闇に葬られた皇族(2) ー 伊予親王
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桓武天皇の血縁者で政争の犠牲になった人物といえば、まず第一に挙げられるのが彼の皇太弟でありながら、藤原種継暗殺事件の疑いをかけられ憤死した、崇道天皇こと早良親王がいますね。その経緯と、彼の怨霊の祟りが長く怖れられたことは割と有名かと思うので、ここでは早良親王と同様の末路を辿った桓武天皇の皇子・伊予親王の話を紹介します。
◆桓武に愛された皇子
伊予親王の正確な生年は不詳ですが、延暦11年(792)加冠の儀を受け元服している記録があります。延暦5年(786)生である異母兄弟の大伴親王(後の淳和天皇)・葛原親王が、延暦17年(798)に13歳で加冠の儀を受けている事から推測すると、伊予親王はおそらく宝亀12年(780)前後の生誕ではないかと思われます。年齢的には、安殿親王(後の平城天皇)に次ぐ二番目の皇子になります。母は藤原吉子といい、藤原南家出身の女性でした。
伊予親王は父の桓武天皇に深く愛されていたと伝えられており、天皇は遊猟や巡幸に際して親王と吉子のもとを度々訪れ、歓楽を共にしたことが『日本紀略』などに記されています。その他にも天皇より帯剣を許可されたり、『日本後紀』には延暦23年(804)に近江国の土地を賜ったという記事も見られます。
延暦25年3月に桓武天皇が亡くなり、安殿親王が平城天皇として即位。天皇の同母弟である神野親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟に立てられ、伊予親王は中務卿兼太宰帥(大宰府の長官)に任ぜられました。翌年5月、天皇が神泉苑(大内裏の庭園)に行幸した際に、伊予親王は奉献を行って宴会にも参加しており、兄帝との関係も上手くいってるかに見えました。
しかしその5ヶ月後、親王の運命は急変します。
◆伊予親王の変
大同2年(807)10月28日。「藤原宗成が伊予親王へ謀反を勧めているらしい」という情報を大納言・藤原雄友(親王の母方の伯父)が聞きつけ、驚いた雄友は右大臣の藤原内麻呂に報告。また親王自身も、宗成に誘われた件を即座に平城天皇へ奏上しました。
宗成は連行され取調べを受けますが、彼が「伊予親王こそが計画の首謀者だ」と主張したため、親王は邸を多数の兵により囲まれ、捕われの身となってしまいます。数日後、母の吉子と共に大和の川原寺に幽閉。親王と吉子は無実を主張しますが訴えは通じず、それどころか飲食を断たれる仕打ちを受けます。
11月11日、親王は解任されその位を廃されました。前途を悲観した母子は翌日、自ら毒を仰ぎ命を断つという悲劇的な結末を迎えました。
宗成は流刑が決定し、また伯父の雄友や親王の3人の子供たちも、連座として遠流になりました。
桓武天皇の血縁者で政争の犠牲になった人物といえば、まず第一に挙げられるのが彼の皇太弟でありながら、藤原種継暗殺事件の疑いをかけられ憤死した、崇道天皇こと早良親王がいますね。その経緯と、彼の怨霊の祟りが長く怖れられたことは割と有名かと思うので、ここでは早良親王と同様の末路を辿った桓武天皇の皇子・伊予親王の話を紹介します。
◆桓武に愛された皇子
伊予親王の正確な生年は不詳ですが、延暦11年(792)加冠の儀を受け元服している記録があります。延暦5年(786)生である異母兄弟の大伴親王(後の淳和天皇)・葛原親王が、延暦17年(798)に13歳で加冠の儀を受けている事から推測すると、伊予親王はおそらく宝亀12年(780)前後の生誕ではないかと思われます。年齢的には、安殿親王(後の平城天皇)に次ぐ二番目の皇子になります。母は藤原吉子といい、藤原南家出身の女性でした。
伊予親王は父の桓武天皇に深く愛されていたと伝えられており、天皇は遊猟や巡幸に際して親王と吉子のもとを度々訪れ、歓楽を共にしたことが『日本紀略』などに記されています。その他にも天皇より帯剣を許可されたり、『日本後紀』には延暦23年(804)に近江国の土地を賜ったという記事も見られます。
延暦25年3月に桓武天皇が亡くなり、安殿親王が平城天皇として即位。天皇の同母弟である神野親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟に立てられ、伊予親王は中務卿兼太宰帥(大宰府の長官)に任ぜられました。翌年5月、天皇が神泉苑(大内裏の庭園)に行幸した際に、伊予親王は奉献を行って宴会にも参加しており、兄帝との関係も上手くいってるかに見えました。
しかしその5ヶ月後、親王の運命は急変します。
◆伊予親王の変
大同2年(807)10月28日。「藤原宗成が伊予親王へ謀反を勧めているらしい」という情報を大納言・藤原雄友(親王の母方の伯父)が聞きつけ、驚いた雄友は右大臣の藤原内麻呂に報告。また親王自身も、宗成に誘われた件を即座に平城天皇へ奏上しました。
宗成は連行され取調べを受けますが、彼が「伊予親王こそが計画の首謀者だ」と主張したため、親王は邸を多数の兵により囲まれ、捕われの身となってしまいます。数日後、母の吉子と共に大和の川原寺に幽閉。親王と吉子は無実を主張しますが訴えは通じず、それどころか飲食を断たれる仕打ちを受けます。
11月11日、親王は解任されその位を廃されました。前途を悲観した母子は翌日、自ら毒を仰ぎ命を断つという悲劇的な結末を迎えました。
宗成は流刑が決定し、また伯父の雄友や親王の3人の子供たちも、連座として遠流になりました。
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- 平安時代
闇に葬られた皇族(1) ー 井上内親王
『その時歴史が動いた〜平安京誕生』の記事で言及した、井上内親王のお話です。
彼女は内親王という高貴な生まれながら、波瀾万丈で悲劇的な人生を余儀なくされました。
◆日陰の内親王から皇后へ
井上内親王は養老元年(717)、聖武天皇(当時は皇太子)の第一皇女として誕生しました。
母は県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)といい、同母の弟妹には不破内親王(?〜795?)と安積親王(728〜744)がいます。また藤原不比等の娘・光明子(後の光明皇后)を母とする阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)は、一つ年下になります。
彼女は幼くして、伊勢神宮で巫女として仕える斎王に選ばれ、神亀4年(727)わずか11歳で家族と別れ伊勢に下向します。その後15年以上の長きに渡り神に奉仕しますが、弟・安積親王の死を受けて奈良に戻る事になりました*1。
安積親王は聖武天皇の唯一の男子*2で、本来なら皇太子とされるべきですが、何としてもそれを避けたかったのが藤原氏。権力を独占し始めていた彼らにとって、藤原氏の母を持たない安積は甚だ好ましくない存在だったのです。彼らはまず光明子を強引に立后し、天平10年(738)には阿部内親王が初の女性皇太子に定められました。
6年後、安積親王は難波への行幸の途中、急な発病により17歳の若さで没しました。死因は公的には脚気とされていますが、一説には藤原仲麻呂に殺されたとも言われています。
さて井上内親王は帰京後しばらくして、白壁王という皇族の許に嫁がされました。
彼は天智天皇の孫に当たりますが、当時の皇統は天武天皇の子孫であったため、出世コースとは程遠い存在。「変に有力者に縁付かせると、彼女を担いで反乱を起こされる可能性がある。凡庸で冴えない白壁王に押し付けておけば安心だろう」と、適当に見繕われたのかもしれません。
結婚後は、他戸親王と酒人内親王という二子をもうけ、それなりに平穏に暮らしていたと思われます。また白壁王の官位も、天皇の姉の夫ということで順調に昇進するようになりました。
神護景雲4年(770)、称徳天皇が崩御。後継者として藤原氏一門が推挙したのは、なんと他ならぬ白壁王でした。彼は光仁天皇として即位し、井上内親王は皇后に、そして息子の他戸親王が皇太子とされました。
若くして非業の死を遂げた弟や、8年前に亡くなっていた母のことを思うと、彼女の胸中には複雑ながらも感慨深いものがあったのではないでしょうか。
◆運命の暗転
しかし、井上内親王の栄華の日々はつかの間のことでした。
2年後、彼女は夫を呪詛したという罪で皇后位を剥奪され、同時に他戸親王も皇太子を廃されてしまったのです。さらに翌年、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪い殺した罪にも問われ、母子共に幽閉されてしまいます。
そして宝亀6年(775)4月27日、2人は幽閉先で亡くなりました。同日の死亡というのはいかにも怪しく、おそらく自然死ではないでしょう。
そもそも、光仁天皇は即位した時すでに62歳。仮に夫婦仲が冷えきっていたとしても、わざわざ呪詛なぞせずとも何年かやり過ごして待てば、言葉は悪いですがそのうち寿命がくるんじゃないでしょうか。他戸親王がいずれ皇位に就くことも決定していますし。
また難波内親王の件についても呪詛すべき理由は見当たらず、井上内親王母子は何らかの謀略によって陥れられた可能性が濃厚なのです。
彼女は内親王という高貴な生まれながら、波瀾万丈で悲劇的な人生を余儀なくされました。
◆日陰の内親王から皇后へ
井上内親王は養老元年(717)、聖武天皇(当時は皇太子)の第一皇女として誕生しました。
母は県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)といい、同母の弟妹には不破内親王(?〜795?)と安積親王(728〜744)がいます。また藤原不比等の娘・光明子(後の光明皇后)を母とする阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)は、一つ年下になります。
彼女は幼くして、伊勢神宮で巫女として仕える斎王に選ばれ、神亀4年(727)わずか11歳で家族と別れ伊勢に下向します。その後15年以上の長きに渡り神に奉仕しますが、弟・安積親王の死を受けて奈良に戻る事になりました*1。
安積親王は聖武天皇の唯一の男子*2で、本来なら皇太子とされるべきですが、何としてもそれを避けたかったのが藤原氏。権力を独占し始めていた彼らにとって、藤原氏の母を持たない安積は甚だ好ましくない存在だったのです。彼らはまず光明子を強引に立后し、天平10年(738)には阿部内親王が初の女性皇太子に定められました。
6年後、安積親王は難波への行幸の途中、急な発病により17歳の若さで没しました。死因は公的には脚気とされていますが、一説には藤原仲麻呂に殺されたとも言われています。
さて井上内親王は帰京後しばらくして、白壁王という皇族の許に嫁がされました。
彼は天智天皇の孫に当たりますが、当時の皇統は天武天皇の子孫であったため、出世コースとは程遠い存在。「変に有力者に縁付かせると、彼女を担いで反乱を起こされる可能性がある。凡庸で冴えない白壁王に押し付けておけば安心だろう」と、適当に見繕われたのかもしれません。
結婚後は、他戸親王と酒人内親王という二子をもうけ、それなりに平穏に暮らしていたと思われます。また白壁王の官位も、天皇の姉の夫ということで順調に昇進するようになりました。
神護景雲4年(770)、称徳天皇が崩御。後継者として藤原氏一門が推挙したのは、なんと他ならぬ白壁王でした。彼は光仁天皇として即位し、井上内親王は皇后に、そして息子の他戸親王が皇太子とされました。
若くして非業の死を遂げた弟や、8年前に亡くなっていた母のことを思うと、彼女の胸中には複雑ながらも感慨深いものがあったのではないでしょうか。
◆運命の暗転
しかし、井上内親王の栄華の日々はつかの間のことでした。
2年後、彼女は夫を呪詛したという罪で皇后位を剥奪され、同時に他戸親王も皇太子を廃されてしまったのです。さらに翌年、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪い殺した罪にも問われ、母子共に幽閉されてしまいます。
そして宝亀6年(775)4月27日、2人は幽閉先で亡くなりました。同日の死亡というのはいかにも怪しく、おそらく自然死ではないでしょう。
そもそも、光仁天皇は即位した時すでに62歳。仮に夫婦仲が冷えきっていたとしても、わざわざ呪詛なぞせずとも何年かやり過ごして待てば、言葉は悪いですがそのうち寿命がくるんじゃないでしょうか。他戸親王がいずれ皇位に就くことも決定していますし。
また難波内親王の件についても呪詛すべき理由は見当たらず、井上内親王母子は何らかの謀略によって陥れられた可能性が濃厚なのです。
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5度死んだ男 ー 源義親
河内源氏三代目の棟梁で"八幡太郎"の呼び名で知られる源義家は、生前より「天下第一武勇之士」(『中右記』)と賞讃され、武士たちの尊宗を集めてました。しかし一方では、身内の争いごとに度々悩まされていました。同母弟の義綱とは、互いの郎党同士の領地争いがきっかけで対立し、一瞬即発の事態にまで発展しています。そして一族中でも一番の問題児だったのが、彼の次男である義親です。
◆不肖の跡継ぎ
義親は、長兄の義宗が若くして世を去ったため父の嫡子となり、従五位下・対馬守に任ぜられ九州に赴任しました。ここまでは順風満帆だったのですが、康和3年(1101)、大宰大弐・大江匡房により「義親は九州一円で、人民を殺害し公物を横領するなどの悪行を働いている」との告発を受けました。
翌年、朝廷は現地に追捕使を派遣。義家は自分の郎党である藤原資通をこれに同行させ、息子の説得を試みます。が、なんと資道はあっさり義親側に寝返ってしまいました。勢いづいたのか義親らは官吏をも殺害してしまい、隠岐国への配流が決定します。
その後数年間の動向は定かではありませんが(隠岐には行かなかったとも言われている)、やがて出雲に現れた義親はまたもや、目代(国司の現地における代理人)を殺害し官物を奪取するという蛮行を働きます。ついに父の義家が追討を命じられましたが、彼は出陣することなく嘉承元年(1106)に亡くなりました*。
改めて平正盛(清盛の祖父)が追捕使に任命され、兵を率いて出雲へ向かいました。そして天元元年(1108)の1月、出雲到着後13日目に早くも「蜘戸の城にて義親を討ちとりました」との報告が朝廷にもたらされたのです。喜んだ白河法皇は、一行の帰洛を待たずして、当時第一等の国であった但馬守に正盛を任命。やがて義親の首を携え京に凱旋した正盛は、源氏に代わって武家の棟梁の座に就いたのでした。
◆不死身の男?
しかし、この正盛の義親追討の事実を疑問視する見方も少なくありませんでした。正盛はそれまで検非違使などを務めていたものの、たいした武功を挙げたことがなく、剛勇で鳴らした義親を電光石火の早業で討ち取るとは考え難いと囁かれたのです。
正盛が持ち帰った義親の首はカムフラージュで本人は死んでなかったのか、はたまたこの噂を悪用したのか、その後20年以上に渡り義親を名乗る人物が何度も出現し続けました。
・永久5年(1117)義親を称する者が越後に現れる。国司の命で斬首。
・元永元年(1118)常陸に義親を称する者が出没。5年後に捕縛され、京へ送られ処刑。
・大治4年(1129)9月、義親を名乗る者が京に出現。
経緯は不明だが、前関白・藤原忠実の邸に匿われる。
・大治5年(1130)大津にも義親を名乗る者が現れるが、京の義親と闘乱を起こし死亡。
しかし間もなく京の義親も、忠実邸に於いて何者かの襲撃を受け殺された。
◆不肖の跡継ぎ
義親は、長兄の義宗が若くして世を去ったため父の嫡子となり、従五位下・対馬守に任ぜられ九州に赴任しました。ここまでは順風満帆だったのですが、康和3年(1101)、大宰大弐・大江匡房により「義親は九州一円で、人民を殺害し公物を横領するなどの悪行を働いている」との告発を受けました。
翌年、朝廷は現地に追捕使を派遣。義家は自分の郎党である藤原資通をこれに同行させ、息子の説得を試みます。が、なんと資道はあっさり義親側に寝返ってしまいました。勢いづいたのか義親らは官吏をも殺害してしまい、隠岐国への配流が決定します。
その後数年間の動向は定かではありませんが(隠岐には行かなかったとも言われている)、やがて出雲に現れた義親はまたもや、目代(国司の現地における代理人)を殺害し官物を奪取するという蛮行を働きます。ついに父の義家が追討を命じられましたが、彼は出陣することなく嘉承元年(1106)に亡くなりました*。
改めて平正盛(清盛の祖父)が追捕使に任命され、兵を率いて出雲へ向かいました。そして天元元年(1108)の1月、出雲到着後13日目に早くも「蜘戸の城にて義親を討ちとりました」との報告が朝廷にもたらされたのです。喜んだ白河法皇は、一行の帰洛を待たずして、当時第一等の国であった但馬守に正盛を任命。やがて義親の首を携え京に凱旋した正盛は、源氏に代わって武家の棟梁の座に就いたのでした。
◆不死身の男?
しかし、この正盛の義親追討の事実を疑問視する見方も少なくありませんでした。正盛はそれまで検非違使などを務めていたものの、たいした武功を挙げたことがなく、剛勇で鳴らした義親を電光石火の早業で討ち取るとは考え難いと囁かれたのです。
正盛が持ち帰った義親の首はカムフラージュで本人は死んでなかったのか、はたまたこの噂を悪用したのか、その後20年以上に渡り義親を名乗る人物が何度も出現し続けました。
・永久5年(1117)義親を称する者が越後に現れる。国司の命で斬首。
・元永元年(1118)常陸に義親を称する者が出没。5年後に捕縛され、京へ送られ処刑。
・大治4年(1129)9月、義親を名乗る者が京に出現。
経緯は不明だが、前関白・藤原忠実の邸に匿われる。
・大治5年(1130)大津にも義親を名乗る者が現れるが、京の義親と闘乱を起こし死亡。
しかし間もなく京の義親も、忠実邸に於いて何者かの襲撃を受け殺された。
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悩める関東管領 ー 上杉憲実
上杉憲実は足利学校を再興した事で知られている人物ですが、その人生は波乱の連続でした。後半生は僧侶となって諸国を放浪し、最後は関東から遠く離れた長門国で生涯を終えています。関東管領を務めていた人物が世捨て人のようになったのは、どんな経緯があったのでしょうか。
◆2人の権力者の間で
憲実は応永17年(1410)生まれ。生家は関東管領を世襲していた山内上杉氏の庶流・越後上杉氏ですが、山内家で跡継ぎが途絶えたために応永25年(1418)鎌倉へ迎えられ、翌年わずか10歳で管領職に就任しました。
当時の関東公方を務めていたのは、憲実よりちょうど一回り年上の足利持氏。彼は非常に野心的で個性の強い人物でしたが、当初は憲実が幼かったこともあってか、別段トラブルもなくやっていたようです。主従の間に波風が立ち始めたのは応永35年(1428)のこと、京の将軍家での出来事がきっかけでした。
この年に前将軍の足利義持が没し、弟の義教が籤引きで選ばれて6代将軍になりますが、持氏はこれに頗る不満を抱きました。
彼は「関東公方家は将軍家と対等である」と認識して将軍への野望を持っており、義持の生前「義持殿の猶子となって上洛したい」と要望していたのです。しかし自分が候補にさえ入らなかったのに腹を立て、兵を率いて上洛しようとしました。結局、憲実の諌止によりどうにか思い止まりましたが、これ以降義教に執拗に反抗を続ける持氏と、幕府との関係を平穏無事にと願う憲実の間には、次第に溝が広がっていく事になります。
その後も持氏は、改元を無視し前の年号を使い続けたり、幕府の分国である信濃守護の小笠原氏と豪族の村上氏の争いに介入を企んだり、嫡男を勝手に「義久」と名付けたり(本来は将軍から名を賜る慣例)などやりたい放題。その度に憲実は持氏を諌め、京へ謝罪の使節を派遣したりと、一貫して鎌倉と幕府との調停に努めました。
関東管領の任命権は将軍にあり、彼にとっては持氏と義教の両人共が忠義を尽すべき主君だったのです。しかし持氏は、永享6年(1434)鶴岡八幡宮に「呪詛怨敵(義教のこと)を払いのけたまえ」と書き付けた血書を奉納したりと、憲実の憂慮にも関わらず幕府との対立を深めていくばかりでした。
◆2人の権力者の間で
憲実は応永17年(1410)生まれ。生家は関東管領を世襲していた山内上杉氏の庶流・越後上杉氏ですが、山内家で跡継ぎが途絶えたために応永25年(1418)鎌倉へ迎えられ、翌年わずか10歳で管領職に就任しました。
当時の関東公方を務めていたのは、憲実よりちょうど一回り年上の足利持氏。彼は非常に野心的で個性の強い人物でしたが、当初は憲実が幼かったこともあってか、別段トラブルもなくやっていたようです。主従の間に波風が立ち始めたのは応永35年(1428)のこと、京の将軍家での出来事がきっかけでした。
この年に前将軍の足利義持が没し、弟の義教が籤引きで選ばれて6代将軍になりますが、持氏はこれに頗る不満を抱きました。
彼は「関東公方家は将軍家と対等である」と認識して将軍への野望を持っており、義持の生前「義持殿の猶子となって上洛したい」と要望していたのです。しかし自分が候補にさえ入らなかったのに腹を立て、兵を率いて上洛しようとしました。結局、憲実の諌止によりどうにか思い止まりましたが、これ以降義教に執拗に反抗を続ける持氏と、幕府との関係を平穏無事にと願う憲実の間には、次第に溝が広がっていく事になります。
その後も持氏は、改元を無視し前の年号を使い続けたり、幕府の分国である信濃守護の小笠原氏と豪族の村上氏の争いに介入を企んだり、嫡男を勝手に「義久」と名付けたり(本来は将軍から名を賜る慣例)などやりたい放題。その度に憲実は持氏を諌め、京へ謝罪の使節を派遣したりと、一貫して鎌倉と幕府との調停に努めました。
関東管領の任命権は将軍にあり、彼にとっては持氏と義教の両人共が忠義を尽すべき主君だったのです。しかし持氏は、永享6年(1434)鶴岡八幡宮に「呪詛怨敵(義教のこと)を払いのけたまえ」と書き付けた血書を奉納したりと、憲実の憂慮にも関わらず幕府との対立を深めていくばかりでした。
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幕政改革の挫折 ー 北条貞時
鎌倉幕府の9代目執権・北条貞時は、知名度の点では彼の父(北条時宗)や息子(北条高時)と比べると、やや劣っています。けれども彼の生涯は、幕府組織の行き詰まりを象徴しているかのように私には思えて、興味深い人物です。
◆霜月騒動と平禅門の乱
北条貞時は文永8年(1271)12月12日に出生しました。弘安7年(1284)父の時宗が亡くなり、彼は14歳で執権に就任します。
当時の幕府は元寇の恩賞問題や国防の強化など、問題が山積の状態。そのため若年の貞時に代わり、安達泰盛が幕政を主導しました。泰盛は貞時の母方の伯父で、時宗存命中より幕府内で大きな影響力を持っていた有力御家人です。
泰盛は、将軍権威の強化を図る政策を次々と打ち出しました。北条得宗家の専制を抑え、将軍直属の御家人衆の立場回復を狙ったのです。しかし御内人(得宗家直属の家臣)たちは一斉に反発、中でも内管領(御内人筆頭)で貞時の乳母夫でもある平頼綱は、泰盛と激しく対立していきます。
そして頼綱は「泰盛の息子が『我が曾祖父は、実は頼朝公の御落胤である。だから自分は源姓を称すべきだ』と言い触らしています。これは将軍になる野心の表れに違いありません」と讒言して貞時を焚き付け、安達氏討伐の下知を引き出させました。
弘安8年11月、貞時の命を受けた頼綱たち御内人は泰盛を誅殺。安達一族や泰盛派の御家人も多数殺され、その影響は鎌倉のみならず地方にも波及しました(霜月騒動)。以後御家人の勢力は完全に失墜、平頼綱は強大な権勢を振るいます。彼の政治の手法は極めて峻烈で、恐怖政治として人々に怖れられました。
一方、果断で気鋭な青年に成長した貞時は、自分なりの政治理念を志向し始めました。しかし頼綱が相変わらず専横を続けているため、徐々に彼のことを目障りに感じるようになっていきます。
永仁元年(1293)4月、ついに貞時は頼綱邸に討手を差し向けました。運が尽きた事を悟った頼綱は一族と共に自害(平禅門の乱)。23歳になっていた貞時は、ようやく自ら政治の実権を掌握する事ができたのでした。
◆霜月騒動と平禅門の乱
北条貞時は文永8年(1271)12月12日に出生しました。弘安7年(1284)父の時宗が亡くなり、彼は14歳で執権に就任します。
当時の幕府は元寇の恩賞問題や国防の強化など、問題が山積の状態。そのため若年の貞時に代わり、安達泰盛が幕政を主導しました。泰盛は貞時の母方の伯父で、時宗存命中より幕府内で大きな影響力を持っていた有力御家人です。
泰盛は、将軍権威の強化を図る政策を次々と打ち出しました。北条得宗家の専制を抑え、将軍直属の御家人衆の立場回復を狙ったのです。しかし御内人(得宗家直属の家臣)たちは一斉に反発、中でも内管領(御内人筆頭)で貞時の乳母夫でもある平頼綱は、泰盛と激しく対立していきます。
そして頼綱は「泰盛の息子が『我が曾祖父は、実は頼朝公の御落胤である。だから自分は源姓を称すべきだ』と言い触らしています。これは将軍になる野心の表れに違いありません」と讒言して貞時を焚き付け、安達氏討伐の下知を引き出させました。
弘安8年11月、貞時の命を受けた頼綱たち御内人は泰盛を誅殺。安達一族や泰盛派の御家人も多数殺され、その影響は鎌倉のみならず地方にも波及しました(霜月騒動)。以後御家人の勢力は完全に失墜、平頼綱は強大な権勢を振るいます。彼の政治の手法は極めて峻烈で、恐怖政治として人々に怖れられました。
一方、果断で気鋭な青年に成長した貞時は、自分なりの政治理念を志向し始めました。しかし頼綱が相変わらず専横を続けているため、徐々に彼のことを目障りに感じるようになっていきます。
永仁元年(1293)4月、ついに貞時は頼綱邸に討手を差し向けました。運が尽きた事を悟った頼綱は一族と共に自害(平禅門の乱)。23歳になっていた貞時は、ようやく自ら政治の実権を掌握する事ができたのでした。
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光源氏に例えられた桜梅少将 ー 平維盛
富士川の戦いの時にちょっと触れた、平維盛のことについてまとめてみました。
◆容姿端麗な貴公子
維盛の生年は諸説あるものの、一般的には保元3年(1158)生まれとされています。父の重盛は言うまでもなく平清盛の嫡男ですが、母は『尊卑文脈』によると「官女」とのみ記され、素性は不明です。
維盛は長男ですが、最初に叙任されたのが次男の資盛の方が先であることなどから、「維盛は元々重盛の庶長子で、後に嫡男として立てられた」という見方もあるようです(*1)。しかし以降の官位の昇進は維盛の方が早く、25歳で従三位・右近衛中将となり公卿に列せられています。
成長した維盛は、笛や舞を得意とする美しい青年になりました。
安元2年(1176)後白河法皇50歳の御賀の宴で、桜の一枝をかざしながら「青海波」を舞った時は、その姿を女房たちが「深山の桜梅(おうばい)のよう」と賞讃し、桜梅少将と呼ばれました。弟・資盛の恋人だった女性が後に綴った『建礼門院右京大夫集』でも、この宴での舞は「光源氏を思い起こさせた」と書かれてます。
また彼女は維盛のことを「容貌はもちろんながら、心配りにおいても際立っており、まるで春の桜のような素晴らしい人だった」と回想しています。
維盛は15歳で、後白河法皇の近臣・藤原成親の娘である新大納言局と結婚しました。成親の妹は重盛の正妻だったため、義理のいとこ同士の夫婦という事になります。
新大納言局は絶世の美人で、両親は入内させるつもりでしたが、彼女は「心に決めたお方がいますので」と拒否し、維盛と結ばれたと『源平盛衰記』には書かれています。当時では珍しい恋愛結婚ですよね。維盛は近寄ってくる女性たちと時には火遊びに及ぶ事もありましたが、生涯この妻を大事にしました(*2)。
こうして彼の前半生は、宮中でもてはやされ、家庭では愛する妻子に囲まれて、平家嫡流の御曹司として何不自由なく幸せに暮らしていたろうと想像します。
◆容姿端麗な貴公子
維盛の生年は諸説あるものの、一般的には保元3年(1158)生まれとされています。父の重盛は言うまでもなく平清盛の嫡男ですが、母は『尊卑文脈』によると「官女」とのみ記され、素性は不明です。
維盛は長男ですが、最初に叙任されたのが次男の資盛の方が先であることなどから、「維盛は元々重盛の庶長子で、後に嫡男として立てられた」という見方もあるようです(*1)。しかし以降の官位の昇進は維盛の方が早く、25歳で従三位・右近衛中将となり公卿に列せられています。
成長した維盛は、笛や舞を得意とする美しい青年になりました。
安元2年(1176)後白河法皇50歳の御賀の宴で、桜の一枝をかざしながら「青海波」を舞った時は、その姿を女房たちが「深山の桜梅(おうばい)のよう」と賞讃し、桜梅少将と呼ばれました。弟・資盛の恋人だった女性が後に綴った『建礼門院右京大夫集』でも、この宴での舞は「光源氏を思い起こさせた」と書かれてます。
また彼女は維盛のことを「容貌はもちろんながら、心配りにおいても際立っており、まるで春の桜のような素晴らしい人だった」と回想しています。
維盛は15歳で、後白河法皇の近臣・藤原成親の娘である新大納言局と結婚しました。成親の妹は重盛の正妻だったため、義理のいとこ同士の夫婦という事になります。
新大納言局は絶世の美人で、両親は入内させるつもりでしたが、彼女は「心に決めたお方がいますので」と拒否し、維盛と結ばれたと『源平盛衰記』には書かれています。当時では珍しい恋愛結婚ですよね。維盛は近寄ってくる女性たちと時には火遊びに及ぶ事もありましたが、生涯この妻を大事にしました(*2)。
こうして彼の前半生は、宮中でもてはやされ、家庭では愛する妻子に囲まれて、平家嫡流の御曹司として何不自由なく幸せに暮らしていたろうと想像します。
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権力者に翻弄された御曹司 ー 結城秀康
慶長12年(1607)の4月8日は、徳川家康の次男・結城秀康が亡くなった日にあたります。
この人は子供の頃から父に疎まれて、嫡男・信康亡き後の長子だったにも関わらず、家督を継げず不遇な生涯を送りました。色々なエピソードには事欠かない人物ですが、あれもこれも書くと長くなってしまうので、自分の推測を加えながら彼の複雑な境遇を簡単に紹介します。
◆祝福されなかった出生
結城秀康は天正2年(1574)2月8日に浜松で生まれました。母のお万は築山殿(家康の正室)の侍女、もしくは浜松城の御殿女房との二説があります。顔が「ギギ」という魚に似ているからと、於義丸と名づけられたといいます。
秀康が父に嫌われた理由の一つとして「お万は身持ちの悪い女で、家康は秀康が自分の子か疑念を持っていた」とよく言われますが、それよりも秀康が双子として生まれたのが大きかったのではと私は思います。
双子はかつて「畜生腹」と呼ばれ、母子ともに忌み嫌う迷信がありました。彼と同じく家康に疎んじられた弟の松平忠輝も双子で誕生した説があり、また家康が厄年の時に生まれた松平民部という人物は、実子と認められなかったといいます(秀康は後に民部を養子にしたそうです)
ただ出生場所が城内ではなく、城下の村であることから、やはりお万自身も家康にあまりよく思われてなかったんですかね…。なお秀康の双子の兄弟は死産だったとも、お万の実家でひそかに育てられ、永見貞愛と名乗り神主になったとも伝えられています。
於義丸はその後も城に入れず、家臣の本多重次の家で養育されました。不憫に思った信康の斡旋で3歳の時に父子対面を果たし、ようやく家康に認知されたそうです。
◆秀吉の養子に
天正12年、小牧・長久手の戦いの和睦が成立。家康は羽柴秀吉への人質として、11歳の於義丸を大坂に送ることにしました。家康は最初、異父弟の松平定勝を送る予定でしたが、母の於大の方が大反対。先年、定勝の兄・康俊が人質先の今川家から武田軍に強奪され、冬山を逃げて帰って来たものの凍傷で両足の指を失ったという事があり、「今度は定勝を人質に使うのですか!」と於大が憤るため、仕方なく於義丸に変更したのです。
当時の家康には於義丸の他にも、長松(後の秀忠)はじめ3人の息子がいました。しかし一番上の子である於義丸(信康は5年前に自刃)をあえて選んだのは、この時点で既に彼に徳川家を継がせる意思がなかったのだろうと感じます。
この人は子供の頃から父に疎まれて、嫡男・信康亡き後の長子だったにも関わらず、家督を継げず不遇な生涯を送りました。色々なエピソードには事欠かない人物ですが、あれもこれも書くと長くなってしまうので、自分の推測を加えながら彼の複雑な境遇を簡単に紹介します。
◆祝福されなかった出生
結城秀康は天正2年(1574)2月8日に浜松で生まれました。母のお万は築山殿(家康の正室)の侍女、もしくは浜松城の御殿女房との二説があります。顔が「ギギ」という魚に似ているからと、於義丸と名づけられたといいます。
秀康が父に嫌われた理由の一つとして「お万は身持ちの悪い女で、家康は秀康が自分の子か疑念を持っていた」とよく言われますが、それよりも秀康が双子として生まれたのが大きかったのではと私は思います。
双子はかつて「畜生腹」と呼ばれ、母子ともに忌み嫌う迷信がありました。彼と同じく家康に疎んじられた弟の松平忠輝も双子で誕生した説があり、また家康が厄年の時に生まれた松平民部という人物は、実子と認められなかったといいます(秀康は後に民部を養子にしたそうです)
ただ出生場所が城内ではなく、城下の村であることから、やはりお万自身も家康にあまりよく思われてなかったんですかね…。なお秀康の双子の兄弟は死産だったとも、お万の実家でひそかに育てられ、永見貞愛と名乗り神主になったとも伝えられています。
於義丸はその後も城に入れず、家臣の本多重次の家で養育されました。不憫に思った信康の斡旋で3歳の時に父子対面を果たし、ようやく家康に認知されたそうです。
◆秀吉の養子に
天正12年、小牧・長久手の戦いの和睦が成立。家康は羽柴秀吉への人質として、11歳の於義丸を大坂に送ることにしました。家康は最初、異父弟の松平定勝を送る予定でしたが、母の於大の方が大反対。先年、定勝の兄・康俊が人質先の今川家から武田軍に強奪され、冬山を逃げて帰って来たものの凍傷で両足の指を失ったという事があり、「今度は定勝を人質に使うのですか!」と於大が憤るため、仕方なく於義丸に変更したのです。
当時の家康には於義丸の他にも、長松(後の秀忠)はじめ3人の息子がいました。しかし一番上の子である於義丸(信康は5年前に自刃)をあえて選んだのは、この時点で既に彼に徳川家を継がせる意思がなかったのだろうと感じます。
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名奉行金さん御出座!ー 遠山景元
いまマツケン版の『遠山の金さん』放送してますね。見たことないんですが、マツケン金さんはどんなもんなの?キャラ的に暴れん坊将軍と被りそうにも思えるんだけど…。
そんな話はさておき、金さんのモデルとなった人物は正式名を遠山左衛門尉景元といい、安政2年(1855)2月29日に61歳で亡くなっています。実際の「金さん」はどんなお奉行さまだったのでしょうか。
◆トントン拍子の出世ぶり
景元は寛政5年(1793)8月23日生まれ。幼名は通之進、のちに金四郎を名乗りました。父は遠山景晋(かげくに)という旗本で、長崎奉行や勘定奉行などを歴任し、昌平黌時代は人材登用試験で首席だった程の秀才でした(ちなみにこの時、御家人の部で首席だったのが狂歌師の大田南畝(蜀山人)です)。
文政7年(1824)家督を継ぎ、その翌年から幕府に召し出されます。小納戸頭・作事奉行などを経て、天保11年(1840)ドラマでもお馴染みの北町奉行に就任しました。
町奉行といえば裁判官のイメージがありますが、現代でいうところの都知事・警視総監・税務署長・消防総監などを兼ねている超重要職でした。当然激務であり、お裁きは全体の任務の一部に過ぎなかったのです。
出仕の遅かった景元が異例の栄達を遂げたのは、本人の資質はもとより、天保の改革を主導した老中・水野忠邦の後押しがあったからです。水野の推進する風紀取締りも行いつつ、一方では上司と対立する事も厭いませんでした。
ある時芝居小屋が火元となった火事があり、水野は南町奉行・鳥居耀蔵の進言を受け、この機会に芝居を廃止しようとしました。しかし景元は敢然と反対し、浅草界隈への移転にとどめたため、芝居関係者は彼の計らいに厚く感謝したそうです。
この事がひとつの契機となり、遠山景元は下情に通じた名奉行、対して厳しい取締りで庶民に嫌われていた鳥居は悪役、という印象が広まりました。そして後に芝居や講談を通じて、ヒーロー・遠山の金さんに虚構化されていったのです。
◆刺青話の裏には家庭の事情が
さて金さんといえば「桜吹雪の刺青」がトレードマークですが、遠山景元も彫り物を入れていたのでしょうか?結論からいうと、どうも虚構の話と混乱されてる部分も多く、確かな証拠は残ってないようです。
では何故刺青の噂が出たのかというと、それは彼の複雑な家庭環境が遠因でした。
そんな話はさておき、金さんのモデルとなった人物は正式名を遠山左衛門尉景元といい、安政2年(1855)2月29日に61歳で亡くなっています。実際の「金さん」はどんなお奉行さまだったのでしょうか。
◆トントン拍子の出世ぶり
景元は寛政5年(1793)8月23日生まれ。幼名は通之進、のちに金四郎を名乗りました。父は遠山景晋(かげくに)という旗本で、長崎奉行や勘定奉行などを歴任し、昌平黌時代は人材登用試験で首席だった程の秀才でした(ちなみにこの時、御家人の部で首席だったのが狂歌師の大田南畝(蜀山人)です)。
文政7年(1824)家督を継ぎ、その翌年から幕府に召し出されます。小納戸頭・作事奉行などを経て、天保11年(1840)ドラマでもお馴染みの北町奉行に就任しました。
町奉行といえば裁判官のイメージがありますが、現代でいうところの都知事・警視総監・税務署長・消防総監などを兼ねている超重要職でした。当然激務であり、お裁きは全体の任務の一部に過ぎなかったのです。
出仕の遅かった景元が異例の栄達を遂げたのは、本人の資質はもとより、天保の改革を主導した老中・水野忠邦の後押しがあったからです。水野の推進する風紀取締りも行いつつ、一方では上司と対立する事も厭いませんでした。
ある時芝居小屋が火元となった火事があり、水野は南町奉行・鳥居耀蔵の進言を受け、この機会に芝居を廃止しようとしました。しかし景元は敢然と反対し、浅草界隈への移転にとどめたため、芝居関係者は彼の計らいに厚く感謝したそうです。
この事がひとつの契機となり、遠山景元は下情に通じた名奉行、対して厳しい取締りで庶民に嫌われていた鳥居は悪役、という印象が広まりました。そして後に芝居や講談を通じて、ヒーロー・遠山の金さんに虚構化されていったのです。
◆刺青話の裏には家庭の事情が
さて金さんといえば「桜吹雪の刺青」がトレードマークですが、遠山景元も彫り物を入れていたのでしょうか?結論からいうと、どうも虚構の話と混乱されてる部分も多く、確かな証拠は残ってないようです。
では何故刺青の噂が出たのかというと、それは彼の複雑な家庭環境が遠因でした。
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- 江戸時代
父の遺訓を守って ー 楠木正行
南北朝時代の正平3年/貞和4年(1348)1月5日、河内国四條畷で、北朝方と南朝方による激戦が行われました。いわゆる「四条畷の戦い」です。
北朝方の大将は足利尊氏の腹心・高師直、対する南朝方を率いていたのは楠木正成の嫡男・正行(まさつら)。南朝方はこの戦いの前まで勢力を盛り返しかけていましたが、結果は圧倒的な兵力差により惨敗。正行をはじめ多くの武将が討死しました。
今日は、父の遺志を継ぎ南朝の守護に人生を捧げ、若くして散った「小楠公」楠木正行を取り上げます。(主に『太平記』の記述に寄っていますが、あの本は史実と脚色が入り混じっていると言われてるので、それを念頭にお読み下さい)
◆父親と永遠の別れ
正行の生年ははっきりしていませんが、『太平記』に父の正成が戦死した時で11歳という記載があるため、嘉暦元年(1326)生まれとされている事が多いようです。
延元元年/建武3年(1336)5月、正行は兵庫へ出陣する父に同行します。しかし摂津桜井の駅で、正成より「わしはおそらく生きて戻れないだろう。天下の権は足利尊氏が握るだろうが、お前は一族もろとも朝廷に尽くせ」と後事を託され、河内赤坂に帰国しました。
正成の首級は京で晒された後、尊氏の計らいで楠木の館へ送り届けられました。それを見た正行はショックのあまり仏間へ向かい、父の形見の短刀で自害しようとしますが、寸前の所で母・久子に制止されます。
「父上が途中でそなたを帰したのは、何のためだったのかわからぬのか!あの時『楠木の一族郎党を率いて、朝廷の為に戦え』と言い残されたのでしょう?」と母に論され、我に返った正行は以後、文武に励んだと伝えられています。
この「桜井の別れ」のエピソードは、太平記の作者の創作という説もあります。でもたとえ場所や内容が異なるとしても、正成が何らかの遺言を息子に残した可能性は高いのではないかと、私個人的には思っています。
◆南朝期待の若き武将
それから約10年の月日が流れ、成長した正行率いる楠木勢は本拠地の河内で力を蓄え、いよいよ本格的な活動を開始します。
正平2年/貞和3年(1347)8月、紀伊の隅田党を攻め、翌月河内国八尾城を攻略し、藤井寺では足利方の細川顕氏勢を撃破。幕府は山名時氏を援軍として使わしますが、正行は天王寺・住吉にてこの連合軍をも破り、南朝側の気勢は大いに上がりました。
この戦いで彼は、敗走する際に橋から落ちて溺れる敵兵を救助し、衣服や馬を与え送り帰してやりました。正行の恩義に報いようと、後の戦いで楠木勢として参戦した者が多かったーという話が残っています。
北朝方の大将は足利尊氏の腹心・高師直、対する南朝方を率いていたのは楠木正成の嫡男・正行(まさつら)。南朝方はこの戦いの前まで勢力を盛り返しかけていましたが、結果は圧倒的な兵力差により惨敗。正行をはじめ多くの武将が討死しました。
今日は、父の遺志を継ぎ南朝の守護に人生を捧げ、若くして散った「小楠公」楠木正行を取り上げます。(主に『太平記』の記述に寄っていますが、あの本は史実と脚色が入り混じっていると言われてるので、それを念頭にお読み下さい)
◆父親と永遠の別れ
正行の生年ははっきりしていませんが、『太平記』に父の正成が戦死した時で11歳という記載があるため、嘉暦元年(1326)生まれとされている事が多いようです。
延元元年/建武3年(1336)5月、正行は兵庫へ出陣する父に同行します。しかし摂津桜井の駅で、正成より「わしはおそらく生きて戻れないだろう。天下の権は足利尊氏が握るだろうが、お前は一族もろとも朝廷に尽くせ」と後事を託され、河内赤坂に帰国しました。
正成の首級は京で晒された後、尊氏の計らいで楠木の館へ送り届けられました。それを見た正行はショックのあまり仏間へ向かい、父の形見の短刀で自害しようとしますが、寸前の所で母・久子に制止されます。
「父上が途中でそなたを帰したのは、何のためだったのかわからぬのか!あの時『楠木の一族郎党を率いて、朝廷の為に戦え』と言い残されたのでしょう?」と母に論され、我に返った正行は以後、文武に励んだと伝えられています。
この「桜井の別れ」のエピソードは、太平記の作者の創作という説もあります。でもたとえ場所や内容が異なるとしても、正成が何らかの遺言を息子に残した可能性は高いのではないかと、私個人的には思っています。
◆南朝期待の若き武将
それから約10年の月日が流れ、成長した正行率いる楠木勢は本拠地の河内で力を蓄え、いよいよ本格的な活動を開始します。
正平2年/貞和3年(1347)8月、紀伊の隅田党を攻め、翌月河内国八尾城を攻略し、藤井寺では足利方の細川顕氏勢を撃破。幕府は山名時氏を援軍として使わしますが、正行は天王寺・住吉にてこの連合軍をも破り、南朝側の気勢は大いに上がりました。
この戦いで彼は、敗走する際に橋から落ちて溺れる敵兵を救助し、衣服や馬を与え送り帰してやりました。正行の恩義に報いようと、後の戦いで楠木勢として参戦した者が多かったーという話が残っています。
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駿河大納言の乱心 ー 徳川忠長
寛永10年(1633)の12月6日、3代将軍徳川家光の実弟である忠長が、幽閉先で自害しました。
彼は乱行が募って父や兄に疎まれ、大逆非道の罪で改易・蟄居処分となり、自刃して果てたのでした。幼い頃は利発な若君と評判だったのに、何故自滅の道を歩んでしまったのでしょうか。
◆両親に愛された弟
忠長は慶長11年(1606)、2代将軍の徳川秀忠と正室・お江与(崇源院)の3男として出生しました。家光より2歳年下で、幼名は国松(または国千代)と言います。
秀忠夫婦は病弱でおっとりした性格の竹千代(家光)より、才気煥発で容姿も優れていた国松を可愛がったため、見かねた家康が嫡庶の別を正すように示唆したといわれています(竹千代の乳母・春日局が家康に実情を訴えたという話も)。城内の者たちも、将軍夫妻の愛情深い国松を「もしや次期将軍は国松君では」と考えチヤホヤしていたようで、蔑ろにされた竹千代の屈辱感は後々まで尾を引くことになります。
またドラマ等ではよく「竹千代を春日局に取られたと感じたお江与が、せめて国松だけはと自分の手元で育てた」となってますが、当時の上流階級の女性が自分で子育てをする事はまずありえません。国松の乳母は、秀忠の側近・土井利勝の妹がつとめていたそうです。
◆栄華と転落の軌跡
成長した忠長は元和4年(1618)甲斐20万石を拝領し、元和9年に織田信雄(信長の次男)の孫娘を妻に迎えました。寛永元年(1624)駿河・遠江に転封し55万石を領し、2年後には権大納言に叙任され通称「駿河大納言」と呼ばれるようになります。
御三家をも凌ぐ待遇を得た忠長は、領国経営に勤しみます。寛永3年(1626)将軍家光が上洛する際、渡渉の不便を解消すべく大井川に舟橋を架けたり、城下町の再開発を図ったりしました。
同年、後水尾天皇の二条行幸の随行のため上洛している際、崇源院の訃報に接しました。自分を溺愛してくれた母を失った現実は、やがて忠長の心を深く蝕んでいくことになります。
彼は乱行が募って父や兄に疎まれ、大逆非道の罪で改易・蟄居処分となり、自刃して果てたのでした。幼い頃は利発な若君と評判だったのに、何故自滅の道を歩んでしまったのでしょうか。
◆両親に愛された弟
忠長は慶長11年(1606)、2代将軍の徳川秀忠と正室・お江与(崇源院)の3男として出生しました。家光より2歳年下で、幼名は国松(または国千代)と言います。
秀忠夫婦は病弱でおっとりした性格の竹千代(家光)より、才気煥発で容姿も優れていた国松を可愛がったため、見かねた家康が嫡庶の別を正すように示唆したといわれています(竹千代の乳母・春日局が家康に実情を訴えたという話も)。城内の者たちも、将軍夫妻の愛情深い国松を「もしや次期将軍は国松君では」と考えチヤホヤしていたようで、蔑ろにされた竹千代の屈辱感は後々まで尾を引くことになります。
またドラマ等ではよく「竹千代を春日局に取られたと感じたお江与が、せめて国松だけはと自分の手元で育てた」となってますが、当時の上流階級の女性が自分で子育てをする事はまずありえません。国松の乳母は、秀忠の側近・土井利勝の妹がつとめていたそうです。
◆栄華と転落の軌跡
成長した忠長は元和4年(1618)甲斐20万石を拝領し、元和9年に織田信雄(信長の次男)の孫娘を妻に迎えました。寛永元年(1624)駿河・遠江に転封し55万石を領し、2年後には権大納言に叙任され通称「駿河大納言」と呼ばれるようになります。
御三家をも凌ぐ待遇を得た忠長は、領国経営に勤しみます。寛永3年(1626)将軍家光が上洛する際、渡渉の不便を解消すべく大井川に舟橋を架けたり、城下町の再開発を図ったりしました。
同年、後水尾天皇の二条行幸の随行のため上洛している際、崇源院の訃報に接しました。自分を溺愛してくれた母を失った現実は、やがて忠長の心を深く蝕んでいくことになります。
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