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伝説の軍師の実像

山梨日日新聞「「山本菅助」への信玄書状を発見」
 戦国時代の武将武田信玄(晴信)に仕えた「軍師・山本勘助」が実在したか注目される中、信玄が家臣山本菅助にあてた書状が、群馬県安中市の民家で見つかった。山梨県立博物館の調査によると、信玄が菅助に褒美を与えたり、家臣の見舞いを命じた内容の2通で、信玄の花押(署名)が入り、「山本菅助」と記されていた。これまで菅助の存在を示す史料は1969年に北海道で見つかった、信玄が奥信濃の市河氏にあてた書状「市河文書」だけだった。県立博物館は「『山本菅助』という名の人物がいたことは間違いなく、菅助の人物像や功績などを研究する上で貴重な史料」としている。

 名前の字が異なる「山本勘助」は、江戸時代の軍事書「甲陽軍鑑」などに有能な軍師として登場するが、実在を裏付ける学術的な史料はなく、一家臣としての菅助の存在を示す唯一の史料が市河文書だった。今回見つかった文書には市河文書と同じ「菅助」の名が記され、紙の材質や文書の書式などからも信玄が活躍した16世紀後半のものでほぼ間違いないという。

 新たに見つかった文書を所蔵していたのは、安中市原市在住の真下(ましも)正貴さん。昨年5月、蔵の整理中に「信玄公御證文」と書かれた漆塗りの木箱を発見。中には5通の文書が年代順に張られた巻物1本が入っていた。
 このうち信玄が菅助にあてた書状は2通。業績を褒め恩賞を与える内容と、重篤な状態にある家臣「小山田(出羽守信有)」の見舞いを命じる内容で、1通は「菅介」の字が使われていた。
 武田家が菅助あてに出した朱印状1通では、菅助に足りない武具の支度を指示するなど、信玄が家臣として信頼していた様子がうかがえる。
 残る2通は、武田家が菅助の後継者といわれる「山本十左衛門尉」に軍役を命じた朱印状と、徳川家康の次男「結城秀康」が菅助の子孫と思われる「山本平一」にあてた見舞いの礼状だった。この2通からは菅助の子孫の存在も明確になった。

 調査を担当した県立博物館学芸員の海老沼真治さんは「菅助は上野国(現群馬県)から東信濃の動静に精通しており、高崎藩士の中に山本菅助の子孫を名乗る人物がいたことなどから、菅助と群馬は深く関係していたと考えられる。多くの研究者の意見を聞きながら、1通ごとに史実と照らし合わせてより詳しく研究したい」と話している。(後略)

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飛鳥時代の天文学

ひと月近く前のニュースなので、既にリンク先の記事は消去されてしまっていますが、一応全文引用しておきます。

asahi.com「日本の天文観測、推古朝から 国立天文台が日本書紀分析」
 日本での継続的な天文観測は推古朝(飛鳥時代前半)の7世紀初頭に始まっていたとする研究結果を、国立天文台のチームが日本書紀の分析からまとめた。日食などの観測が必要となる暦づくりは皇帝の独占事業で、中国は影響下にあった周辺国に禁止していた。日本に律令制が芽生えたのは680年ごろとされるが、その半世紀以上前から、独自の暦づくりへ、布石を打とうとしていた可能性があるという。

 天文台の谷川清隆特別客員研究員らは日本書紀に記録がある日食、月食、彗星(すいせい)、月が星を隠す現象などについて中国の記録と比較した。
 その結果、620年にオーロラが記録されたのが最初でそれ以前には天文記録がないこと、620年以降には、日本でしか観測できない現象が2件、中国でも観測可能だが中国には記録のないものが1件あった。また、同年以降、中国と日本の両方で観測された彗星が5個あるが、記述の作法が違い、中国の記録の引き写しではなく、日本独自の観測の可能性が高いという。
 昼間に突然暗くなる皆既日食は誰でも気づくが、部分日食やオーロラなどは、観測の知識と技術がある専門家が空をずっと監視していないと記録できない。そのため、620年ごろから継続的な天文観測が始まったと結論づけた。

 古代、中国と主従関係を結んだ周辺国は、貢ぎ物を贈り(朝貢)、中国の暦を使う義務があった。5世紀の日本が倭(わ)国王として朝貢していた記録が中国にある。だが、607年に派遣された遣隋使は「日出づる処の天子」で始まる対等な国家とも取れる国書を持参したとされる。
 谷川さんは「国書を独立宣言と解釈すれば、暦づくりのために独自の天文観測が必要になったのではないか」と話している。
 律令体制下では、天文や占いをつかさどる役所「陰陽寮」が置かれ、専門職の天文博士、暦博士が天文観測と暦づくりを担当するようになった。(鍛治信太郎)


7世紀初頭から既に本格的な天体観測が実施されていたのもさることながら、日本でオーロラが観測可能という事に驚かされました。北海道ならまだわかりますが、畿内で見られるなんてちょっと想像がつきません。
ところが記録を紐解いてみると、実は何度かオーロラの出現が記されているようです。18世紀後半には長崎で目撃された記録が残っており、さらに昭和33年(1958)には関東や中部など広範囲で発生したことがあったそうですから、こちらは覚えている人がいるかもしれませんね。
ただ日本で観測可能なのは、暗赤色の「低緯度オーロラ」というもので、アラスカなどで見られるカーテン状に広がり緑色に光るオーロラとは異なるそうです。

天文学というと暦の作成に必須な訳ですが、推古朝より約半世紀後の斉明6年(660)には中大兄皇子により日本初の漏刻(水時計)が、天武4年(675)には占星台と呼ばれた日本最古の天文台が造られています。国内独自の天文観測を続けてきた成果なのかもしれませんね。そして占星台造営の翌年には、占筮・占星・漏刻を管轄する公的機関として陰陽寮が設立されました。
にも関わらず、正式な暦は中国から輸入したものが長きに渡って使い続けられていたのです。日本人の手により編纂された暦が用いられるのは実に一千年の後、貞享元年(1684)渋川春海が作成した「貞享暦」が採用されるのを待たなくてはならなかったのでした。

*参考サイト=・日本でも赤いオーロラが見られた!(NAOニュース)
       ・ジオ・クリエイション 日本から見られるオーロラ

*関連記事=かに星雲と藤原定家

生き残り義士の末裔

MSN産経ニュース「赤穂義士の寺坂吉右衛門の子孫が出世」
 赤穂義士でただ一人切腹せずに天寿をまっとうした寺坂吉右衛門。足軽の身分だったが、子孫は主君の側近として仕える武士に“出世”していたことを記す書状が、兵庫県赤穂市の大石神社で見つかった。(中略)
 書状は、大石内蔵助の一族の流れをくむ子孫が、同神社に寄贈した「弘前大石家文書」の一部。寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた高知新田藩の山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせたのに対し、山内家の家臣が答えた書状とみられる。文面には「今は3代目の吉右衛門で、婿養子のため血脈は続いていないが、主君の側頭を務めている」などとあった。側頭は主君の近くに仕える身分。
 寺坂は、義士が吉良邸討ち入り後、泉岳寺に立ち寄った際に姿がなく、その後、寺男を経て山内家に仕えたことが知られている。(中略)
 調査した同神社の佐藤誠非常勤学芸員は「足軽だった寺坂が討ち入り後、他藩に仕官でき、孫が側近にまで出世していたことは、当時の社会が寺坂に対して義士としての功績を認めていた証拠」と話し、忠臣蔵資料に詳しい赤穂市教委市史編さん室の小野真一学芸員は「寺坂の子孫の様子を記す史料は珍しい。孫が主君の側近にまでなったということは、当時の“義士ブランド”の価値を知るうえで興味深い」と話している。


寺坂吉右衛門が逐電した真相については定かでないものの、一般的には「大石内蔵助の命により、事の顛末を浅野家の人々に伝えるため逃亡した」という説が取られる事が多いようです。
この書状も、大石の一族の子孫が寺坂家について尋ねたものの返書ということで、寺坂が裏切者ではなく義士の一員として認識されていた事を表しているのではと思います。

寺坂はその後、旧主・吉田忠左衛門(四十七士の一人)の娘婿に奉公した後、東京麻布にある曹渓寺の寺男となり、最後は土佐山内家の一族である主膳豊清に仕えたそうです。この豊清の養子・豊産(とよただ)が、高知新田藩の初代藩主になったので、寺坂の子孫もそのままついて行ったんでしょうね。


ところで忠臣蔵といえば、先日こんな映画製作のニュースが飛び込んできました。

バラエティ・ジャパン | キアヌ・リーヴスがハリウッド版「忠臣蔵」に主演決定
日本の伝統的な「忠臣蔵」に『ロード・オブ・ザ・リング』のようなファンタジーの要素と、『グラディエーター』のようなバトルシーンをミックスした作品になるという。

どう考えても、とてつもないトホホ映画になる予感しかしないんですけど・・・。
バトルシーンはまだしも、何をどうすれば忠臣蔵にファンタジー要素を加えられるのでしょうか(笑)
ハリウッド的には「『レッドクリフ』に負けられん」て感じなんですかねー?
まあ、よい意味で期待を裏切ってくれる出来になればいいですね(無理やりなまとめ)

*関連記事=ドラマ『最後の忠臣蔵』

悩みの種のサイコロ

京都新聞「堀河院跡から平安後期のサイコロ 白河上皇悩ませた?」
 院政を始めた白河上皇が住んだ京都市中京区の堀河院跡の発掘調査で、平安後期のサイコロが出土していたことが17日までに分かった。賭博に興じた貴族らの日常がうかがえる。
 市立音楽高校移設に伴い、旧城巽中跡地を京都市埋蔵文化財研究所が昨年調査、11世紀中ごろ−後半の池跡などが見つかっている。
 サイコロは池跡近くの柱穴から出土。素焼きの陶製で一辺1.6センチの立方体。目は失われていたが、転がりやすいように、角は丸みを帯びていた。
 平家物語によると、権勢を極めた白河上皇は「鴨川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師だけは思いのままにならない」と嘆いたとされる。担当者は「上皇を悩ませた賽の一つだろうか」と話している。


この白河上皇の有名な台詞は、平家物語の巻一「願立(がんだて)」に出てきます。
延暦寺などの有力寺社が強訴に及ぶ様の脅威を描いており、その中で『賀茂河の水、双六の賽、山法師。是ぞわが心にかなはぬもの』と白河院が語った言葉を引き、院庁の権力をもってしても神威と強力な僧兵をバックにした山門の抑制は容易でなかった事情を表しています。

さて、今回出土した「双六の賽」ですが、この意味は「双六賭博が大流行し、いくら取り締まっても埒が空かない」事かと思い込んでいたのですが、それとは別に「上皇自身の双六の腕前の下手さを嘆いている」という解釈もあるようですね。
白河院の享楽的な性質から考えると、後者の解釈の方が相応しいかな?という気がしないでもないです(^^;

ちなみに堀川院は平安京の名邸の一つとされていましたが、惜しくも白河上皇の晩年に焼失してしまったそうです。
跡地は二条城の東隣に位置し、京都国際ホテル前に石碑が、全日空ホテルの駐車場内には庭園の滝口が復元されています。

・参考サイト=平安京探偵団 堀川院跡

3×9=24??

報道されてからもう一週間ほど経っているニュースなんですが、個人的に興味深いので取り上げます。

神戸新聞「平安人は勉強家? 九九を何度も練習 豊岡の木簡」
 兵庫県豊岡市日高町の祢布ケ森遺跡で大量出土した木簡の中には、九九の練習で計算間違いをしているものがあった。調査した豊岡市教委は「当時の官吏の人間味が感じられる」と話している。
 木簡は勉強するとき、現代のノートのようにも使用していたという。間違いが見つかった木簡は長さ31.6センチ、幅2.9センチの細長い形で、裏面に九九を記していた。
 現代とは逆に大きい数の九九から始め、六九から四九までを飛ばした後、「三九廿四(さんくにじゅうし)」と間違えている。
 見つかった203点の大半は、この木簡のように文字や計算を練習した跡だった。表面を削って再利用できるが、木片も多く確認されており、繰り返し勉強した様子がうかがえる。(後略)


<関連記事>
YOMIURI ONLINE:「詩経」の注釈書かれた木簡発見…兵庫・祢布ヶ森遺跡
神戸新聞:木簡大量出土「冗談が本当に」 驚く研究者

木簡は810年前後のものと推定されるようで、都ではちょうど「薬子の変」が起こった頃にあたりますね。
ところで、九九がこんなに古くから日本に伝わり使用されていたとは、このニュースを見るまで私は知りませんでした。
調べてみると九九が考案されたのは、中国の春秋時代(B.C.770年〜B.C.403年)にまで遡るとのこと。なんと二千年以上も昔からあったとは!で、日本に入ってきたのは飛鳥時代、もしくは奈良時代と推定されているようです。かの「万葉集」の中にも、九九の読み方を掛け言葉的に織り込んでいる歌がいくつも見られます。

 若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國 (巻十一 2542番)
ーー若草の にひた枕を 巻きそめて 夜をやへだてる にくく(憎く)あらな國
「くく」と読ませる箇所に「八十一」という漢字を当てています。ちなみに大意は「新妻がかわいくて仕方がないので、たとえ一夜でも離したくない」ということだそうで。

今回のように木簡に九九が記されているのは、実は奈良時代のものにも見つかっているそうです。書物にまとまった形として記されている例では、源為憲という人物が天禄元年(970)に著わした、貴族の子弟のための教科書「口遊(くちずさみ)」の中の記述が、最も古いものとのことです。
当初は大きい数の「九九=八十一」から始まる形式だったため、一の位から始まるように変わっても、「九九」の呼び方だけは残ったようです。

最初読んだ時は、この官吏さんには悪いけど、九九くらいマスターしろよという気もしましたが(笑)、現代のように記憶力のよい子供の時から暗記させられる訳ではなく、大人になってから学ぶとしたら、なかなか覚えられないものなのかもしれないですね。
まあそれはともかく、木簡を何度も削って使いながら一生懸命勉強していた様子が伺えるのは微笑ましいですよね。

岩手・宮城内陸地震ーその時平泉は

河北新報ニュース「東北に深いつめ跡 中尊寺の建物破損」

<岩手>
 7月の世界遺産登録を目指す平泉町の中尊寺では、国指定重要文化財の釈尊院五輪塔が一部破損した。本堂前にある表門も激しい振動でゆがみ、材木で支えながら応急工事を行った。
 同町の毛越寺では、宝物館の仏像や石灯籠(どうろう)などが転倒したため臨時休館となった。(後略)


リンク先に、材木で補強して支えている中尊寺本堂の表門の様子と、無惨にも横倒しになった境内の灯籠の写真が掲載されています。
ただ、同寺の仏像や金色堂の方には被害はなく、また参拝者の中にもケガをされた人がいなかったというのが、せめてもの幸いでしょうか。

しかし山間部での被害が…。大規模な土砂崩れによって、地震前と一変してしまった風景を見ると絶句しますね…。

被災地の方々には心より御見舞い申し上げます。
一日も早く余震が治まって、安心できる生活に戻ることができますように。

落城の遺物

YOMIURI ONLINE「落城の炎 おにぎり焼く 鮫ケ尾城跡で出土」

 戦国武将・上杉謙信の没後に起きた跡目争い「御館(おたて)の乱」で落城した妙高市の鮫ケ尾城跡から、当時の戦火で焼けた「おにぎり」が出土した。21日、同市教育委員会が発表した。同城の米蔵跡からは、焼けた備蓄米が多数出土しているが、おにぎりは初めて。出陣や籠(ろう)城に備え、携行食として用意されたものとみられる。
 鮫ケ尾城は、謙信と武田信玄が覇を競った信越国境近くにあった山城で、上杉景虎の最期の地として知られる。
 「おにぎり」は、2006年6月、山頂に近い通称三の丸地点を調べた際、大量の焼けた米などとともに出土した。いずれも泥が表面に付着した、うずらの卵大から拳よりやや小さい大きさの塊だった。
 市教委は昨年3月、その中から比較的大きな4点の鑑定を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に依頼。その結果、〈1〉もみ殻のある米ではなく、炊かれた飯の塊〈2〉外側の曲線が手で握った時の形に近い〈3〉笹のような植物の上に置かれたか包まれたような痕跡がある――ことなどから、おにぎりが焼けたものと判断した。「おにぎり」は炭化していたが、麦や雑穀類は混ざっておらず、米100%だった。(後略)


「御館の乱」とは、天正6年(1578)上杉謙信の死後、彼の養子である景勝(謙信の甥)と景虎(北条氏康の子)の後継者争いに端を発した越後の内乱を指します。謙信は跡継ぎを公式には定めてなかったのに加え、一族や家臣の間の勢力争いも絡み、まさに家中を二分する戦いとなりました。
戦いは当初、実家の北条氏とその同盟国の武田氏をバックにつけた景虎方が優勢でした。しかし春日山城を抑えていた景勝は城内の莫大な金銀を用い、領土の割譲や多額の黄金を贈る等の条件で、武田勝頼に和睦を持ち掛けます。長篠の戦い以降、出兵が相次ぎ軍資金に困窮気味だった勝頼は申し入れを受諾して撤兵。これ以降徐々に形勢は逆転していきました。
翌年3月、景虎が籠城していた御館城がついに落城。彼は小田原へ逃亡を図りますが、途中立寄った鮫ヶ尾城で城主の寝返りに遭い自害。こうして景勝が勝利を収め、上杉家の当主の座に就いたのでした。

謙信は本当はどちらに跡を継がせたかったのかとか、勝頼の選択の是非についてなど、いろいろ考え出すと尽きませんが、個人的に謎なのは景虎の実兄・北条氏政の動きが鈍かった(武田軍の撤退後にようやく援軍を差し向けてる)ことなんですよね。当時の北条氏を取り巻く状況として、すぐには出兵できない理由があったのかな??

さて発見されたこのおにぎり、雑穀の混ざっていない"銀しゃり"であったことから、担当者の方は「景虎陣営が、最後の戦いを前に兵士たちに振る舞ったものでは」と見ているようです。いわば"最後の晩餐"の残りものかも…と思うと、複雑な気分になりますね。
おにぎりを始めとする当時の戦場食については、「関ヶ原ブログ」様に詳しく書かれています。また現在の鮫ヶ尾城跡の様子は、サイト「埋もれた古城」様に掲載されていますので、ぜひご覧になって下さい。

火事と喧嘩は江戸の華と言うけれど…

MSN産経ニュース「「明暦の大火」の被害つづる 岡山藩主の書状発見」
 岡山藩主の池田光政が1657年1月、江戸の大部分が燃えた「明暦の大火」の被害状況などを記した書状が岡山市内の民家で見つかった。大火直後の状況を藩主自ら記した貴重な史料だ。
 書状は、大火から1週間後の1月27日の日付。いとこの鳥取藩主、池田光仲の書状に返信した。光仲の屋敷が焼失しなかったことを「大変結構なこと」とし、自らの屋敷は焼失したが「無事脱出した」と家臣から報告されたことなどがつづられている。(中略)

 光政は日本最古の庶民学校、閑谷学校を開くなど藩政の基礎を築いた「名君」とされる。書状には、光仲の長男が4代将軍の徳川家綱に初めて拝謁したことを「おめでとう」と祝う記述も。
 岡山市教育委員会文化財課は「名君とされた光政の人となりがにじみ出ている」と話している。(後略)


このニュースを見て、私の子供時代の愛読書「小学館版 学習まんが―少年少女日本の歴史」に載っていた池田光政と明暦の大火のエピソードを思い出したので、取り上げてみました。
岡山に滞在していた光政が、江戸で未曾有の大火が発生したことを江戸屋敷からの使いで知り、将軍家や自らの家族が被害を受けていないか心配する…といった内容だったと思うんですけど(手元に本がないのでうろ覚え)。
もともとの本筋は、参勤交代制が確立し、諸大名が江戸と国許でどのような生活を送っていたのかを、光政を主人公にして描いてたんですね。その中で触れられた話で、おそらく作者の方の創作だと思うんですが、ホントにこんな書状が発見されるなんて凄い偶然だなーとちょっと驚いてしまったのでありました。

明暦の大火は「江戸三大大火」のひとつで、最も大きな被害を出したものです。明暦3年(1657)1月18日の未の刻(午後2時)頃に発生し、まる2日ほども燃え続けたそうです。江戸の市街地の大半が灰燼に帰し、死者は一説によると10万人にものぼったという大惨事になりました。この時江戸城の天守閣が焼失して、幕末までついぞ再建されなかったのは有名ですね。
現代ではさすがにここまで火事が広がることはほぼないと思いますが、災害はいつの世になっても怖いですよね… (-人-)ナム

*参考サイト=東京建築業協会 明暦の大火による江戸の大改造

*池田光政についての過去記事=・民衆のための政治 ー 池田光政

本能寺の遺構・遺物発見

京都新聞「本能寺の無防備覆す 信長が“城塞並み”防御か」
 京都市中京区の旧本能寺跡で、「本能寺の変」の直接の証人というべき大量の焼け瓦が見つかった。瓦が埋まっていた堀には、堅固な石垣が積まれ、境内全域ではなく特定の建物を守る堀だったとみられる。織田信長が全く無防備の状態で襲われたのではなく、城のように防備を固めていた可能性が出てきた。(中略)
 ほぼ同時代の京を描いたとされる上杉本洛中洛外図(国宝)で、本能寺は瓦ぶきと板ぶきの建物が2棟ずつ描かれる。境内全体を囲む堀があったとみられるが、細かい部分は雲で隠れ、境内に堀があった可能性は知られていなかった。
 調査を担当した関西文化財調査会の吉川義彦代表は「石垣の丁寧な造りは職人技」と驚く。今回、境内の内側にも堀が見つかったことで、二重の堀を持つ堅固な寺だったことになる。
 本能寺を含む京の法華寺院は、町衆の信仰を集め繁栄したが、比叡山延暦寺の怒りを買い、1536年、天文法華の乱でことごとく焼かれ、その後、再建された。
 今谷明・国際日本文化研究センター教授は「比叡山ににらまれていた再建時の法華寺院は、境内に堀は造れなかったはず。信長が寺を城塞(じょうさい)化するために造った堀だろう」とみる。堀は、掘った土砂を積み上げた土塁を伴うのが一般的だ。今谷教授は「堀や土塁で館を囲み、僧侶らが入れない特別な空間をつくっていたのだろう」と、信長が最期を遂げた館が堀の近くにあったと推測する。
 一方、西川幸治・同センター客員教授(都市史)は「防御施設にしては中途半端で、信長のパワーにふさわしくない。天文法華の乱を経験した寺側が設けたものではないか」と話す。(後略)


Yahooのトップにも出ていたし、TVや新聞でも報道されたので、ご存知の方も多いと思います。旧本能寺跡から、本能寺の変で焼失した際のものと見られる大量の焼けた瓦や、堀・石垣の跡が発見されたというニュース。
本能寺というお寺は今でもありますが、信長の生前とは場所が変わってるんですね(再建時に秀吉の命で移転したそうです)。跡地にマンションを建設することになって、それに伴う発掘調査で判明したようで。

貴重な遺構や遺物が発見されたのは喜ばしいことだとは思いますが…気になったのはこの記事の伝え方。寺に石垣や堀があったというだけで、信長が無防備だったという説が覆るって、ちょっと無理があるこじつけじゃないの?
本能寺の構えが万全であったとしても、明智光秀の軍は1万数千人、対して信長が連れていた手勢は「わずかばかり」というから、数百人くらいでしょうか。兵の数からして劣勢は歴然です。それに戦国時代の寺院が、武力闘争に備えて城塞としての態を成していたのは、珍しいことではありません。代表的なのが石山本願寺ですね。
だいたい戦国武将で、まるっきり無防備だった人なんていると思えないし。本能寺の変の前にも、信長は上洛の際に同寺に数回宿泊しています。本能寺を利用していた理由はいろいろあったでしょうが、防備に信頼を置いていたのもその一つなんじゃないでしょうか。もっとも上の記事によると今谷明氏は、境内の堀については信長が作らせたと見ているようですが…。

信長が無防備だったというなら、そもそも光秀の背反を予測できなかったこと自体がそう言えるんじゃないですかね。

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井伊直弼の心の内

中国新聞「豪腕大老、繊細な面も? 通商条約めぐる新記述」
 幕末の大老井伊直弼が1858年に日米修好通商条約を調印した際、諸大名の承認を得ず手続きを進めたことを悔やんでいたとする史料が10日までに見つかった。
 史料を展示している彦根城博物館(滋賀県彦根市)の史料係渡辺恒一さん(40)は「安政の大獄などから、豪腕をふるう強権的な人間像が描かれてきた直弼だが、繊細な一面もあったことがうかがえる」と話している。
 史料は全三巻、計約300ページ。彦根藩の側近が直弼の政治活動を記録した「公用方秘録」の草稿版の写本とみられる。
 史料には、側近から「諸大名の承認のない調印に批判が生じる」と指摘された直弼が「其所ヘ心付不申段ハ無念之至(その点に気付かなかったのは無念)」と後悔したとする記述があった。現存する草稿版には条約調印前後の記述そのものがなく、史料はこの部分が抜け落ちる前に写したものとみられる。
 一方、明治政府に提出された同秘録の清書版には、今回の史料にある“後悔”の記述はなく、直弼が「天皇の許可なく調印する全責任を負う」という趣旨の強気の発言だけが記されている。(後略)


井伊直弼は幕末史には欠かせない人物の一人ではありますが、評価が大変難しいというか、人によってかなり分かれるのではという気がします。安政の大獄で実行した過酷な大弾圧の印象により、一般的には独裁者ぽいイメージが強いんじゃないでしょうか。
この辺はまだ勉強不足なんであまり突っ込んだことは語れないけど、開国路線を取ったこと自体は間違いじゃないと私は考えています。ただ反対派を抑え込むのに、あんな強引なやり方しかなかったのだろうか?とは思いますが…。
正直言うと個人的には、直弼よりも徳川斉昭の方がいまいち好かんのよね(笑)。でも2人とも優れた人物だったのは確かだし、もう少し違う時代に生まれていれば、普通に名君主として穏やかな生涯を送れたのかなとは感じます。

さて見つかった文書はハリスに日米修好通商条約締結を迫られ、それを調印する際に、諸大名の承認を得ず手続を行ったことを直弼は悔いていたという内容。もっと固い信念の上で、独断で決定を押し進めたと思ってたので、なんか意外でした。清書版には強気の言葉のみが書かれているとのことですが、実際の心中は不安や後悔の念などで揺れ動いていたのかもしれませんね。

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