上杉謙信の養子たち(2)〜その他の人々
<前回の記事(1)はこちらへ>
◆謎多き人物・上条政繁(生没年不詳)
正確な生年は不詳ですが、景勝・景虎よりはやや(10歳くらい?)年長だったようです。
政繁は能登守護の畠山氏出身の人物で、人質として越後に来て謙信の養子となり、上杉氏の一門である上条(じょうじょう)家を継いで、謙信の姪(景勝の姉妹/景虎に嫁いだ女性とは別人)を娶りました(*1)。後に出家して宜順と号しています。
・・・というのが彼の経歴の定説ですが、越後に来た経緯や謙信の養子になった時期については諸説あり、中には政繁の謙信養子説を疑問視する見方もあるようです。また彼は、近年まで後述の畠山義春と同一人物とされていた(政繁が改名し義春と名乗ったと思われていた)ため、政繁自身の事蹟がわかりにくくなっている部分もあるのです。
天正3年(1575)の上杉家臣団の構成を記した「御軍役帳」では、景勝・山浦国清(後述)・上杉景信(古志長尾家当主)に継いで、政繁は第四位に名を連ねており(景虎は記載無し)、一門中で重く見られていた事がわかります。
天正6年に起こった御館の乱では、景勝方に味方し武功を挙げました。乱後も景勝の重臣として仕えましたが、天正14年(1586)7月に突如、妻子を置いて単身出奔してしまいました。理由については、信濃国の統治を巡って景勝と対立したとも、景勝側近として台頭してきた直江兼続との間に軋轢が生じた結果とも言われています。
その後政繁は上方に出て秀吉に仕えたと伝えられていますが、これ以降の記録は前述の通り畠山義春と混同されている可能性が高いため、政繁がいつまで活動・存命していたかははっきりわかっていません。
◆謎多き人物・上条政繁(生没年不詳)
正確な生年は不詳ですが、景勝・景虎よりはやや(10歳くらい?)年長だったようです。
政繁は能登守護の畠山氏出身の人物で、人質として越後に来て謙信の養子となり、上杉氏の一門である上条(じょうじょう)家を継いで、謙信の姪(景勝の姉妹/景虎に嫁いだ女性とは別人)を娶りました(*1)。後に出家して宜順と号しています。
・・・というのが彼の経歴の定説ですが、越後に来た経緯や謙信の養子になった時期については諸説あり、中には政繁の謙信養子説を疑問視する見方もあるようです。また彼は、近年まで後述の畠山義春と同一人物とされていた(政繁が改名し義春と名乗ったと思われていた)ため、政繁自身の事蹟がわかりにくくなっている部分もあるのです。
天正3年(1575)の上杉家臣団の構成を記した「御軍役帳」では、景勝・山浦国清(後述)・上杉景信(古志長尾家当主)に継いで、政繁は第四位に名を連ねており(景虎は記載無し)、一門中で重く見られていた事がわかります。
天正6年に起こった御館の乱では、景勝方に味方し武功を挙げました。乱後も景勝の重臣として仕えましたが、天正14年(1586)7月に突如、妻子を置いて単身出奔してしまいました。理由については、信濃国の統治を巡って景勝と対立したとも、景勝側近として台頭してきた直江兼続との間に軋轢が生じた結果とも言われています。
その後政繁は上方に出て秀吉に仕えたと伝えられていますが、これ以降の記録は前述の通り畠山義春と混同されている可能性が高いため、政繁がいつまで活動・存命していたかははっきりわかっていません。
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上杉謙信の養子たち(1)〜北条から来た男
◆越後にやって来るまで
上杉景虎は、相模の虎と呼ばれた名将・北条氏康の七男(一説に八男)。正確な生年は判明してませんが、一般的な書籍等では天文23年(1554)生という記載がよく見られます。もしこの説が正しければ、後にライバルとなる上杉景勝より一つ年上ということになります。
彼の幼少期については、「箱根早雲寺で喝食を勤め、その後北条氏が三国同盟を結んでいた武田信玄の養子となり三郎と称するも、同盟の破綻によって北条に戻った」ーーという話が従来は有名でした。
しかし当の武田側の同時代史料に、三郎が信玄の養子となった話が全く記されていないという事実が、長塚孝氏や黒田基樹氏の研究で明らかにされました。そのため最近ではこの説に否定的な見解も多く、少年時代のことははっきりわかっていません。
確実と思われる記録上に三郎が登場するのは、永禄12年(1569)末に一族の北条幻庵の養子となった時のことです。幻庵は氏康の叔父にあたり、北条氏の長老的存在でした。二人の息子が武田との合戦で討死してしまったので、三郎を婿養子に迎え入れて後継者と定めたのです。
ところがそれから半年も経たない翌年の4月、三郎の姿は相模から遠く離れた越後春日山城にありました。
武田との同盟を破棄した氏康は、越後の上杉謙信と結んで信玄に対抗する手段を取りました。そして同盟の証に、実子のいない謙信の養子として北条方から三郎が送り込まれることに決定したのです。
当初は、三郎の長兄である氏政の次男・国増丸(後の太田源五郎)が候補に挙っていましたが、「幼子を手放すのは忍びない」との氏政の懇願により、三郎に変更されたと言われています。近年の櫻井真理子氏の研究では、もし北条が武田から攻め込まれた時に、幼い国増丸よりもある程度の年齢に達している者の方が謙信への援軍依頼が取り次げるとして、三郎に白羽の矢が立ったのではという見方もあります。
上杉景虎は、相模の虎と呼ばれた名将・北条氏康の七男(一説に八男)。正確な生年は判明してませんが、一般的な書籍等では天文23年(1554)生という記載がよく見られます。もしこの説が正しければ、後にライバルとなる上杉景勝より一つ年上ということになります。
彼の幼少期については、「箱根早雲寺で喝食を勤め、その後北条氏が三国同盟を結んでいた武田信玄の養子となり三郎と称するも、同盟の破綻によって北条に戻った」ーーという話が従来は有名でした。
しかし当の武田側の同時代史料に、三郎が信玄の養子となった話が全く記されていないという事実が、長塚孝氏や黒田基樹氏の研究で明らかにされました。そのため最近ではこの説に否定的な見解も多く、少年時代のことははっきりわかっていません。
確実と思われる記録上に三郎が登場するのは、永禄12年(1569)末に一族の北条幻庵の養子となった時のことです。幻庵は氏康の叔父にあたり、北条氏の長老的存在でした。二人の息子が武田との合戦で討死してしまったので、三郎を婿養子に迎え入れて後継者と定めたのです。
ところがそれから半年も経たない翌年の4月、三郎の姿は相模から遠く離れた越後春日山城にありました。
武田との同盟を破棄した氏康は、越後の上杉謙信と結んで信玄に対抗する手段を取りました。そして同盟の証に、実子のいない謙信の養子として北条方から三郎が送り込まれることに決定したのです。
当初は、三郎の長兄である氏政の次男・国増丸(後の太田源五郎)が候補に挙っていましたが、「幼子を手放すのは忍びない」との氏政の懇願により、三郎に変更されたと言われています。近年の櫻井真理子氏の研究では、もし北条が武田から攻め込まれた時に、幼い国増丸よりもある程度の年齢に達している者の方が謙信への援軍依頼が取り次げるとして、三郎に白羽の矢が立ったのではという見方もあります。
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東京の化物屋敷
昭和2年(1927)の東京。深川・門前仲町の電車通りに面したある土地で、家屋の建築工事が始まりました。
着工から数年が経過し、建物はとうに完成しているように見えますが、いつまで経っても工事は続けられています。それどころか、とても普通の人間が住める家とは思えないような、奇怪な外見を露にし始めたのです。
やがて近隣住民たちは、あまりの異様さにこの家を「牢屋」「化物屋敷」などと呼ぶようになりました。
◆理解不能な建築
その「化物屋敷」は、どれだけ変ちくりんな建物だったかといいますと。
・不気味な玄関ホール…二階まで吹抜けになっているが照明はなし
人の手の届かない高さに、帽子等を掛ける金具が大量に打ち付けられていた
・奇妙な床の間…傾斜のついた違い棚&ナイアガラの滝の写真を貼っていた
・使えない押入れ…奥行が30cmしかなく、何も入らない
・変わった素材の壁…虫除けと称し、壁に黒砂糖と除虫菊の粉末を塗り込んでいた
・行き先のない梯子…土蔵の床から天井まで垂直に取り付けられている
・和洋合体風呂…西洋式バスタブと五右衛門風呂を並べている(洗い場はなし)
・恥ずかしい便所…扉が下半分のみ、しかも全ての部屋から丸見えの状態
・のぞき窓?…板壁をくり抜いてガラスをはめ込んだ節穴が無数にあった
・・・等々、他にも例を挙げていけば書ききれないほど。見た目にも実用的にも、何の意味があるのかわからない迷宮のような構造だったそうです。
さてこの化物屋敷、何年もダラダラと増改築が続けられていましたが、昭和11年にある事情で邸の主人が不在となり、その時点で建築は中絶。そして2年後にはあっけなく取り壊されてしまいました。
未完に終わったものの、日本の建築史上でかつて類のないものであったこの邸は、「二笑亭」の通称で伝説的な存在となっています。
二笑亭の表玄関。
着工から数年が経過し、建物はとうに完成しているように見えますが、いつまで経っても工事は続けられています。それどころか、とても普通の人間が住める家とは思えないような、奇怪な外見を露にし始めたのです。
やがて近隣住民たちは、あまりの異様さにこの家を「牢屋」「化物屋敷」などと呼ぶようになりました。
◆理解不能な建築
その「化物屋敷」は、どれだけ変ちくりんな建物だったかといいますと。
・不気味な玄関ホール…二階まで吹抜けになっているが照明はなし
人の手の届かない高さに、帽子等を掛ける金具が大量に打ち付けられていた
・奇妙な床の間…傾斜のついた違い棚&ナイアガラの滝の写真を貼っていた
・使えない押入れ…奥行が30cmしかなく、何も入らない
・変わった素材の壁…虫除けと称し、壁に黒砂糖と除虫菊の粉末を塗り込んでいた
・行き先のない梯子…土蔵の床から天井まで垂直に取り付けられている
・和洋合体風呂…西洋式バスタブと五右衛門風呂を並べている(洗い場はなし)
・恥ずかしい便所…扉が下半分のみ、しかも全ての部屋から丸見えの状態
・のぞき窓?…板壁をくり抜いてガラスをはめ込んだ節穴が無数にあった
・・・等々、他にも例を挙げていけば書ききれないほど。見た目にも実用的にも、何の意味があるのかわからない迷宮のような構造だったそうです。
さてこの化物屋敷、何年もダラダラと増改築が続けられていましたが、昭和11年にある事情で邸の主人が不在となり、その時点で建築は中絶。そして2年後にはあっけなく取り壊されてしまいました。
未完に終わったものの、日本の建築史上でかつて類のないものであったこの邸は、「二笑亭」の通称で伝説的な存在となっています。
二笑亭の表玄関。
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- 昭和時代
中先代の乱(3)〜その後の北条時行
<前回の記事はこちら→(1)、(2)>
◆南朝への帰順
北条時行の名が次に歴史上に現れるのは、中先代の乱から2年経った延元2年(1337)7月のことです。
『太平記』によると、時行は吉野の後醍醐天皇のもとに使者を送り、南朝への帰順を願い出ました。
「我が父・高時は先年滅亡しましたが、それは臣たる道をわきまえなかった結果なので、私は帝を少しもお恨みしておりませぬ。足利尊氏や新田義貞も、勅命により行動したのですから、北条に刃を向けた件について憤りはありません。しかし尊氏は、いまや朝敵であります。そもそも彼が現在の地位にあるのは、北条が足利家を優遇したからこそ。なのに尊氏はその恩を忘れている上、今また帝に背くという大罪を犯しています。故に我ら一族は、今後は足利兄弟のみを敵としようと決意いたしました。私は不忠の父の子ですが、御赦しの綸旨を賜われば、帝の臣下として喜んで働く所存です。」
書状の内容を伝え聞いた後醍醐天皇は、朝敵恩赦の綸旨を下すことを認めた―とあります。
この頃の時行はまだせいぜい11〜12歳の少年(*1)なので、書かれている内容はおそらく本人の意思というよりも、側近たちの差し金なのでしょう。朝廷や新田氏を全く恨んでなかったとは思えませんが、足利尊氏こそが最も許し難い存在であるという件には、時行一党の本音が含まれているのではと感じます。
◆足利方との戦い
正式に南朝の武将となった時行は、京都奪回のため奥州から西上してきた鎮守府将軍・北畠顕家の軍に加わりました。北畠軍は怒濤の勢いで進撃し、翌年1月の美濃青野原(後の関ヶ原)の戦いで足利軍に勝利。ところが京を目前にしながら、顕家は進路を伊勢に変更しました。長い遠征で兵力が減少・疲弊していたためとも、援軍を命じられた新田義貞に功を奪われるのを顕家が嫌ったとも言われています。
北畠軍の運命は暗転し、伊勢から伊賀、大和へと軍を進めたものの、形勢はジリ貧となっていきます。そして5月、和泉堺浦で高師直率いる大軍に敗れ、顕家は21歳で戦死しました。しかし時行は辛うじて追手を逃れます。
2年後の暦応3年/興国元年(1340)6月、時行は諏訪頼継(頼重の孫)ら旧臣と共に、信濃伊那の大徳王寺城で兵を挙げました。しかし間もなく信濃守護・小笠原貞宗の軍に城を包囲され、4ヶ月後の10月23日に大徳王寺城は落城(*2)。時行はまたもや潜伏を強いられることとなるのです。
◆南朝への帰順
北条時行の名が次に歴史上に現れるのは、中先代の乱から2年経った延元2年(1337)7月のことです。
『太平記』によると、時行は吉野の後醍醐天皇のもとに使者を送り、南朝への帰順を願い出ました。
「我が父・高時は先年滅亡しましたが、それは臣たる道をわきまえなかった結果なので、私は帝を少しもお恨みしておりませぬ。足利尊氏や新田義貞も、勅命により行動したのですから、北条に刃を向けた件について憤りはありません。しかし尊氏は、いまや朝敵であります。そもそも彼が現在の地位にあるのは、北条が足利家を優遇したからこそ。なのに尊氏はその恩を忘れている上、今また帝に背くという大罪を犯しています。故に我ら一族は、今後は足利兄弟のみを敵としようと決意いたしました。私は不忠の父の子ですが、御赦しの綸旨を賜われば、帝の臣下として喜んで働く所存です。」
書状の内容を伝え聞いた後醍醐天皇は、朝敵恩赦の綸旨を下すことを認めた―とあります。
この頃の時行はまだせいぜい11〜12歳の少年(*1)なので、書かれている内容はおそらく本人の意思というよりも、側近たちの差し金なのでしょう。朝廷や新田氏を全く恨んでなかったとは思えませんが、足利尊氏こそが最も許し難い存在であるという件には、時行一党の本音が含まれているのではと感じます。
◆足利方との戦い
正式に南朝の武将となった時行は、京都奪回のため奥州から西上してきた鎮守府将軍・北畠顕家の軍に加わりました。北畠軍は怒濤の勢いで進撃し、翌年1月の美濃青野原(後の関ヶ原)の戦いで足利軍に勝利。ところが京を目前にしながら、顕家は進路を伊勢に変更しました。長い遠征で兵力が減少・疲弊していたためとも、援軍を命じられた新田義貞に功を奪われるのを顕家が嫌ったとも言われています。
北畠軍の運命は暗転し、伊勢から伊賀、大和へと軍を進めたものの、形勢はジリ貧となっていきます。そして5月、和泉堺浦で高師直率いる大軍に敗れ、顕家は21歳で戦死しました。しかし時行は辛うじて追手を逃れます。
2年後の暦応3年/興国元年(1340)6月、時行は諏訪頼継(頼重の孫)ら旧臣と共に、信濃伊那の大徳王寺城で兵を挙げました。しかし間もなく信濃守護・小笠原貞宗の軍に城を包囲され、4ヶ月後の10月23日に大徳王寺城は落城(*2)。時行はまたもや潜伏を強いられることとなるのです。
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中先代の乱(2)〜20日間の統治者
<前回の記事(1)はこちらへ>
◆鎌倉へ進軍
西園寺公宗の陰謀事件が発覚した翌月の建武2年(1335)7月。北条時行を大将に押立てた諏訪、滋野、三浦氏などによる軍が、信濃で挙兵しました。京での計画が頓挫しようが、最早後に引く訳にはいかなかったのでしょう。
7月14日、時行軍は青沼において信濃守護・小笠原貞宗と戦い、近隣の支持勢力を糾合しつつ武蔵へと入り、たちまちのうちに鎌倉へ迫りました。『太平記』では兵の数五万余騎と伝えており、誇張があるとしても軍勢は相当数に膨れ上がっていたようです。
当時鎌倉は、足利尊氏の弟・直義が管轄していました。彼はただちに鎮定軍を差し向けますが大敗を喫し、渋川義季(直義の義弟)・小山秀朝らの有力武将を失ってしまいます。やむを得ず直義自ら出陣するものの再度撃破され、ついに一旦鎌倉から撤退することを余儀なくされました。
この時鎌倉では、後醍醐天皇の皇子・護良親王が、皇位簒奪を企てたという疑いをかけられ寺に幽閉されていました。直義は親王が時行軍の手に渡ってしまう事を警戒し、退却直前に家臣を使わし親王を斬ってしまいました。
◆つかの間の勝利
7月25日、時行は鎌倉へ入りました。父の高時を始めとする一族が炎の中で命を絶って以来、2年2ヶ月ぶりの帰還です。早速この父祖代々の故地で、北条氏政権の復活が宣言されました。
8月12日、時行の奉行人が連署した文書に、建武ではなく「正慶4年」という年号が記載されています(「南北朝史100話」)。正慶とは、かつて鎌倉幕府が後醍醐天皇を隠岐に流し光厳天皇を擁立した時に使用していた年号で、建武新政以前への回帰を示しています。
三河まで退いた直義から報せを受け取った尊氏は、直ちに時行軍征伐の許可を後醍醐天皇に願い出ます。同時に彼は「征夷大将軍と総追捕使への任官」を奏請しますが、武家政権樹立という尊氏の野望を察した天皇は、要請を一切拒否しました。
8月2日、尊氏は天皇の許しを得られぬまま、独断で出発します。直義軍と合流し、8月9日に遠江での戦いに勝利したのを皮切りに、その10日後にはあっさり鎌倉の奪回に成功。北条氏再興を謳った反乱軍が鎌倉を占領したのは、わずか20日ほどのことでした。
諏訪頼重ら時行軍の中心武将43名は、勝長寿院で自刃して果てました。遺骸はみな顔の皮を剥いであったため、誰が誰だか見分けがつかず、話を聞いた人々は「おそらく北条時行も一緒に自害したのだろう、かわいそうに」と哀れんだといいます。しかしこれは、時行を無事に逃すために、彼がここで死んだと見せかける策略でした。
◆鎌倉へ進軍
西園寺公宗の陰謀事件が発覚した翌月の建武2年(1335)7月。北条時行を大将に押立てた諏訪、滋野、三浦氏などによる軍が、信濃で挙兵しました。京での計画が頓挫しようが、最早後に引く訳にはいかなかったのでしょう。
7月14日、時行軍は青沼において信濃守護・小笠原貞宗と戦い、近隣の支持勢力を糾合しつつ武蔵へと入り、たちまちのうちに鎌倉へ迫りました。『太平記』では兵の数五万余騎と伝えており、誇張があるとしても軍勢は相当数に膨れ上がっていたようです。
当時鎌倉は、足利尊氏の弟・直義が管轄していました。彼はただちに鎮定軍を差し向けますが大敗を喫し、渋川義季(直義の義弟)・小山秀朝らの有力武将を失ってしまいます。やむを得ず直義自ら出陣するものの再度撃破され、ついに一旦鎌倉から撤退することを余儀なくされました。
この時鎌倉では、後醍醐天皇の皇子・護良親王が、皇位簒奪を企てたという疑いをかけられ寺に幽閉されていました。直義は親王が時行軍の手に渡ってしまう事を警戒し、退却直前に家臣を使わし親王を斬ってしまいました。
◆つかの間の勝利
7月25日、時行は鎌倉へ入りました。父の高時を始めとする一族が炎の中で命を絶って以来、2年2ヶ月ぶりの帰還です。早速この父祖代々の故地で、北条氏政権の復活が宣言されました。
8月12日、時行の奉行人が連署した文書に、建武ではなく「正慶4年」という年号が記載されています(「南北朝史100話」)。正慶とは、かつて鎌倉幕府が後醍醐天皇を隠岐に流し光厳天皇を擁立した時に使用していた年号で、建武新政以前への回帰を示しています。
三河まで退いた直義から報せを受け取った尊氏は、直ちに時行軍征伐の許可を後醍醐天皇に願い出ます。同時に彼は「征夷大将軍と総追捕使への任官」を奏請しますが、武家政権樹立という尊氏の野望を察した天皇は、要請を一切拒否しました。
8月2日、尊氏は天皇の許しを得られぬまま、独断で出発します。直義軍と合流し、8月9日に遠江での戦いに勝利したのを皮切りに、その10日後にはあっさり鎌倉の奪回に成功。北条氏再興を謳った反乱軍が鎌倉を占領したのは、わずか20日ほどのことでした。
諏訪頼重ら時行軍の中心武将43名は、勝長寿院で自刃して果てました。遺骸はみな顔の皮を剥いであったため、誰が誰だか見分けがつかず、話を聞いた人々は「おそらく北条時行も一緒に自害したのだろう、かわいそうに」と哀れんだといいます。しかしこれは、時行を無事に逃すために、彼がここで死んだと見せかける策略でした。
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中先代の乱(1)〜勃発までの経緯
建武2年(1335)7月に起こった中先代の乱は、北条時行(高時の遺児)を擁立した北条家遺臣による反乱です。中先代とは、北条氏を先代の支配者、足利氏を当代とすると、その間に一時的ではあるものの時行が鎌倉を制圧したことから呼ばれました。
乱そのものは20日ほどで鎮圧されましたが、この戦いにより二つの重要な事件が誘発され、以降の南北朝動乱の流れに大きな影響を与えたのです。
◆父と兄との別れ
元弘3年/正慶2年(1333)の5月28日、新田義貞率いる大軍に総攻撃を受け、北条一族数百名は東勝寺で自害しましたが、高時の2人の息子・邦時と亀寿丸はひそかに鎌倉を脱出します。兄の邦時は、母方の伯父である五大院宗繁に託されましたが、宗繁が裏切って新田軍に密告したため捕えられ、わずか9歳で処刑されてしまいました。
いっぽう亀寿丸は、高時の弟・北条泰家の計らいで、家臣の諏訪盛高に護られ無事に信濃へ落ち延びました。信濃は北条氏が代々守護として支配した国であり、また諏訪社の神官である諏訪氏は北条譜代の家臣だったのです。当主の諏訪頼重に匿われた亀寿丸はこの地で元服し、相模次郎時行と名乗りました。
◆相次ぐ北条残党の反乱
鎌倉幕府滅亡後も、北条氏の一族・旧臣は断続的に各地で兵を挙げ、新政権への反抗を試みていました。
ひとつずつ詳細を書くと長くなるため、乱の起こった場所と年月、主な首謀者のみ記しておきます。
乱そのものは20日ほどで鎮圧されましたが、この戦いにより二つの重要な事件が誘発され、以降の南北朝動乱の流れに大きな影響を与えたのです。
◆父と兄との別れ
元弘3年/正慶2年(1333)の5月28日、新田義貞率いる大軍に総攻撃を受け、北条一族数百名は東勝寺で自害しましたが、高時の2人の息子・邦時と亀寿丸はひそかに鎌倉を脱出します。兄の邦時は、母方の伯父である五大院宗繁に託されましたが、宗繁が裏切って新田軍に密告したため捕えられ、わずか9歳で処刑されてしまいました。
いっぽう亀寿丸は、高時の弟・北条泰家の計らいで、家臣の諏訪盛高に護られ無事に信濃へ落ち延びました。信濃は北条氏が代々守護として支配した国であり、また諏訪社の神官である諏訪氏は北条譜代の家臣だったのです。当主の諏訪頼重に匿われた亀寿丸はこの地で元服し、相模次郎時行と名乗りました。
◆相次ぐ北条残党の反乱
鎌倉幕府滅亡後も、北条氏の一族・旧臣は断続的に各地で兵を挙げ、新政権への反抗を試みていました。
ひとつずつ詳細を書くと長くなるため、乱の起こった場所と年月、主な首謀者のみ記しておきます。
これらの挙兵には、北条一族・家人の他に地元の豪族も参加している場合があり、建武の新政への強い不満が読み取れます。特に奥州・紀州・北九州はかなりの規模の反乱でしたが(紀州では楠木正成が討伐に赴いている)、結局全て鎮圧されています。・奥州北部(1333年冬〜1335年1月) 名越時如、安達高景
・南関東(1334年3月、8月) 3月=渋谷氏、本間氏 8月=葛西氏、江戸氏
・北九州(1334年1月〜7月) 規矩(きく)高政、糸田貞義
・日向(1334年7月) 遠江掃部助三郎、同四郎
・越後(1334年7月) 小泉持長、大河将長
・紀州(1334年10月〜1335年1月) 六十谷(むそだに)定尚
・長門(1335年1月) 北条上野四郎
・伊予(1335年2月〜5月) 赤橋重時
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阿部一族の悲劇の真相
森鴎外が大正2年(1913)に発表した『阿部一族』は、封建社会における「殉死」を描いた傑作として広く知られています。鴎外が「歴史其儘(そのまま)」と位置づけた、できる限り史料に沿った記述内容と、ルポルタージュを思わせるような抑えた筆致により、この小説に書かれた内容が史実と認識している方も多いと思います。
いわゆる「阿部騒動」は本当に起こった事件ではありますが、小説と事実とは少し異なる部分があるのはあまり知られていないようです。
『阿部一族』のあらすじを一応紹介しておくと
―肥後藩主・細川忠利の死に際して、重臣の阿部弥一右衛門は殉死を願い出るが、彼を煙たがっていた忠利は許可せずに息を引き取った。周囲から卑怯者呼ばわりされた弥一右衛門は、生き恥を晒すわけにいかないと切腹したが、殉死でなく犬死と見なされて遺族は差別的な扱いを受ける。屈辱に耐えかねた阿部一族が取った行動は― という物語です。
鴎外が執筆の参考とした史料は『阿部茶事談』という書物で、作中にも登場する阿部家の隣人だった栖本(小説では柄本)又七郎が著者とされています。しかし後に、この本が書かれたのは事件から80〜100年後と推定される事がわかりました。当然ながら一次史料としては扱えず、さらに藤本千鶴子氏・山本博文氏などの研究によって、かなりの脚色部分があると判明したのです。
まず阿部弥一右衛門の死に関して。
・弥一右衛門は後追いではなく、他の殉死者の大多数と同じ日に切腹した
・殉死希望者は、忠利ではなく先君の逝去後に跡継の光尚に願い出た
・実は弥一右衛門以外の殉死者も、光尚から殉死の許可を得られなかった
これらは、肥後藩の政務日誌『日帳』に記載されているそうです。新当主の光尚は、殉死は一切禁ずる旨を通達しました。しかし弥一右衛門を含む希望者一同は、君命を守らず切腹したのです。
彼らを止められなかった藩側にも責任はあるとされたのか、殉死者たちの「罪」は黙認のような形になり、子孫への相続も許されました。無論、阿部家のみが特別差別的な扱いを受けた訳ではなかったのです。その後、嫡男の権兵衛を始めとする一族が滅亡へ追い込まれたのは、光尚体制下の新勢力との対立に巻き込まれたのではと考えられており、弥一右衛門の死とはほぼ関係ないようです。
藤本氏によると、弥一右衛門はもともと豊前の惣庄屋の出身で、才覚を見込まれて忠利に抜擢され、千石の高禄を与えられた人物だそうです。もしかすると細川家の譜代の家臣たちの間に、弥一右衛門に対し「農民上がりのくせに…」的な侮蔑と妬みの感情があり、その憎しみが彼の子息の排斥に繋がったのかもしれませんね。
熊本の細川忠利の霊廟の周りには、この時の殉死者19名の墓があり、その中には阿部弥一右衛門の墓も含まれています。鴎外も作中で「上(かみ)では弥一右衛門の遺骸を霊屋のかたわらに葬ることを許したのであるから」とこの事実には触れているのですが、小説の通り弥一右衛門が「主君に嫌われてたくせに、勝手に切腹した不届き者」であるなら、忠利の傍らに葬られるのを許されるのはよく考えれば不自然ですよね。
ちょっと揚げ足取りのようにもなってしまいましたが、多少事実と異なるからといって『阿部一族』の文学的な価値が減ずるわけではもちろんありません!
ちなみに江戸幕府が公式に殉死の禁を制定したのは、弥一右衛門の死から20数年経った寛文3年(1663)のことでした。
・参考書籍=「殉死の構造」
・青空文庫/阿部一族:森鴎外
いわゆる「阿部騒動」は本当に起こった事件ではありますが、小説と事実とは少し異なる部分があるのはあまり知られていないようです。
『阿部一族』のあらすじを一応紹介しておくと
―肥後藩主・細川忠利の死に際して、重臣の阿部弥一右衛門は殉死を願い出るが、彼を煙たがっていた忠利は許可せずに息を引き取った。周囲から卑怯者呼ばわりされた弥一右衛門は、生き恥を晒すわけにいかないと切腹したが、殉死でなく犬死と見なされて遺族は差別的な扱いを受ける。屈辱に耐えかねた阿部一族が取った行動は― という物語です。
鴎外が執筆の参考とした史料は『阿部茶事談』という書物で、作中にも登場する阿部家の隣人だった栖本(小説では柄本)又七郎が著者とされています。しかし後に、この本が書かれたのは事件から80〜100年後と推定される事がわかりました。当然ながら一次史料としては扱えず、さらに藤本千鶴子氏・山本博文氏などの研究によって、かなりの脚色部分があると判明したのです。
まず阿部弥一右衛門の死に関して。
・弥一右衛門は後追いではなく、他の殉死者の大多数と同じ日に切腹した
・殉死希望者は、忠利ではなく先君の逝去後に跡継の光尚に願い出た
・実は弥一右衛門以外の殉死者も、光尚から殉死の許可を得られなかった
これらは、肥後藩の政務日誌『日帳』に記載されているそうです。新当主の光尚は、殉死は一切禁ずる旨を通達しました。しかし弥一右衛門を含む希望者一同は、君命を守らず切腹したのです。
彼らを止められなかった藩側にも責任はあるとされたのか、殉死者たちの「罪」は黙認のような形になり、子孫への相続も許されました。無論、阿部家のみが特別差別的な扱いを受けた訳ではなかったのです。その後、嫡男の権兵衛を始めとする一族が滅亡へ追い込まれたのは、光尚体制下の新勢力との対立に巻き込まれたのではと考えられており、弥一右衛門の死とはほぼ関係ないようです。
藤本氏によると、弥一右衛門はもともと豊前の惣庄屋の出身で、才覚を見込まれて忠利に抜擢され、千石の高禄を与えられた人物だそうです。もしかすると細川家の譜代の家臣たちの間に、弥一右衛門に対し「農民上がりのくせに…」的な侮蔑と妬みの感情があり、その憎しみが彼の子息の排斥に繋がったのかもしれませんね。
熊本の細川忠利の霊廟の周りには、この時の殉死者19名の墓があり、その中には阿部弥一右衛門の墓も含まれています。鴎外も作中で「上(かみ)では弥一右衛門の遺骸を霊屋のかたわらに葬ることを許したのであるから」とこの事実には触れているのですが、小説の通り弥一右衛門が「主君に嫌われてたくせに、勝手に切腹した不届き者」であるなら、忠利の傍らに葬られるのを許されるのはよく考えれば不自然ですよね。
ちょっと揚げ足取りのようにもなってしまいましたが、多少事実と異なるからといって『阿部一族』の文学的な価値が減ずるわけではもちろんありません!
ちなみに江戸幕府が公式に殉死の禁を制定したのは、弥一右衛門の死から20数年経った寛文3年(1663)のことでした。
・参考書籍=「殉死の構造」
・青空文庫/阿部一族:森鴎外
阿部一族―他二編 岩波文庫
森 鴎外
岩波書店 2007-12-14
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鎌倉公方と関東管領
前回の上杉憲実の記事で、補足として鎌倉公方と関東管領についても説明したかったんですが、長くなってしまうので独立させて記事を書いてみました。
鎌倉(関東)公方とは、室町幕府が関東統治のために置いた出先機関・鎌倉府の長官のことを指し、関八州に甲斐・伊豆を併せた十ヶ国を管轄する役割を負っていました。足利義詮の弟・基氏を初代とし、その後は彼の子孫が世襲しています。そして鎌倉公方の補佐役である関東管領は、初期を除いて上杉氏が代々就任しました。
◆本来の名称
最初、鎌倉府長官は「関東管領」、補佐役のことは「関東執事」と呼ばれていました。
足利持氏が、自分は京の将軍と同格であるとして「公方」と自称し始め、それに伴って関東執事も「関東管領」に呼び方が昇格?した・・・と言われてます*が、これはあくまで鎌倉方での名称で、幕府で正式に認められたものではありませんでした。しかし足利成氏(持氏の子)の時代になると、現状追認なのか「(関東)公方」の名乗りが許されるようになったようです。
(*=関東公方・関東管領の名称は、初代の基氏の時から既に使われていた説もあります)
いちいち使い分けてもややこしくなるので、この記事では以下「鎌倉公方・関東管領」で統一します。
◆将軍家との対立
康暦元年(1379)、室町幕府の管領・細川頼之が失脚したクーデター「康暦の政変」が起こりました。当時の鎌倉公方だった基氏の息子・氏満は、幕府内のドサクサに紛れて挙兵し将軍・義満を討とうと決意。関東管領の上杉憲春は必死で止めますが氏満は聞かず、ついに憲春は諫死して果てます。衝撃を受けた氏満は企てを断念、将軍に対し野心はない旨の書状を義満に送り、幕府と鎌倉府の衝突は回避されたのでした。
20年後の応永6年(1399)周防の守護大名の大内義弘が幕府に対して大規模な叛乱(応永の乱)を起こしますが、義弘と密かに結託していたのが、氏満の子である満兼でした。この時も関東管領・上杉朝宗に諫止されたものの、満兼はそれを振り切って自ら出陣。しかし途中で義弘の敗死を耳にして、やむなく引き返したのでした。そして永享の乱を引き起こした持氏は、この満兼の嫡男にあたります。
こういう訳で、鎌倉公方と京の将軍家は常に緊張関係にありました。彼らの中には「自分たちも尊氏公の子孫なのに、なぜ将軍家より一段下の地位に甘んじないといけないのか」という思いがあったのでしょう。仮に憲実が持氏の反抗をどうにか抑え込んだとしても、いずれは幕府と鎌倉府の直接対決は避けられなかったと思われます。
鎌倉(関東)公方とは、室町幕府が関東統治のために置いた出先機関・鎌倉府の長官のことを指し、関八州に甲斐・伊豆を併せた十ヶ国を管轄する役割を負っていました。足利義詮の弟・基氏を初代とし、その後は彼の子孫が世襲しています。そして鎌倉公方の補佐役である関東管領は、初期を除いて上杉氏が代々就任しました。
◆本来の名称
最初、鎌倉府長官は「関東管領」、補佐役のことは「関東執事」と呼ばれていました。
足利持氏が、自分は京の将軍と同格であるとして「公方」と自称し始め、それに伴って関東執事も「関東管領」に呼び方が昇格?した・・・と言われてます*が、これはあくまで鎌倉方での名称で、幕府で正式に認められたものではありませんでした。しかし足利成氏(持氏の子)の時代になると、現状追認なのか「(関東)公方」の名乗りが許されるようになったようです。
(*=関東公方・関東管領の名称は、初代の基氏の時から既に使われていた説もあります)
いちいち使い分けてもややこしくなるので、この記事では以下「鎌倉公方・関東管領」で統一します。
◆将軍家との対立
康暦元年(1379)、室町幕府の管領・細川頼之が失脚したクーデター「康暦の政変」が起こりました。当時の鎌倉公方だった基氏の息子・氏満は、幕府内のドサクサに紛れて挙兵し将軍・義満を討とうと決意。関東管領の上杉憲春は必死で止めますが氏満は聞かず、ついに憲春は諫死して果てます。衝撃を受けた氏満は企てを断念、将軍に対し野心はない旨の書状を義満に送り、幕府と鎌倉府の衝突は回避されたのでした。
20年後の応永6年(1399)周防の守護大名の大内義弘が幕府に対して大規模な叛乱(応永の乱)を起こしますが、義弘と密かに結託していたのが、氏満の子である満兼でした。この時も関東管領・上杉朝宗に諫止されたものの、満兼はそれを振り切って自ら出陣。しかし途中で義弘の敗死を耳にして、やむなく引き返したのでした。そして永享の乱を引き起こした持氏は、この満兼の嫡男にあたります。
こういう訳で、鎌倉公方と京の将軍家は常に緊張関係にありました。彼らの中には「自分たちも尊氏公の子孫なのに、なぜ将軍家より一段下の地位に甘んじないといけないのか」という思いがあったのでしょう。仮に憲実が持氏の反抗をどうにか抑え込んだとしても、いずれは幕府と鎌倉府の直接対決は避けられなかったと思われます。
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肖像画の謎ふたたび
以前、いわゆる「神護寺三像」について書いたことがあったんですが、最近同像に関する通説肯定派の方のエッセイを読み、また興味が湧いてきたのでまとめてみようかと思ったんだけど…少し調べてみたものの、ちょっと問題が複雑過ぎて私の手には負えんと悟りました(^^; そこで、同様に最近議論されている高野山所蔵の武田信玄の肖像画について触れてみます。
高野山には2種類の信玄像が現存しますが、問題になっているのは成慶院蔵のもの。作者は、能登国出身で安土桃山期に活躍した大物絵師・長谷川等伯。制作年は信玄の晩年である元亀3年(1572)頃と推定されています。
しかし近年「この画像の主は信玄ではない」という説が出て来ました。最初に疑義を呈したのは歴史学者の藤本正行氏。根拠として
この肖像画が信玄像と見なされていたのは、天正4年(1576)武田勝頼が成慶院に送った書状に、信玄の肖像画と遺品を寄進し法要を依頼した内容が記載されていた事が最大の証拠でした。ところが藤本氏の調査によると、後に武田勝信(勝頼の弟・信清の子)が、肖像画と遺品の貸出を成慶院に願い出、その返状に「信玄公御寿像・逍遥軒筆」と注記がついていたというのです。
逍遥軒とは、信玄や信繁の同母弟である武田信廉のこと。画才に優れ、父の信虎や母の大井夫人の肖像を描いていることで知られています。また一説には、高野山持明院に所蔵されている別の信玄の肖像画(上から2番目のもの)も逍遥軒作と言われています。
この記録により、勝頼が成慶院に奉納した信玄肖像画は逍遥軒作であると藤本氏は確信し、絵の行方を調査。結果、世田谷の九品仏浄真寺所蔵の「吉良頼康像」が、実はくだんの信玄像であると結論付けられました。鎧をまとった壮年期の像で、兜の吹き返しに武田菱があり、また脚絆が信玄が愛用したものと似てるのだそうです。
高野山には2種類の信玄像が現存しますが、問題になっているのは成慶院蔵のもの。作者は、能登国出身で安土桃山期に活躍した大物絵師・長谷川等伯。制作年は信玄の晩年である元亀3年(1572)頃と推定されています。
しかし近年「この画像の主は信玄ではない」という説が出て来ました。最初に疑義を呈したのは歴史学者の藤本正行氏。根拠として
などの理由を挙げています。そして研究の結果、本来の像主は能登の守護大名・畠山義続であるという説が発表されました。畠山氏は足利一門で、二引両の使用を許されていたのです。・腰刀の家紋が「武田菱」でなく「二引両」(足利氏の家紋)である。
・信玄は39歳で出家しているのに、剃髪しておらず髷がある姿で描かれている。
・長谷川等伯がこの時期、能登を出国した形跡が伺えない。
・信玄は労咳または癌で死んだとされてるが、その割にふっくらし過ぎで不自然。
この肖像画が信玄像と見なされていたのは、天正4年(1576)武田勝頼が成慶院に送った書状に、信玄の肖像画と遺品を寄進し法要を依頼した内容が記載されていた事が最大の証拠でした。ところが藤本氏の調査によると、後に武田勝信(勝頼の弟・信清の子)が、肖像画と遺品の貸出を成慶院に願い出、その返状に「信玄公御寿像・逍遥軒筆」と注記がついていたというのです。
逍遥軒とは、信玄や信繁の同母弟である武田信廉のこと。画才に優れ、父の信虎や母の大井夫人の肖像を描いていることで知られています。また一説には、高野山持明院に所蔵されている別の信玄の肖像画(上から2番目のもの)も逍遥軒作と言われています。
この記録により、勝頼が成慶院に奉納した信玄肖像画は逍遥軒作であると藤本氏は確信し、絵の行方を調査。結果、世田谷の九品仏浄真寺所蔵の「吉良頼康像」が、実はくだんの信玄像であると結論付けられました。鎧をまとった壮年期の像で、兜の吹き返しに武田菱があり、また脚絆が信玄が愛用したものと似てるのだそうです。
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島津家と将軍家の婚姻(2)〜広大院茂姫
<前回の記事(1)はこちらへ>
竹姫が亡くなった翌年の安永2年(1773)、島津重豪に娘が誕生します。幼名お篤、のち茂姫と名付けられました。同年、御三卿の一橋家にも長男の豊千代が生まれ、竹姫の遺言に基づいて3年後に両者の縁組が整いました。ところが婚約成立後に、豊千代の運命は思いがけずも急転します。
安永8年、10代将軍・家治の嫡男である家基が死去。家治には他に子がなかったため、豊千代が将軍の世嗣になることが決定したのです。
天明元年(1781)豊千代は正式に家治の養君となり、江戸城に入って名を家斉と改めました。それに伴い婚約者の茂姫も一橋家に引き取られ、さらに大奥に入って将来の御台所としての教育を施されて育ちました。
天明6年、家治が逝去して家斉は14歳で将軍に就任。茂姫の実父・重豪は近い将来に将軍の舅の立場を約束されることとなりました。しかし幕府内や他大名の中には、この縁組を苦々しく感じてる者も少なくありませんでした。家光以降代々、将軍の正室は摂家または宮家から迎えており、外様大名の島津家から御台所が出るなど言語道断というわけです。
こうした空気を察知した重豪は「この縁組は浄岸院様のご遺言により、亡き上様(家治)の仰せで決まったものです。しかし御縁女様(茂姫)に養女のお取扱が必要ならば、ぜひ当家と由緒の深い近衛殿の所にしていただけないでしょうか」と幕府に申し出、また自らは隠居して息子に藩主の座を譲ることにしました。
こうして茂姫は近衛家の養女となり、近衛寔子(ただこ)と改名します。そして寛政元年(1789)にめでたく家斉との婚儀が取り行われました。
竹姫が亡くなった翌年の安永2年(1773)、島津重豪に娘が誕生します。幼名お篤、のち茂姫と名付けられました。同年、御三卿の一橋家にも長男の豊千代が生まれ、竹姫の遺言に基づいて3年後に両者の縁組が整いました。ところが婚約成立後に、豊千代の運命は思いがけずも急転します。
安永8年、10代将軍・家治の嫡男である家基が死去。家治には他に子がなかったため、豊千代が将軍の世嗣になることが決定したのです。
天明元年(1781)豊千代は正式に家治の養君となり、江戸城に入って名を家斉と改めました。それに伴い婚約者の茂姫も一橋家に引き取られ、さらに大奥に入って将来の御台所としての教育を施されて育ちました。
天明6年、家治が逝去して家斉は14歳で将軍に就任。茂姫の実父・重豪は近い将来に将軍の舅の立場を約束されることとなりました。しかし幕府内や他大名の中には、この縁組を苦々しく感じてる者も少なくありませんでした。家光以降代々、将軍の正室は摂家または宮家から迎えており、外様大名の島津家から御台所が出るなど言語道断というわけです。
こうした空気を察知した重豪は「この縁組は浄岸院様のご遺言により、亡き上様(家治)の仰せで決まったものです。しかし御縁女様(茂姫)に養女のお取扱が必要ならば、ぜひ当家と由緒の深い近衛殿の所にしていただけないでしょうか」と幕府に申し出、また自らは隠居して息子に藩主の座を譲ることにしました。
こうして茂姫は近衛家の養女となり、近衛寔子(ただこ)と改名します。そして寛政元年(1789)にめでたく家斉との婚儀が取り行われました。
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