笑)。つまり物語的に、面白みがさほどない人に思えて仕方がない。おまけに土佐へ入国後の、長宗我部氏の遺臣への弾圧(浦戸一揆)の話を聞いて以来、イマイチ印象がよくないし。まあこれは、しょうがない出来事だったのかもしれないけどね。
いちおう主役は内助の功で有名な妻の千代ですが、どうも今までの大河の登場人物に比べて「小物」感が否めないのは私だけ?もっとも私は原作の「功名が辻」を読んでいないので、司馬さんが山内夫妻をどのように描かれてるのか知らないってのもあるんですが。
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適塾
大阪大学医学部の前身にあたり、建物も阪大が管理している形になっています。
淀屋橋を含む中之島一帯は、今はビルが建ち並ぶオフィス街ですが、江戸時代は諸藩の蔵屋敷が立ち並び大変栄えた所です。福沢諭吉の生誕地(中津藩の蔵屋敷で出生)や、肥後橋の方まで足を伸ばすと長州や薩摩の藩邸跡の石碑があります。
ただ再開発や太平洋戦争時の空襲の影響で、残っている史跡は数多くありません。そんな中この適塾が、一度解体修復工事を行っているにせよ、当時の姿をとどめているのは奇跡的と言えると思います。

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右の画像は福沢諭吉の書。入口受付の横の間に飾られています。
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近藤勇の命日
今日は慶応4年(1868)、板橋にて新選組局長・近藤勇が処刑された日であります。近藤さんの現存する写真は左のものと、胸の前で腕組みしているものと2種類ありますが、私はここに載せたものの方が好きですねえ。こっちのがキリッとしてる気がして。この写真のためにどうもいかつい強面のイメージがあるけれど、普段は優しい感じの人で、笑うと両頬にエクボができたそうな。想像できないなぁ…。口に拳骨入れてるところも見てみたいけど。
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油小路・本光寺
余談ですがバスの乗り換えを間違えてしまい、えれぇ時間がかかってしまいました。いつになったら京都のバスを乗りこなせるようになるんだ…(-.-;

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ここが油小路の通り。私はバスで移動しましたが、JR京都駅から徒歩でも行ける距離です。
表通りは車・人ともかなり行き来が多いのですが、一歩裏側に入るとひっそりとした普通の町並みです。血腥い斬り合いの跡形もなし(あったら怖いけど)。そして写真で見るよりも、もっと道幅が狭く感じました。40人もの連中が待ち伏せしていて戦闘を繰り広げたなんてちょっと想像がつきません。当時は今よりも道が広かったんでしょうか?
翌朝はおびただしい肉片が落ちていた上に、新選組は衛士の残党をさらにおびき寄せる為、伊東らの死骸を3日間も放置してたってんだから、当時の住民たちにしたらいい迷惑ですよね…。
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戒光寺墓所
泉涌寺は健保6年(1218)開山の由緒ある寺院で天皇家の菩提所にもなっており、山内の「月輪陵」には孝明天皇の御陵もあります。
戒光寺は総門をくぐってしばらく坂を登るとあるのですが、墓地自体はお寺と離れていて総門の手前の、向かって左側の細い道を行った所です。お隣の即成院には、那須与一のお墓があるそうです。
やっとたどり着いた衛士たちの墓所ですが、想像していたよりこじんまりした所で、草が生い茂ってうっそうとしていました。そして一番手前にいきなり4つの墓石が。「え?こんな入口近くの所にあるん!?」といささか焦ってしまいました。

左より毛内・伊東の墓。

左より藤堂・服部の墓(*クリックすると画像が拡大します)
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金戒光明寺
ここは浄土宗の大本山で、創庵したのは浄土宗の開祖・法然上人その人です。承安5年(1175)、元々この地にあった禅舎を譲り受けたのが始まりと伝えられているそうです。また文久2年(1862)12月、京都守護職に任命され上洛した会津藩主・松平容保はその後約一年間、ここを本陣としました。
現在は、時代劇のロケにもよく使われたりするそうですよ。

(*クリックすると画像が拡大します)
金戒光明寺の表門。
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須磨寺

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寺内にある、熊谷直実と敦盛の銅像です。
本堂入口手前の「源平の庭」という場所に建てられています。そのすぐ近くには敦盛が愛用していたという「青葉の笛」や銅像・錦絵などを収めた宝物館がありました。
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思い出のドラマ〜『竜馬におまかせ!』
三谷幸喜の脚本と、DTの浜ちゃん・反町隆史・緒川たまき・内藤剛志・西村雅彦・伊東四朗etc.ちゅう豪華キャストにも関わらず、低視聴率にあえぎひっそり終わっていった、ある意味カルトなドラマです。それ以上に、あまりのハチャメチャな内容に一部の歴史ファンから総スカンをくらって、マスコミでも結構叩かれたらしいんですね。
でも私は大好きで、毎週すっごく楽しみに見てたので「歴史好きって、どうせ頭が固くて冗談の通じん奴ばかりに違いないわ、うぜぇー!」と憤っておりました。そんな自分が、今は歴史大好きになってんだけどね(笑)
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TV『その時歴史が動いた〜武田家滅亡の謎』
鉄の結束を誇り、戦国最強と恐れられた甲斐の武田軍は、信玄の死後わずか10年で壊滅。武田家は滅亡した。その理由は、二代目・勝頼が軍団を統率できず、無謀な戦いを行ったためと、言われてきた。しかし近年の資料研究からは、新たな勝頼像が浮かび上がってきた。信玄にも出来なかった難攻不落の城を攻め落とす戦術。藩政に商人を登用するなど経済にも気を配る政治力。仇敵をも寝返らせる巧みな外交術・・・。しかし、そうならばなぜ、有能な2代目であったはず勝頼が武田家滅亡を導いた「無能」な2代目とされてきたのか?
4年前「勝頼は無能」という評判の背景に、あの織田信長が大きく関与していたと言う説が発表された。信長は、勝頼率いる強力な武田軍団との直接対決を避けるため、巧妙な情報戦をしかけ、勝頼を「薄情者」として喧伝。にせ情報に惑わされた武田勢は主君を信じられなくなり、内部崩壊したと新研究は分析する。
類い希な能力に恵まれながらも、時代の寵児・信長に「無能・薄情」な主君に仕立てられ、敗れた武田勝頼。そこには、名門の跡継ぎと、革新者との運命的な戦いがあった。番組は知られざる武田勝頼の実像から、武田家滅亡の真相に迫る。
武田家滅亡て以前にもやってたような気がして、てっきり再放送だろうと思ってたんだけど、番組中にもそんな表示は一度も出ない。おかしいな?と思ってたら案の定、我が家にあった『堂々日本史』(「その時〜」の前身の番組)の第12巻に「戦国最強・武田軍団はなぜ滅びた」という回が収録されてました。武田勝頼の再評価ていうコンセプトも一緒!ネタ使い回しじゃんかよ、NHK(笑)
でも本を見ると『堂々〜』の放送は平成9年なんですが、その後新たに発見された文書を使い、滅亡に繋がった理由の一つなのではと紹介していました。だから丸々同じ内容ではなかったので、よしとしとこうか…。
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歴史本『新選組 岩波新書』
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文久三年(1863)、幕末の京都に誕生した新選組は、「尽忠報国」を掲げながら攘夷ができず、不本意にも市街の見廻り役として行動した。しかし、翌年の四ヶ国艦隊下関砲撃を機に社会情勢は攘夷から開国へと激変する。彼らは、この事態にどのように対応したのか?
近藤勇の書簡等を読み解きながら、結成から終焉まで、その実像に迫る。
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