Cafe Japanesque

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上杉謙信の養子たち(2)~その他の人々

<前回の記事(1)はこちらへ>

◆謎多き人物・上条政繁(生没年不詳)
正確な生年は不詳ですが、景勝・景虎よりはやや(10歳くらい?)年長だったようです。
政繁は能登守護の畠山氏出身の人物で、人質として越後に来て謙信の養子となり、上杉氏の一門である上条(じょうじょう)家を継いで、謙信の姪(景勝の姉妹/景虎に嫁いだ女性とは別人)を娶りました(*1)。後に出家して宜順と号しています。
・・・というのが彼の経歴の定説ですが、越後に来た経緯や謙信の養子になった時期については諸説あり、中には政繁の謙信養子説を疑問視する見方もあるようです。また彼は、近年まで後述の畠山義春と同一人物とされていた(政繁が改名し義春と名乗ったと思われていた)ため、政繁自身の事蹟がわかりにくくなっている部分もあるのです。

天正3年(1575)の上杉家臣団の構成を記した「御軍役帳」では、景勝・山浦国清(後述)・上杉景信(古志長尾家当主)に継いで、政繁は第四位に名を連ねており(景虎は記載無し)、一門中で重く見られていた事がわかります。
天正6年に起こった御館の乱では、景勝方に味方し武功を挙げました。乱後も景勝の重臣として仕えましたが、天正14年(1586)7月に突如、妻子を置いて単身出奔してしまいました。理由については、信濃国の統治を巡って景勝と対立したとも、景勝側近として台頭してきた直江兼続との間に軋轢が生じた結果とも言われています。

その後政繁は上方に出て秀吉に仕えたと伝えられていますが、これ以降の記録は前述の通り畠山義春と混同されている可能性が高いため、政繁がいつまで活動・存命していたかははっきりわかっていません。
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上杉謙信の養子たち(1)~北条から来た男

◆越後にやって来るまで
上杉景虎は、相模の虎と呼ばれた名将・北条氏康の七男(一説に八男)。正確な生年は判明してませんが、一般的な書籍等では天文23年(1554)生という記載がよく見られます。もしこの説が正しければ、後にライバルとなる上杉景勝より一つ年上ということになります。
彼の幼少期については、「箱根早雲寺で喝食を勤め、その後北条氏が三国同盟を結んでいた武田信玄の養子となり三郎と称するも、同盟の破綻によって北条に戻った」ーーという話が従来は有名でした。
しかし当の武田側の同時代史料に、三郎が信玄の養子となった話が全く記されていないという事実が、長塚孝氏や黒田基樹氏の研究で明らかにされました。そのため最近ではこの説に否定的な見解も多く、少年時代のことははっきりわかっていません。

確実と思われる記録上に三郎が登場するのは、永禄12年(1569)末に一族の北条幻庵の養子となった時のことです。幻庵は氏康の叔父にあたり、北条氏の長老的存在でした。二人の息子が武田との合戦で討死してしまったので、三郎を婿養子に迎え入れて後継者と定めたのです。
ところがそれから半年も経たない翌年の4月、三郎の姿は相模から遠く離れた越後春日山城にありました。

武田との同盟を破棄した氏康は、越後の上杉謙信と結んで信玄に対抗する手段を取りました。そして同盟の証に、実子のいない謙信の養子として北条方から三郎が送り込まれることに決定したのです。
当初は、三郎の長兄である氏政の次男・国増丸(後の太田源五郎)が候補に挙っていましたが、「幼子を手放すのは忍びない」との氏政の懇願により、三郎に変更されたと言われています。近年の櫻井真理子氏の研究では、もし北条が武田から攻め込まれた時に、幼い国増丸よりもある程度の年齢に達している者の方が謙信への援軍依頼が取り次げるとして、三郎に白羽の矢が立ったのではという見方もあります。
23:25 | Trackback : 0 | Comment : 3 | Top

東京の化物屋敷

昭和2年(1927)の東京。深川・門前仲町の電車通りに面したある土地で、家屋の建築工事が始まりました。
着工から数年が経過し、建物はとうに完成しているように見えますが、いつまで経っても工事は続けられています。それどころか、とても普通の人間が住める家とは思えないような、奇怪な外見を露にし始めたのです。
やがて近隣住民たちは、あまりの異様さにこの家を「牢屋」「化物屋敷」などと呼ぶようになりました。

◆理解不能な建築
その「化物屋敷」は、どれだけ変ちくりんな建物だったかといいますと。

・不気味な玄関ホール…二階まで吹抜けになっているが照明はなし
  人の手の届かない高さに、帽子等を掛ける金具が大量に打ち付けられていた
・奇妙な床の間…傾斜のついた違い棚&ナイアガラの滝の写真を貼っていた
・使えない押入れ…奥行が30cmしかなく、何も入らない
・変わった素材の壁…虫除けと称し、壁に黒砂糖と除虫菊の粉末を塗り込んでいた
・行き先のない梯子…土蔵の床から天井まで垂直に取り付けられている
・和洋合体風呂…西洋式バスタブと五右衛門風呂を並べている(洗い場はなし)
・恥ずかしい便所…扉が下半分のみ、しかも全ての部屋から丸見えの状態
・のぞき窓?…板壁をくり抜いてガラスをはめ込んだ節穴が無数にあった

・・・等々、他にも例を挙げていけば書ききれないほど。見た目にも実用的にも、何の意味があるのかわからない迷宮のような構造だったそうです。
さてこの化物屋敷、何年もダラダラと増改築が続けられていましたが、昭和11年にある事情で邸の主人が不在となり、その時点で建築は中絶。そして2年後にはあっけなく取り壊されてしまいました。
未完に終わったものの、日本の建築史上でかつて類のないものであったこの邸は、「二笑亭」の通称で伝説的な存在となっています。

二笑亭 二笑亭の表玄関。
Tag : 昭和時代 
22:35 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

中先代の乱(3)~その後の北条時行

<前回の記事はこちら→(1)(2)

◆南朝への帰順
北条時行の名が次に歴史上に現れるのは、中先代の乱から2年経った延元2年(1337)7月のことです。
『太平記』によると、時行は吉野の後醍醐天皇のもとに使者を送り、南朝への帰順を願い出ました。
「我が父・高時は先年滅亡しましたが、それは臣たる道をわきまえなかった結果なので、私は帝を少しもお恨みしておりませぬ。足利尊氏や新田義貞も、勅命により行動したのですから、北条に刃を向けた件について憤りはありません。しかし尊氏は、いまや朝敵であります。そもそも彼が現在の地位にあるのは、北条が足利家を優遇したからこそ。なのに尊氏はその恩を忘れている上、今また帝に背くという大罪を犯しています。故に我ら一族は、今後は足利兄弟のみを敵としようと決意いたしました。私は不忠の父の子ですが、御赦しの綸旨を賜われば、帝の臣下として喜んで働く所存です。」
書状の内容を伝え聞いた後醍醐天皇は、朝敵恩赦の綸旨を下すことを認めた―とあります。

この頃の時行はまだせいぜい11~12歳の少年(*1)なので、書かれている内容はおそらく本人の意思というよりも、側近たちの差し金なのでしょう。朝廷や新田氏を全く恨んでなかったとは思えませんが、足利尊氏こそが最も許し難い存在であるという件には、時行一党の本音が含まれているのではと感じます。

◆足利方との戦い
正式に南朝の武将となった時行は、京都奪回のため奥州から西上してきた鎮守府将軍・北畠顕家の軍に加わりました。北畠軍は怒濤の勢いで進撃し、翌年1月の美濃青野原(後の関ヶ原)の戦いで足利軍に勝利。ところが京を目前にしながら、顕家は進路を伊勢に変更しました。長い遠征で兵力が減少・疲弊していたためとも、援軍を命じられた新田義貞に功を奪われるのを顕家が嫌ったとも言われています。
北畠軍の運命は暗転し、伊勢から伊賀、大和へと軍を進めたものの、形勢はジリ貧となっていきます。そして5月、和泉堺浦で高師直率いる大軍に敗れ、顕家は21歳で戦死しました。しかし時行は辛うじて追手を逃れます。

2年後の暦応3年/興国元年(1340)6月、時行は諏訪頼継(頼重の孫)ら旧臣と共に、信濃伊那の大徳王寺城で兵を挙げました。しかし間もなく信濃守護・小笠原貞宗の軍に城を包囲され、4ヶ月後の10月23日に大徳王寺城は落城(*2)。時行はまたもや潜伏を強いられることとなるのです。
22:19 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top

中先代の乱(2)~20日間の統治者

<前回の記事(1)はこちらへ>

◆鎌倉へ進軍
西園寺公宗の陰謀事件が発覚した翌月の建武2年(1335)7月。北条時行を大将に押立てた諏訪、滋野、三浦氏などによる軍が、信濃で挙兵しました。京での計画が頓挫しようが、最早後に引く訳にはいかなかったのでしょう。
7月14日、時行軍は青沼において信濃守護・小笠原貞宗と戦い、近隣の支持勢力を糾合しつつ武蔵へと入り、たちまちのうちに鎌倉へ迫りました。『太平記』では兵の数五万余騎と伝えており、誇張があるとしても軍勢は相当数に膨れ上がっていたようです。

当時鎌倉は、足利尊氏の弟・直義が管轄していました。彼はただちに鎮定軍を差し向けますが大敗を喫し、渋川義季(直義の義弟)・小山秀朝らの有力武将を失ってしまいます。やむを得ず直義自ら出陣するものの再度撃破され、ついに一旦鎌倉から撤退することを余儀なくされました。
この時鎌倉では、後醍醐天皇の皇子・護良親王が、皇位簒奪を企てたという疑いをかけられ寺に幽閉されていました。直義は親王が時行軍の手に渡ってしまう事を警戒し、退却直前に家臣を使わし親王を斬ってしまいました。

◆つかの間の勝利
7月25日、時行は鎌倉へ入りました。父の高時を始めとする一族が炎の中で命を絶って以来、2年2ヶ月ぶりの帰還です。早速この父祖代々の故地で、北条氏政権の復活が宣言されました。
8月12日、時行の奉行人が連署した文書に、建武ではなく「正慶4年」という年号が記載されています(「南北朝史100話」)。正慶とは、かつて鎌倉幕府が後醍醐天皇を隠岐に流し光厳天皇を擁立した時に使用していた年号で、建武新政以前への回帰を示しています。

三河まで退いた直義から報せを受け取った尊氏は、直ちに時行軍征伐の許可を後醍醐天皇に願い出ます。同時に彼は「征夷大将軍と総追捕使への任官」を奏請しますが、武家政権樹立という尊氏の野望を察した天皇は、要請を一切拒否しました。
8月2日、尊氏は天皇の許しを得られぬまま、独断で出発します。直義軍と合流し、8月9日に遠江での戦いに勝利したのを皮切りに、その10日後にはあっさり鎌倉の奪回に成功。北条氏再興を謳った反乱軍が鎌倉を占領したのは、わずか20日ほどのことでした。

諏訪頼重ら時行軍の中心武将43名は、勝長寿院で自刃して果てました。遺骸はみな顔の皮を剥いであったため、誰が誰だか見分けがつかず、話を聞いた人々は「おそらく北条時行も一緒に自害したのだろう、かわいそうに」と哀れんだといいます。しかしこれは、時行を無事に逃すために、彼がここで死んだと見せかける策略でした。
23:43 | Trackback : 0 | Comment : 4 | Top

中先代の乱(1)~勃発までの経緯

建武2年(1335)7月に起こった中先代の乱は、北条時行(高時の遺児)を擁立した北条家遺臣による反乱です。中先代とは、北条氏を先代の支配者、足利氏を当代とすると、その間に一時的ではあるものの時行が鎌倉を制圧したことから呼ばれました。
乱そのものは20日ほどで鎮圧されましたが、この戦いにより二つの重要な事件が誘発され、以降の南北朝動乱の流れに大きな影響を与えたのです。

◆父と兄との別れ
元弘3年/正慶2年(1333)の5月28日、新田義貞率いる大軍に総攻撃を受け、北条一族数百名は東勝寺で自害しましたが、高時の2人の息子・邦時と亀寿丸はひそかに鎌倉を脱出します。兄の邦時は、母方の伯父である五大院宗繁に託されましたが、宗繁が裏切って新田軍に密告したため捕えられ、わずか9歳で処刑されてしまいました。
いっぽう亀寿丸は、高時の弟・北条泰家の計らいで、家臣の諏訪盛高に護られ無事に信濃へ落ち延びました。信濃は北条氏が代々守護として支配した国であり、また諏訪社の神官である諏訪氏は北条譜代の家臣だったのです。当主の諏訪頼重に匿われた亀寿丸はこの地で元服し、相模次郎時行と名乗りました。

◆相次ぐ北条残党の反乱
鎌倉幕府滅亡後も、北条氏の一族・旧臣は断続的に各地で兵を挙げ、新政権への反抗を試みていました。
ひとつずつ詳細を書くと長くなるため、乱の起こった場所と年月、主な首謀者のみ記しておきます。

・奥州北部(1333年冬~1335年1月) 名越時如、安達高景
・南関東(1334年3月、8月) 3月=渋谷氏、本間氏 8月=葛西氏、江戸氏
・北九州(1334年1月~7月) 規矩(きく)高政、糸田貞義
・日向(1334年7月) 遠江掃部助三郎、同四郎
・越後(1334年7月) 小泉持長、大河将長
・紀州(1334年10月~1335年1月) 六十谷(むそだに)定尚
・長門(1335年1月) 北条上野四郎
・伊予(1335年2月~5月) 赤橋重時

これらの挙兵には、北条一族・家人の他に地元の豪族も参加している場合があり、建武の新政への強い不満が読み取れます。特に奥州・紀州・北九州はかなりの規模の反乱でしたが(紀州では楠木正成が討伐に赴いている)、結局全て鎮圧されています。
18:32 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top

阿部一族の悲劇の真相

森鴎外が大正2年(1913)に発表した『阿部一族』は、封建社会における「殉死」を描いた傑作として広く知られています。鴎外が「歴史其儘(そのまま)」と位置づけた、できる限り史料に沿った記述内容と、ルポルタージュを思わせるような抑えた筆致により、この小説に書かれた内容が史実と認識している方も多いと思います。
いわゆる「阿部騒動」は本当に起こった事件ではありますが、小説と事実とは少し異なる部分があるのはあまり知られていないようです。

『阿部一族』のあらすじを一応紹介しておくと
 ―肥後藩主・細川忠利の死に際して、重臣の阿部弥一右衛門は殉死を願い出るが、彼を煙たがっていた忠利は許可せずに息を引き取った。周囲から卑怯者呼ばわりされた弥一右衛門は、生き恥を晒すわけにいかないと切腹したが、殉死でなく犬死と見なされて遺族は差別的な扱いを受ける。屈辱に耐えかねた阿部一族が取った行動は― という物語です。

鴎外が執筆の参考とした史料は『阿部茶事談』という書物で、作中にも登場する阿部家の隣人だった栖本(小説では柄本)又七郎が著者とされています。しかし後に、この本が書かれたのは事件から80~100年後と推定される事がわかりました。当然ながら一次史料としては扱えず、さらに藤本千鶴子氏・山本博文氏などの研究によって、かなりの脚色部分があると判明したのです。
まず阿部弥一右衛門の死に関して。

・弥一右衛門は後追いではなく、他の殉死者の大多数と同じ日に切腹した
・殉死希望者は、忠利ではなく先君の逝去後に跡継の光尚に願い出た
・実は弥一右衛門以外の殉死者も、光尚から殉死の許可を得られなかった

これらは、肥後藩の政務日誌『日帳』に記載されているそうです。新当主の光尚は、殉死は一切禁ずる旨を通達しました。しかし弥一右衛門を含む希望者一同は、君命を守らず切腹したのです。
彼らを止められなかった藩側にも責任はあるとされたのか、殉死者たちの「罪」は黙認のような形になり、子孫への相続も許されました。無論、阿部家のみが特別差別的な扱いを受けた訳ではなかったのです。その後、嫡男の権兵衛を始めとする一族が滅亡へ追い込まれたのは、光尚体制下の新勢力との対立に巻き込まれたのではと考えられており、弥一右衛門の死とはほぼ関係ないようです。
藤本氏によると、弥一右衛門はもともと豊前の惣庄屋の出身で、才覚を見込まれて忠利に抜擢され、千石の高禄を与えられた人物だそうです。もしかすると細川家の譜代の家臣たちの間に、弥一右衛門に対し「農民上がりのくせに…」的な侮蔑と妬みの感情があり、その憎しみが彼の子息の排斥に繋がったのかもしれませんね。

熊本の細川忠利の霊廟の周りには、この時の殉死者19名の墓があり、その中には阿部弥一右衛門の墓も含まれています。鴎外も作中で「上(かみ)では弥一右衛門の遺骸を霊屋のかたわらに葬ることを許したのであるから」とこの事実には触れているのですが、小説の通り弥一右衛門が「主君に嫌われてたくせに、勝手に切腹した不届き者」であるなら、忠利の傍らに葬られるのを許されるのはよく考えれば不自然ですよね。

ちょっと揚げ足取りのようにもなってしまいましたが、多少事実と異なるからといって『阿部一族』の文学的な価値が減ずるわけではもちろんありません!
ちなみに江戸幕府が公式に殉死の禁を制定したのは、弥一右衛門の死から20数年経った寛文3年(1663)のことでした。

・参考書籍=「殉死の構造」

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鎌倉公方と関東管領

前回の上杉憲実の記事で、補足として鎌倉公方と関東管領についても説明したかったんですが、長くなってしまうので独立させて記事を書いてみました。

鎌倉(関東)公方とは、室町幕府が関東統治のために置いた出先機関・鎌倉府の長官のことを指し、関八州に甲斐・伊豆を併せた十ヶ国を管轄する役割を負っていました。足利義詮の弟・基氏を初代とし、その後は彼の子孫が世襲しています。そして鎌倉公方の補佐役である関東管領は、初期を除いて上杉氏が代々就任しました。

◆本来の名称
最初、鎌倉府長官は「関東管領」、補佐役のことは「関東執事」と呼ばれていました。
足利持氏が、自分は京の将軍と同格であるとして「公方」と自称し始め、それに伴って関東執事も「関東管領」に呼び方が昇格?した・・・と言われてます*が、これはあくまで鎌倉方での名称で、幕府で正式に認められたものではありませんでした。しかし足利成氏(持氏の子)の時代になると、現状追認なのか「(関東)公方」の名乗りが許されるようになったようです。
(*=関東公方・関東管領の名称は、初代の基氏の時から既に使われていた説もあります)
いちいち使い分けてもややこしくなるので、この記事では以下「鎌倉公方・関東管領」で統一します。

◆将軍家との対立
康暦元年(1379)、室町幕府の管領・細川頼之が失脚したクーデター「康暦の政変」が起こりました。当時の鎌倉公方だった基氏の息子・氏満は、幕府内のドサクサに紛れて挙兵し将軍・義満を討とうと決意。関東管領の上杉憲春は必死で止めますが氏満は聞かず、ついに憲春は諫死して果てます。衝撃を受けた氏満は企てを断念、将軍に対し野心はない旨の書状を義満に送り、幕府と鎌倉府の衝突は回避されたのでした。

20年後の応永6年(1399)周防の守護大名の大内義弘が幕府に対して大規模な叛乱(応永の乱)を起こしますが、義弘と密かに結託していたのが、氏満の子である満兼でした。この時も関東管領・上杉朝宗に諫止されたものの、満兼はそれを振り切って自ら出陣。しかし途中で義弘の敗死を耳にして、やむなく引き返したのでした。そして永享の乱を引き起こした持氏は、この満兼の嫡男にあたります。

こういう訳で、鎌倉公方と京の将軍家は常に緊張関係にありました。彼らの中には「自分たちも尊氏公の子孫なのに、なぜ将軍家より一段下の地位に甘んじないといけないのか」という思いがあったのでしょう。仮に憲実が持氏の反抗をどうにか抑え込んだとしても、いずれは幕府と鎌倉府の直接対決は避けられなかったと思われます。
19:43 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

肖像画の謎ふたたび

以前、いわゆる「神護寺三像」について書いたことがあったんですが、最近同像に関する通説肯定派の方のエッセイを読み、また興味が湧いてきたのでまとめてみようかと思ったんだけど…少し調べてみたものの、ちょっと問題が複雑過ぎて私の手には負えんと悟りました(^^; そこで、同様に最近議論されている高野山所蔵の武田信玄の肖像画について触れてみます。

高野山には2種類の信玄像が現存しますが、問題になっているのは成慶院蔵のもの。作者は、能登国出身で安土桃山期に活躍した大物絵師・長谷川等伯。制作年は信玄の晩年である元亀3年(1572)頃と推定されています。
しかし近年「この画像の主は信玄ではない」という説が出て来ました。最初に疑義を呈したのは歴史学者の藤本正行氏。根拠として

・腰刀の家紋が「武田菱」でなく「二引両」(足利氏の家紋)である。
・信玄は39歳で出家しているのに、剃髪しておらず髷がある姿で描かれている。
・長谷川等伯がこの時期、能登を出国した形跡が伺えない。
・信玄は労咳または癌で死んだとされてるが、その割にふっくらし過ぎで不自然。

などの理由を挙げています。そして研究の結果、本来の像主は能登の守護大名・畠山義続であるという説が発表されました。畠山氏は足利一門で、二引両の使用を許されていたのです。

この肖像画が信玄像と見なされていたのは、天正4年(1576)武田勝頼が成慶院に送った書状に、信玄の肖像画と遺品を寄進し法要を依頼した内容が記載されていた事が最大の証拠でした。ところが藤本氏の調査によると、後に武田勝信(勝頼の弟・信清の子)が、肖像画と遺品の貸出を成慶院に願い出、その返状に「信玄公御寿像・逍遥軒筆」と注記がついていたというのです。
逍遥軒とは、信玄や信繁の同母弟である武田信廉のこと。画才に優れ、父の信虎や母の大井夫人の肖像を描いていることで知られています。また一説には、高野山持明院に所蔵されている別の信玄の肖像画(上から2番目のもの)も逍遥軒作と言われています。
この記録により、勝頼が成慶院に奉納した信玄肖像画は逍遥軒作であると藤本氏は確信し、絵の行方を調査。結果、世田谷の九品仏浄真寺所蔵の「吉良頼康像」が、実はくだんの信玄像であると結論付けられました。鎧をまとった壮年期の像で、兜の吹き返しに武田菱があり、また脚絆が信玄が愛用したものと似てるのだそうです。
23:44 | Trackback : 0 | Comment : 4 | Top

島津家と将軍家の婚姻(2)~広大院茂姫

<前回の記事(1)はこちらへ>

竹姫が亡くなった翌年の安永2年(1773)、島津重豪に娘が誕生します。幼名お篤、のち茂姫と名付けられました。同年、御三卿の一橋家にも長男の豊千代が生まれ、竹姫の遺言に基づいて3年後に両者の縁組が整いました。ところが婚約成立後に、豊千代の運命は思いがけずも急転します。
安永8年、10代将軍・家治の嫡男である家基が死去。家治には他に子がなかったため、豊千代が将軍の世嗣になることが決定したのです。
天明元年(1781)豊千代は正式に家治の養君となり、江戸城に入って名を家斉と改めました。それに伴い婚約者の茂姫も一橋家に引き取られ、さらに大奥に入って将来の御台所としての教育を施されて育ちました。

天明6年、家治が逝去して家斉は14歳で将軍に就任。茂姫の実父・重豪は近い将来に将軍の舅の立場を約束されることとなりました。しかし幕府内や他大名の中には、この縁組を苦々しく感じてる者も少なくありませんでした。家光以降代々、将軍の正室は摂家または宮家から迎えており、外様大名の島津家から御台所が出るなど言語道断というわけです。
こうした空気を察知した重豪は「この縁組は浄岸院様のご遺言により、亡き上様(家治)の仰せで決まったものです。しかし御縁女様(茂姫)に養女のお取扱が必要ならば、ぜひ当家と由緒の深い近衛殿の所にしていただけないでしょうか」と幕府に申し出、また自らは隠居して息子に藩主の座を譲ることにしました。
こうして茂姫は近衛家の養女となり、近衛寔子(ただこ)と改名します。そして寛政元年(1789)にめでたく家斉との婚儀が取り行われました。
22:06 | Trackback : 0 | Comment : 4 | Top

島津家と将軍家の婚姻(1)~浄岸院竹姫

竹姫は5代将軍・徳川綱吉の側室「大典侍(おおすけ)の局」の姪にあたります。大典侍の局は公家の清閑寺家の出で、大奥へ招かれて上臈となり、やがて綱吉の寵愛を受け側室になった人です。しかし子に恵まれなかったため、幼くして父を亡くした竹姫を江戸に迎え養女としました。将軍の側室が養子をとるのは異例の事態でしたが、一人娘の鶴姫に先立たれていた綱吉は竹姫をかわいがったと言います。
江戸城に入って間もなくの宝永5年(1708)、竹姫は会津藩主松平正容の嫡子・久千代との縁組が整いました。ところが久千代は同年12月に死去し、さらに2年後には有栖川宮正仁親王と婚約が成立したものの享保元年(1716)親王が没してしまい、彼女の輿入はまたも叶いませんでした。

正仁親王が亡くなったのと同じ年、徳川吉宗が8代将軍に就任しました。
彼は大奥の縮小を図っていたこともあり、竹姫を改めて自分の養女にして婚家を探しますが、新たな嫁ぎ先はなかなか見つかりませんでした。過去に2度も彼女の婚約者が早世していたことから色々と不吉な噂が立ち、諸大名・公卿とも縁組を敬遠していたのです。
一説には吉宗は竹姫と恋仲になり、将軍御台所に迎えようとした(*吉宗は紀州藩主時代に正室を亡くしている)ものの、周囲に反対されたため致し方なく他家へ嫁がせることにした…という話もあります。

そして享保14年(1729)、竹姫の縁談がようやくまとまりました。
相手は薩摩藩主の島津継豊。実は竹姫と松平久千代との縁組が成立する前、先に鍋三郎(継豊の幼名)へ打診があったのを、島津家が断っていた経緯がありました。成長した継豊は毛利家から正室を迎えましたが彼女は若死にし、幕府から再婚話を持ち掛けられたのです。
薩摩は財政難の上、継豊は側室との間に儲けた息子を世嗣と決めていたので、当初は難色を示しました。そこで吉宗は「竹姫に男子が生まれても側室の子を嫡子としてよい、婚儀に当たって補助金も出す」など破格の条件を認め、さらに6代将軍家宣の未亡人・天英院にも助力を仰ぎました。天英院は近衛家の出身で、島津家と近衛家は昔から深い関わり合いを持っていたため、彼女に強く要請されると島津としては断れなかったのです。やっと結婚が決まった時、竹姫は既に25歳になっていました。
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奈良時代の混血児

◆モダンな名前の兄弟
天平6年(734)、前年派遣されていた遣唐使船のうちの一隻が種子島に漂着しました。厳しい航海を乗り越え無事に帰国を果たした乗船者の中に、羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)という人物がいました。
吉麻呂は養老元年(717)、「天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも」の句で有名な阿倍仲麻呂の人(従者)として渡唐しました。この時の留学生には、帰国後に政界で活躍した吉備真備や玄、近年中国で墓誌が発見された井真成(せい・しんせい)なども含まれています。
月日は流れ天平5年(733)、新たな遣唐使船がやって来ましたが、科挙に合格し唐の官吏となっていた仲麻呂は残ることとなります。しかし吉麻呂は帰国を希望し、彼の長年の功を労って仲麻呂はそれを許しました。そして吉麻呂は17年ぶりに祖国の土を踏みますが、傍らには唐の女性との間に儲けた2人の息子を伴っていました。兄弟の名は「翼(つばさ)」と「翔(かける)」と言います。

◆留学生の家族
兄の翼は、没年から逆算すると養老3年(719)生まれ。弟の翔の生年は不明ですが、おそらく翼より2~3歳下と推測されてるようです。
青年期の10年余りを異国で過ごした留学生たちは、現地の女性と結ばれ家庭を持った者も多かったと思われますが、日本に家族を連れ帰ることは稀でした。当時の唐では女性を連れて本国に帰るのを許されておらず、子供も妻の許に預けたのでしょう。来日した子供たちの例としては、僧弁正の子・秦朝元(はたのちょうげん)や藤原清河の娘・喜娘(きじょう)などがいます。
秦朝元は医術の腕や語学力を重宝され朝廷に出仕しましたが、羽栗兄弟も同様に取り立てられ官吏に就きました。しかし2人の後半生は、大きく分かれた道を歩むことになります。

ちなみに兄弟の父・吉麻呂は、帰国の2年後に遣新羅使に任じられたようですが(その時詠んだ和歌が万葉集に収録)、その後のことについては不明です。
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平家の南都焼き討ち(2)

<前回の記事(1)はこちらへ

◆南都の壊滅
12月25日、清盛の五男・重衡を大将軍、甥の通盛を副将軍とする追討軍が南都に向けて進発しました。小競り合いを経て、戦いは28日に決着がつきました。
中山忠親の日記『山槐記』には、同日の未の刻(午後2時頃)に「南方に煙が立ち上っているのが見えた。夜になると炎の光がより鮮明に輝くようになった。追討軍が奈良の在家に火を放ったか、あるいは衆徒が放火したのか」と記されています。けれども実際は、忠親が想像しえなかった事態になっていたのです。

南都に侵入した追討軍が寺に放った火により、興福寺・東大寺を中心に付近の諸寺は壊滅的な被害を受けました。東大寺は金堂(大仏殿)など大半の伽藍が焼失、かろうじて正倉院などいくつかの倉が残ったのみでした。興福寺も38カ所の堂舎が焼失し、多数の貴重な仏像や経典も失われました。また修学の僧侶や住民などの非戦闘員も含め、多くの焼死者が出たと言われています。わずかに春日大社のみが災を逃れたという惨状でした。

『平家物語』では「夜になって重衡が灯りを求め、配下の福井某が周囲の在家に火を放ったところ、折からの北風に煽られ燃え広がった」と、大火災になったのは偶発的とされています。しかし、より古い形態を残しているという『延慶本平家物語』には「重衡は順々に南都を焼き払っていった。福井某は悪僧の籠る城や寺内の堂舎に火をかけた」と、意図的に火をつけたように書かれているのです。
先に園城寺にも焼き討ちをかけている事、出陣前に九条兼実が耳にした噂などからしても、少なくとも興福寺に対しては当初から火を放つ予定だった可能性が高いのではと思います。

ちなみに焼き討ちの件を聞いた兼実は『玉葉』に「言語の及ぶ所にあらず、筆端の記すべきにあらず」と、憤激と悲嘆を込めて綴っています。摂関家の嫡流出身の兼実は、元々平家に批判的でした。その平家に心の拠り所である氏寺の興福寺を焼失させられ、まさに世も末と打ちひしがれたことでしょう。
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平家の南都焼き討ち(1)

治承4年(1181)の12月28日、平重衡を総大将とする平家軍が、南都(奈良)の寺院に焼き討ちをかけました。火災により東大寺・興福寺などは数多の死者を出すと共に主要な堂宇を失い、今まで大きな勢力を誇ったこれら有力寺院は壊滅的な打撃を蒙りました。
南都の寺院勢力はかねてから平家政権に反抗的な態度を続けており、断固とした処置を取るしかないと判断した平清盛の命で、平家軍は奈良に攻め入ったのです。けれども現代とは比較にならないほど神仏が敬われ且つ畏怖されていた当時、何故こんな乱暴な方法を取ったのでしょうか。

◆背景
聖武天皇により建立された東大寺と、藤原氏の氏寺であった興福寺は、平安時代末期になってもしばしば京都政権に圧力を加えていました。両寺はいわば律令制・摂関政治の象徴であり、最高の宗教的権威を保っていたのは勿論、多数の荘園や僧兵をも有していました。近江の延暦寺・園城寺(三井寺)と共に、朝廷や貴族にとっては無視しえない勢力だったのです。
権力が院から平家に移っても、事情は同様でした。清盛が福原への遷都を強行したのは、宗教勢力の圧迫から逃れることも理由の一つだったのです。

治承3年11月、清盛は反平家色を強める後白河法皇を幽閉し、院政を停止させるクーデターを起こしました。同時に法皇の側近も処罰され、関白の松殿基房も解官・配流の憂き目に遭います。これに寺社勢力、特に法皇の帰依が厚かった園城寺と藤原氏のトップである基房の追放に反発した興福寺は、危機感を抱きました。
翌4年の5月、法皇の皇子・以仁王と源頼政が中心になり打倒平家の挙兵が計画されました。しかし事前に露見したため以仁王は一旦園城寺に逃れ、さらに南都の寺社勢力を頼り興福寺へ向かいます。以仁王らは奈良に辿り着く前に宇治平等院で敗死しましたが、南都の衆徒たちはこれを契機に園城寺や諸国の源氏と連携し、平家に敵対する動きを見せ始めたのです。
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南北朝の始まり(2)~持明院統と大覚寺統

<前回の記事(1)はこちらへ。表の数字は天皇即位の順番>

keizu2.jpg後深草天皇は、彼に仕えていた女房・二条が記した『とはずがたり』のおかげで好色なイメージが強いですが、性格は穏やかで体が弱かったと言われています(でも60代まで生きてるんですけどね)
父の後嵯峨上皇は、剛毅で英邁な弟・恒仁親王(亀山天皇)の方を溺愛しており、強引に天皇に即位させました。おまけに文永4年(1267)亀山天皇に長男の世仁親王が誕生すると、翌年にはその世仁親王をわずか2歳で立太子させたのです。
ここまでの後深草上皇は内心の不平を抑え、父の決定におとなしく従っていました。しかし文永9年2月に後嵯峨法皇が崩御すると、「治天の君」継承の正当性をめぐって、兄弟間の確執が表面化する事となったのです。

治天の君とは、やや乱暴な言い方ですが天皇家の家長として、国務の実権を握っている上皇・天皇を指すことばです。平安後期の白河上皇以後は、上皇(複数人在世時は最も先代の上皇)が政治を執る院政が定着し、天皇が親政を行うのは上皇が不在の時に限られていました。
そのため従来の例からすると、すでに上皇である後深草が治天の君となり院政を開始するのが当然であったわけです。しかし後嵯峨法皇の四十九日の法要の折、法皇の遺言書を開封したところ、そこには治天の君と財産分与の件について書かれていました。
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南北朝の始まり(1)~後嵯峨天皇の即位

延元元年/建武3年(1336)に朝廷が分裂してから、元中9年/明徳3年(1392)に両朝が合一するまでの南北朝時代。特に最初の10数年は戦乱が絶えず、混乱を極める時代となりました。日本の歴史の中でも未曾有の、2つの朝廷が並行して存在するという事態。そのきっかけは分裂から約70年ほど前の、後深草天皇・亀山天皇の兄弟による皇位を巡る争いに端を発していました。何故こういう事が起こったのか、兄弟の父・後嵯峨天皇の時代にまで遡って紹介してみます。

keizu1_20071116050132.jpg承久3年(1221)勃発した承久の乱の後、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇が配流となり、仲恭天皇は廃されました。鎌倉幕府は「今後、後鳥羽上皇の血統の皇位継承は認めぬ」と決め、後鳥羽院の同母兄・守貞親王の子を後堀河天皇として即位させました。守貞親王自身は出家しており皇位には即けませんでしたが、天皇がまだ幼かったため、後高倉院と名乗り院政を行いました。

ところがそれから20年余り経った仁治3年(1242)、後高倉院の孫にあたる四条天皇がわずか12歳で急死。父も祖父も既にこの世を去っており、やむを得ず後鳥羽上皇の孫王の中から皇位継承者を選ぶこととなりました。
朝廷内の実力者である九条道家は、順徳上皇の次男・忠成王を推しました。しかし執権・北条泰時の返答は「鶴岡八幡宮の御託宣の結果、土御門上皇の遺児・邦仁王がよろしいでしょう」というものでした。こうして邦仁王、すなわち後嵯峨天皇が即位することとなったのです。
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戦国大名の末裔たち

来週の『風林火山』ではいよいよ三国同盟の締結について描かれるようですが、皮肉なことに武田・今川・北条の三家とも、この後数十年の間に次々と滅亡してしまったのは周知の通りです。一時は強大な勢力を誇っても、僅かな情勢の変化で呆気なく滅びさってしまうこともある過酷な時代でした。
もっとも滅亡といっても、一族すべてが絶滅してしまったわけでなく、その子孫は細々とではありますが命脈を保ちました。では彼らの末裔たちがいったいどうなったのかを少しばかり紹介します。

甲斐武田氏
武田信玄には7人の息子たちがいましたが、うち3人の子孫が存続しています。その中の本家である、次男の海野信親の系統について紹介します。
信親は盲目のため家督相続からは外されましたが、信濃の名族・海野氏の娘を娶り名跡を継ぎました。後に出家して竜芳と号し、武田家中では「御聖道様」と呼ばれ重きを為したそうです。天正10年(1582)3月、織田軍が甲斐へ侵攻し信親は寺へ匿われましたが、異母弟の勝頼が敗死したと聞くと、自害して果ててしまいました。
その子の信道は織田軍の残党狩りを逃れ、元家臣の土屋長安の保護を受けました。土屋は後に徳川家康に仕え大久保長安と名乗り、奉行として絶大な権勢を振るいます。しかし彼の死後に疑獄事件が発覚し関係者が処罰され、信道も連座して伊豆大島に配流となり、その地で一生を終えました。

月日は流れ五代将軍綱吉の世になり、信道の孫・武田信興が幕府に召し出されて500石を与えられ、表高家衆に列せられました。そして大正4年(1915)信玄に従三位を贈位することになった際、信親が正室・三条夫人の子である事から、彼の子孫が武田家の総本家であると定められたのでした。
また信玄の五男・仁科盛信の子孫は旗本として、七男の信清の子孫は上杉氏に仕えてそれぞれ江戸時代を乗り切り、現在も続いているそうです。
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新聞からよむ明治・大正の世相

日本の新聞の歴史は、幕末に長崎で英字新聞が発行されたことに始まります。そして明治になると続々と日刊紙が誕生し、大衆に向けて政治・経済・事件・風俗などの情報を発信していくようになりました。
今回は、明治7年(1874)の創刊以来のすべての記事をデータベース化しているという読売新聞の記事から、明治・大正期のニュースをいくつか紹介します。

*参照サイト=「明治・大正・昭和の読売新聞」
【後日追記】上記コンテンツは読売新聞サイト内から削除されてしまっているので、Internet Archiveより取得したページをご覧下さい→こちら(一部画像は表示されません)

◆明治編
醜聞で二度失脚、暗殺された明治の大物政治家
星亨(1850~1901)は陸奥宗光の知遇を得て政界入りし、自由党・立憲政友会で活躍。伊藤博文に信任され衆議院議長や逓信大臣などを務めた敏腕政治家でした。しかし収賄などの黒い噂も絶えず、現代に至る金権型政党政治を築いたともされています。記事を見てわかるように当時のマスコミからも叩かれまくり、ついに逓相辞任に追い込まれています。
左官屋の子から身を起こし英語教師となり、後にロンドンに留学して日本初の弁護士資格を取ったという経歴は、相当な努力家だった事を伺わせますが、一方で人一倍権勢欲も強い人物だったんでしょうかね。
なお星を殺害した伊庭想太郎は、戊辰戦争で遊撃隊を率いて官軍と戦った伊庭八郎の実弟。心形刀流10代目として剣術を教えながら、東京農学校校長や日本貯蓄銀行の頭取も務めていました。剛直な性格で、政界の金権腐敗が許せず凶行に及んだといいます。彼は事件後終身刑を受け、6年後獄死したそうです。

明治版「大学は出たけれど」その1・女性編
明治版「大学は出たけれど」その2・男性編
この時代大学へ進学できるのはかなりのエリートだろうし、就職なんて困らなかったのではというイメージがあったけど、そんな簡単じゃなかったんだなー。
調査を行った明治45年(1912)は景気が停滞気味だったのか、帝大や早慶といった名門を出ても、なかなか希望通りの職にありつけない人もいたようですね。彼らの方も、つまらない会社には行きたくないとプライドがあったでしょうし。しかしそんな不況下でも理工系は売り手市場だったり、商業・語学などの実用教育を受けた者も順調に就職しているのは、今と全く事情が同じでおもしろいなと感じました。
女性の方は、せっかく卒業しても職に就かずに結婚してしまう場合が多かったんですね。おそらく本人の意思よりも、早く嫁ぐよう周りから促されたり、女性の働き口自体が限られていたことが大きかったのではと思います。そんな中、大半が最初の決意を貫き通し医学の道へ進んだと言う「日本女医専門学校」の卒業生たち。解剖実習を熱心に見守る彼女たちの姿に、記者が感嘆している部分が印象的です。

「作られた毒婦」高橋お伝
高橋お伝は「明治三大毒婦」の一人といわれる有名な悪女。しかし彼女が起こした犯罪の概要を読むと、内容も動機もよくある事件のひとつに過ぎないものです。後の阿部定のようなセンセーショナルな話題を呼ぶ要素は特に見当たりません。
お伝が稀代の毒婦とされたのは記事にもある通り、彼女を実像以上に凶悪な女に仕立て上げて描いた物語や芝居が原因でした。お伝の処刑の前年、「夜嵐お絹」という女殺人犯をモデルにした物語が当たりをとっており、これに触発されたのではないかと思います。
ちなみにお伝の遺骸は、学問のためと称して局部を切り取られ、それをホルマリン漬けにして東大医学部に保存してたらしいですよ。私にはお伝の犯罪よりも、こっちの行為の方がよっぽどおぞましい気がするけどね。
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補陀落渡海の伝説

◆究極の修行
補陀洛(ふだらく)とは観世音菩薩が住んでいるとされる浄土のこと。『華厳経』にはその様子を「泉があふれ木々が繁り、花の香りが漂い、観音菩薩は金剛の宝石の上に座す」と描いています。
いつの頃からか日本では、この補陀洛が遥か南洋の彼方に存在すると信じられてきました。そして憧れの浄土を目指し、簡素な小舟でたった一人、海へと漕ぎ出していく僧侶たちがいたのです。この行を「補陀洛渡海」と呼んでいます。

渡海を決意した僧は、わずかな食料と灯火の油と共に舟に乗り込み、四方を鳥居に囲まれた小部屋に入ります。そして外から釘を打ち付け出られなくします。舟は伴船に曳航され、沖へ出ると綱を切断。あとは風と潮のなすが侭に漂流し続け、僧はひたすら経を唱え補陀洛に辿り着くことを念じたといいます。
二度と帰ってくることはない、死を覚悟の上の凄絶な捨身行。彼らがその後どうなったかは記録に残っていません。運良く離島に漂着した者もいたかもしれませんが、おそらくほとんどが海の藻屑として波間に消えて行ったのでしょう。

補陀落渡海の伝承は高知の足摺岬や室戸岬、茨城の那珂湊などにも残ってますが、メッカとなった場所は紀伊熊野の那智の浜でした。那智山の麓にある補陀洛山寺の境内には渡海上人の碑が建てられており、貞観10年(868)から享保7年(1722)まで、計25人の名前が刻まれています。中には以前紹介した平維盛なども含まれていますが、多くは補陀洛山寺の僧侶だったようです。
しかし16世紀末頃を境に生きたまま海へ出て行くことはなくなり、以後は補陀洛山寺の住職が死亡した時に、遺体を舟に乗せ海に流す水葬として行うようになりました。それは金光坊という僧の事件がきっかけとなったと伝えられています。
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花山天皇のスキャンダル

◆一夜明ければタダの人
寛和2年(986年)6月22日の夜、当時の帝であった花山天皇が突然、清涼殿から失踪してしまいました。
内裏では当然大騒ぎになり、必死に捜索した結果、翌朝になってようやく居場所が判明。天皇の叔父である中納言・藤原義懐(よしちか)たちがその寺に駆けつけると、なんと天皇は昨夜のうちに勝手に出家してしまわれていたのです。

この前代未聞の椿事について、『栄華物語』では「寵愛していた弘徽殿女御こと藤原忯子(よしこ)と死別し、悲嘆のあまり世を儚み出家を決意した」と、花山帝の心境を伝えています。しかし『大鏡』では、天皇は右大臣の藤原兼家一家の策謀にはめられたとしており、生々しい事情が書かれています。
花山帝はまだ子供がなかったため、皇太子に従兄弟の懐仁親王を立てていましたが、彼は兼家の娘が生んだ子でした。一刻も早く孫を帝につけ実権を握りたいと願っていた兼家は、天皇が弘徽殿女御の死で厭世的になっていると耳にし、天皇を退位させようと計画を巡らせたのです。
まず兼家の息子の道兼が、天皇へしきりに「この上は御出家され、女御様の菩提を弔う生活をなさいませ。私もお供いたします」と勧めました。説得に心を動かされた花山帝は、道兼の導きで秘かに宮中を脱出。ところが剃髪の直前、道兼は「父に最後の挨拶をしたいので」と言い出し、寺を立ち去ってしまったのです。
その間に兼家らは、三種の神器を懐仁親王のもとへ運び込み、即位の準備を済ませていました。道兼がいつまでたっても戻らぬため、天皇はようやく自分が騙されたと気付きますが、時すでに遅しでした。
天皇を迎えに来た義懐は、頭を丸めた花山帝を見て自身の政治生命の終わりを悟り、その場で自分も出家してしまったそうです。

こうして懐仁親王が一条天皇として即位、兼家は念願の摂政に就任し我が世の春を迎えました。この兼家の四男が、有名な藤原道長ですね。
さて騙されて退位に追い込まれた花山天皇は、この話だけだと「藤原氏の陰謀の犠牲になった、かわいそうな帝」といった印象を受けます。ですが実はこの人、在位中から晩年まで醜聞や奇行が絶えなかった、歴代天皇の中でも有数のお騒がせものでありました。
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