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上杉謙信の養子たち(2)~その他の人々
◆謎多き人物・上条政繁(生没年不詳)
正確な生年は不詳ですが、景勝・景虎よりはやや(10歳くらい?)年長だったようです。
政繁は能登守護の畠山氏出身の人物で、人質として越後に来て謙信の養子となり、上杉氏の一門である上条(じょうじょう)家を継いで、謙信の姪(景勝の姉妹/景虎に嫁いだ女性とは別人)を娶りました(*1)。後に出家して宜順と号しています。
・・・というのが彼の経歴の定説ですが、越後に来た経緯や謙信の養子になった時期については諸説あり、中には政繁の謙信養子説を疑問視する見方もあるようです。また彼は、近年まで後述の畠山義春と同一人物とされていた(政繁が改名し義春と名乗ったと思われていた)ため、政繁自身の事蹟がわかりにくくなっている部分もあるのです。
天正3年(1575)の上杉家臣団の構成を記した「御軍役帳」では、景勝・山浦国清(後述)・上杉景信(古志長尾家当主)に継いで、政繁は第四位に名を連ねており(景虎は記載無し)、一門中で重く見られていた事がわかります。
天正6年に起こった御館の乱では、景勝方に味方し武功を挙げました。乱後も景勝の重臣として仕えましたが、天正14年(1586)7月に突如、妻子を置いて単身出奔してしまいました。理由については、信濃国の統治を巡って景勝と対立したとも、景勝側近として台頭してきた直江兼続との間に軋轢が生じた結果とも言われています。
その後政繁は上方に出て秀吉に仕えたと伝えられていますが、これ以降の記録は前述の通り畠山義春と混同されている可能性が高いため、政繁がいつまで活動・存命していたかははっきりわかっていません。
伝説の軍師の実像
山梨日日新聞「「山本菅助」への信玄書状を発見」
戦国時代の武将武田信玄(晴信)に仕えた「軍師・山本勘助」が実在したか注目される中、信玄が家臣山本菅助にあてた書状が、群馬県安中市の民家で見つかった。山梨県立博物館の調査によると、信玄が菅助に褒美を与えたり、家臣の見舞いを命じた内容の2通で、信玄の花押(署名)が入り、「山本菅助」と記されていた。これまで菅助の存在を示す史料は1969年に北海道で見つかった、信玄が奥信濃の市河氏にあてた書状「市河文書」だけだった。県立博物館は「『山本菅助』という名の人物がいたことは間違いなく、菅助の人物像や功績などを研究する上で貴重な史料」としている。
名前の字が異なる「山本勘助」は、江戸時代の軍事書「甲陽軍鑑」などに有能な軍師として登場するが、実在を裏付ける学術的な史料はなく、一家臣としての菅助の存在を示す唯一の史料が市河文書だった。今回見つかった文書には市河文書と同じ「菅助」の名が記され、紙の材質や文書の書式などからも信玄が活躍した16世紀後半のものでほぼ間違いないという。
新たに見つかった文書を所蔵していたのは、安中市原市在住の真下(ましも)正貴さん。昨年5月、蔵の整理中に「信玄公御證文」と書かれた漆塗りの木箱を発見。中には5通の文書が年代順に張られた巻物1本が入っていた。
このうち信玄が菅助にあてた書状は2通。業績を褒め恩賞を与える内容と、重篤な状態にある家臣「小山田(出羽守信有)」の見舞いを命じる内容で、1通は「菅介」の字が使われていた。
武田家が菅助あてに出した朱印状1通では、菅助に足りない武具の支度を指示するなど、信玄が家臣として信頼していた様子がうかがえる。
残る2通は、武田家が菅助の後継者といわれる「山本十左衛門尉」に軍役を命じた朱印状と、徳川家康の次男「結城秀康」が菅助の子孫と思われる「山本平一」にあてた見舞いの礼状だった。この2通からは菅助の子孫の存在も明確になった。
調査を担当した県立博物館学芸員の海老沼真治さんは「菅助は上野国(現群馬県)から東信濃の動静に精通しており、高崎藩士の中に山本菅助の子孫を名乗る人物がいたことなどから、菅助と群馬は深く関係していたと考えられる。多くの研究者の意見を聞きながら、1通ごとに史実と照らし合わせてより詳しく研究したい」と話している。(後略)
上杉謙信の養子たち(1)~北条から来た男
上杉景虎は、相模の虎と呼ばれた名将・北条氏康の七男(一説に八男)。正確な生年は判明してませんが、一般的な書籍等では天文23年(1554)生という記載がよく見られます。もしこの説が正しければ、後にライバルとなる上杉景勝より一つ年上ということになります。
彼の幼少期については、「箱根早雲寺で喝食を勤め、その後北条氏が三国同盟を結んでいた武田信玄の養子となり三郎と称するも、同盟の破綻によって北条に戻った」ーーという話が従来は有名でした。
しかし当の武田側の同時代史料に、三郎が信玄の養子となった話が全く記されていないという事実が、長塚孝氏や黒田基樹氏の研究で明らかにされました。そのため最近ではこの説に否定的な見解も多く、少年時代のことははっきりわかっていません。
確実と思われる記録上に三郎が登場するのは、永禄12年(1569)末に一族の北条幻庵の養子となった時のことです。幻庵は氏康の叔父にあたり、北条氏の長老的存在でした。二人の息子が武田との合戦で討死してしまったので、三郎を婿養子に迎え入れて後継者と定めたのです。
ところがそれから半年も経たない翌年の4月、三郎の姿は相模から遠く離れた越後春日山城にありました。
武田との同盟を破棄した氏康は、越後の上杉謙信と結んで信玄に対抗する手段を取りました。そして同盟の証に、実子のいない謙信の養子として北条方から三郎が送り込まれることに決定したのです。
当初は、三郎の長兄である氏政の次男・国増丸(後の太田源五郎)が候補に挙っていましたが、「幼子を手放すのは忍びない」との氏政の懇願により、三郎に変更されたと言われています。近年の櫻井真理子氏の研究では、もし北条が武田から攻め込まれた時に、幼い国増丸よりもある程度の年齢に達している者の方が謙信への援軍依頼が取り次げるとして、三郎に白羽の矢が立ったのではという見方もあります。
飛鳥時代の天文学
asahi.com「日本の天文観測、推古朝から 国立天文台が日本書紀分析」
日本での継続的な天文観測は推古朝(飛鳥時代前半)の7世紀初頭に始まっていたとする研究結果を、国立天文台のチームが日本書紀の分析からまとめた。日食などの観測が必要となる暦づくりは皇帝の独占事業で、中国は影響下にあった周辺国に禁止していた。日本に律令制が芽生えたのは680年ごろとされるが、その半世紀以上前から、独自の暦づくりへ、布石を打とうとしていた可能性があるという。
天文台の谷川清隆特別客員研究員らは日本書紀に記録がある日食、月食、彗星(すいせい)、月が星を隠す現象などについて中国の記録と比較した。
その結果、620年にオーロラが記録されたのが最初でそれ以前には天文記録がないこと、620年以降には、日本でしか観測できない現象が2件、中国でも観測可能だが中国には記録のないものが1件あった。また、同年以降、中国と日本の両方で観測された彗星が5個あるが、記述の作法が違い、中国の記録の引き写しではなく、日本独自の観測の可能性が高いという。
昼間に突然暗くなる皆既日食は誰でも気づくが、部分日食やオーロラなどは、観測の知識と技術がある専門家が空をずっと監視していないと記録できない。そのため、620年ごろから継続的な天文観測が始まったと結論づけた。
古代、中国と主従関係を結んだ周辺国は、貢ぎ物を贈り(朝貢)、中国の暦を使う義務があった。5世紀の日本が倭(わ)国王として朝貢していた記録が中国にある。だが、607年に派遣された遣隋使は「日出づる処の天子」で始まる対等な国家とも取れる国書を持参したとされる。
谷川さんは「国書を独立宣言と解釈すれば、暦づくりのために独自の天文観測が必要になったのではないか」と話している。
律令体制下では、天文や占いをつかさどる役所「陰陽寮」が置かれ、専門職の天文博士、暦博士が天文観測と暦づくりを担当するようになった。(鍛治信太郎)
7世紀初頭から既に本格的な天体観測が実施されていたのもさることながら、日本でオーロラが観測可能という事に驚かされました。北海道ならまだわかりますが、畿内で見られるなんてちょっと想像がつきません。
ところが記録を紐解いてみると、実は何度かオーロラの出現が記されているようです。18世紀後半には長崎で目撃された記録が残っており、さらに昭和33年(1958)には関東や中部など広範囲で発生したことがあったそうですから、こちらは覚えている人がいるかもしれませんね。
ただ日本で観測可能なのは、暗赤色の「低緯度オーロラ」というもので、アラスカなどで見られるカーテン状に広がり緑色に光るオーロラとは異なるそうです。
天文学というと暦の作成に必須な訳ですが、推古朝より約半世紀後の斉明6年(660)には中大兄皇子により日本初の漏刻(水時計)が、天武4年(675)には占星台と呼ばれた日本最古の天文台が造られています。国内独自の天文観測を続けてきた成果なのかもしれませんね。そして占星台造営の翌年には、占筮・占星・漏刻を管轄する公的機関として陰陽寮が設立されました。
にも関わらず、正式な暦は中国から輸入したものが長きに渡って使い続けられていたのです。日本人の手により編纂された暦が用いられるのは実に一千年の後、貞享元年(1684)渋川春海が作成した「貞享暦」が採用されるのを待たなくてはならなかったのでした。
*参考サイト=・日本でも赤いオーロラが見られた!(NAOニュース)
・ジオ・クリエイション 日本から見られるオーロラ
*関連記事=かに星雲と藤原定家
闇に葬られた皇族(2) ー 伊予親王
桓武天皇の血縁者で政争の犠牲になった人物といえば、まず第一に挙げられるのが彼の皇太弟でありながら、藤原種継暗殺事件の疑いをかけられ憤死した、崇道天皇こと早良親王がいますね。その経緯と、彼の怨霊の祟りが長く怖れられたことは割と有名かと思うので、ここでは早良親王と同様の末路を辿った桓武天皇の皇子・伊予親王の話を紹介します。
◆桓武に愛された皇子
伊予親王の正確な生年は不詳ですが、延暦11年(792)加冠の儀を受け元服している記録があります。延暦5年(786)生である異母兄弟の大伴親王(後の淳和天皇)・葛原親王が、延暦17年(798)に13歳で加冠の儀を受けている事から推測すると、伊予親王はおそらく宝亀12年(780)前後の生誕ではないかと思われます。年齢的には、安殿親王(後の平城天皇)に次ぐ二番目の皇子になります。母は藤原吉子といい、藤原南家出身の女性でした。
伊予親王は父の桓武天皇に深く愛されていたと伝えられており、天皇は遊猟や巡幸に際して親王と吉子のもとを度々訪れ、歓楽を共にしたことが『日本紀略』などに記されています。その他にも天皇より帯剣を許可されたり、『日本後紀』には延暦23年(804)に近江国の土地を賜ったという記事も見られます。
延暦25年3月に桓武天皇が亡くなり、安殿親王が平城天皇として即位。天皇の同母弟である神野親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟に立てられ、伊予親王は中務卿兼太宰帥(大宰府の長官)に任ぜられました。翌年5月、天皇が神泉苑(大内裏の庭園)に行幸した際に、伊予親王は奉献を行って宴会にも参加しており、兄帝との関係も上手くいってるかに見えました。
しかしその5ヶ月後、親王の運命は急変します。
◆伊予親王の変
大同2年(807)10月28日。「藤原宗成が伊予親王へ謀反を勧めているらしい」という情報を大納言・藤原雄友(親王の母方の伯父)が聞きつけ、驚いた雄友は右大臣の藤原内麻呂に報告。また親王自身も、宗成に誘われた件を即座に平城天皇へ奏上しました。
宗成は連行され取調べを受けますが、彼が「伊予親王こそが計画の首謀者だ」と主張したため、親王は邸を多数の兵により囲まれ、捕われの身となってしまいます。数日後、母の吉子と共に大和の川原寺に幽閉。親王と吉子は無実を主張しますが訴えは通じず、それどころか飲食を断たれる仕打ちを受けます。
11月11日、親王は解任されその位を廃されました。前途を悲観した母子は翌日、自ら毒を仰ぎ命を断つという悲劇的な結末を迎えました。
宗成は流刑が決定し、また伯父の雄友や親王の3人の子供たちも、連座として遠流になりました。
闇に葬られた皇族(1) ー 井上内親王
彼女は内親王という高貴な生まれながら、波瀾万丈で悲劇的な人生を余儀なくされました。
◆日陰の内親王から皇后へ
井上内親王は養老元年(717)、聖武天皇(当時は皇太子)の第一皇女として誕生しました。
母は県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)といい、同母の弟妹には不破内親王(?~795?)と安積親王(728~744)がいます。また藤原不比等の娘・光明子(後の光明皇后)を母とする阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)は、一つ年下になります。
彼女は幼くして、伊勢神宮で巫女として仕える斎王に選ばれ、神亀4年(727)わずか11歳で家族と別れ伊勢に下向します。その後15年以上の長きに渡り神に奉仕しますが、弟・安積親王の死を受けて奈良に戻る事になりました*1。
安積親王は聖武天皇の唯一の男子*2で、本来なら皇太子とされるべきですが、何としてもそれを避けたかったのが藤原氏。権力を独占し始めていた彼らにとって、藤原氏の母を持たない安積は甚だ好ましくない存在だったのです。彼らはまず光明子を強引に立后し、天平10年(738)には阿部内親王が初の女性皇太子に定められました。
6年後、安積親王は難波への行幸の途中、急な発病により17歳の若さで没しました。死因は公的には脚気とされていますが、一説には藤原仲麻呂に殺されたとも言われています。
さて井上内親王は帰京後しばらくして、白壁王という皇族の許に嫁がされました。
彼は天智天皇の孫に当たりますが、当時の皇統は天武天皇の子孫であったため、出世コースとは程遠い存在。「変に有力者に縁付かせると、彼女を担いで反乱を起こされる可能性がある。凡庸で冴えない白壁王に押し付けておけば安心だろう」と、適当に見繕われたのかもしれません。
結婚後は、他戸親王と酒人内親王という二子をもうけ、それなりに平穏に暮らしていたと思われます。また白壁王の官位も、天皇の姉の夫ということで順調に昇進するようになりました。
神護景雲4年(770)、称徳天皇が崩御。後継者として藤原氏一門が推挙したのは、なんと他ならぬ白壁王でした。彼は光仁天皇として即位し、井上内親王は皇后に、そして息子の他戸親王が皇太子とされました。
若くして非業の死を遂げた弟や、8年前に亡くなっていた母のことを思うと、彼女の胸中には複雑ながらも感慨深いものがあったのではないでしょうか。
◆運命の暗転
しかし、井上内親王の栄華の日々はつかの間のことでした。
2年後、彼女は夫を呪詛したという罪で皇后位を剥奪され、同時に他戸親王も皇太子を廃されてしまったのです。さらに翌年、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪い殺した罪にも問われ、母子共に幽閉されてしまいます。
そして宝亀6年(775)4月27日、2人は幽閉先で亡くなりました。同日の死亡というのはいかにも怪しく、おそらく自然死ではないでしょう。
そもそも、光仁天皇は即位した時すでに62歳。仮に夫婦仲が冷えきっていたとしても、わざわざ呪詛なぞせずとも何年かやり過ごして待てば、言葉は悪いですがそのうち寿命がくるんじゃないでしょうか。他戸親王がいずれ皇位に就くことも決定していますし。
また難波内親王の件についても呪詛すべき理由は見当たらず、井上内親王母子は何らかの謀略によって陥れられた可能性が濃厚なのです。
姫路城
以前、城内にある歴史博物館に行った時に記事を書いたことがありましたが、その時は天守閣の外観を何枚か撮影したのみで内部の見学はしなかったのと、内容もあまり詳しいものではなかったため、今回改めて書き直してみました。

(*クリックすると画像が拡大します)
表口にあたる大手門。往時の城には、防備のため全部で3つの門が構えられ、この門は「桐二ノ門」と呼ばれていたそうです。明治初期、兵舎になった時に洋風の門に変えられましたが、昭和12年(1937)現在の姿に復元されました。
姫路城の歴史は、赤松則村(円心)が播磨国姫山に築いていた砦を、正平元年(1346)彼の息子の貞範が城の形体に改めたのに始まります*。赤松氏の一族・小寺氏が城代に定められ、代々世襲しましたが、戦国時代に入ると小寺氏の被官である黒田氏が城主となりました。
天正8年(1580)、黒田孝高の勧めで、羽柴秀吉が西国攻略の拠点として入城。秀吉は3層の天守閣を築き、城下町を整備しました。現在の城郭は、慶長6年(1601)関ヶ原の合戦の恩賞として播磨を与えられた池田輝政が、8年の歳月を費やして改修したものです。
池田氏が転封になった後は、本多氏・松平氏・榊原氏・酒井氏と城主は目まぐるしく変わりましたが、山陽道上の要地として親藩や普代の大名が統治しました。
*=最近の研究では、築城は16世紀中頃の黒田重隆・職隆(孝高の祖父と父)の時とする説もあるそうです。
生き残り義士の末裔
MSN産経ニュース「赤穂義士の寺坂吉右衛門の子孫が出世」
赤穂義士でただ一人切腹せずに天寿をまっとうした寺坂吉右衛門。足軽の身分だったが、子孫は主君の側近として仕える武士に“出世”していたことを記す書状が、兵庫県赤穂市の大石神社で見つかった。(中略)
書状は、大石内蔵助の一族の流れをくむ子孫が、同神社に寄贈した「弘前大石家文書」の一部。寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた高知新田藩の山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせたのに対し、山内家の家臣が答えた書状とみられる。文面には「今は3代目の吉右衛門で、婿養子のため血脈は続いていないが、主君の側頭を務めている」などとあった。側頭は主君の近くに仕える身分。
寺坂は、義士が吉良邸討ち入り後、泉岳寺に立ち寄った際に姿がなく、その後、寺男を経て山内家に仕えたことが知られている。(中略)
調査した同神社の佐藤誠非常勤学芸員は「足軽だった寺坂が討ち入り後、他藩に仕官でき、孫が側近にまで出世していたことは、当時の社会が寺坂に対して義士としての功績を認めていた証拠」と話し、忠臣蔵資料に詳しい赤穂市教委市史編さん室の小野真一学芸員は「寺坂の子孫の様子を記す史料は珍しい。孫が主君の側近にまでなったということは、当時の“義士ブランド”の価値を知るうえで興味深い」と話している。
寺坂吉右衛門が逐電した真相については定かでないものの、一般的には「大石内蔵助の命により、事の顛末を浅野家の人々に伝えるため逃亡した」という説が取られる事が多いようです。
この書状も、大石の一族の子孫が寺坂家について尋ねたものの返書ということで、寺坂が裏切者ではなく義士の一員として認識されていた事を表しているのではと思います。
寺坂はその後、旧主・吉田忠左衛門(四十七士の一人)の娘婿に奉公した後、東京麻布にある曹渓寺の寺男となり、最後は土佐山内家の一族である主膳豊清に仕えたそうです。この豊清の養子・豊産(とよただ)が、高知新田藩の初代藩主になったので、寺坂の子孫もそのままついて行ったんでしょうね。
ところで忠臣蔵といえば、先日こんな映画製作のニュースが飛び込んできました。
バラエティ・ジャパン | キアヌ・リーヴスがハリウッド版「忠臣蔵」に主演決定
日本の伝統的な「忠臣蔵」に『ロード・オブ・ザ・リング』のようなファンタジーの要素と、『グラディエーター』のようなバトルシーンをミックスした作品になるという。
どう考えても、とてつもないトホホ映画になる予感しかしないんですけど・・・。
バトルシーンはまだしも、何をどうすれば忠臣蔵にファンタジー要素を加えられるのでしょうか(笑)
ハリウッド的には「『レッドクリフ』に負けられん」て感じなんですかねー?
まあ、よい意味で期待を裏切ってくれる出来になればいいですね(無理やりなまとめ)
*関連記事=ドラマ『最後の忠臣蔵』
東京の化物屋敷
着工から数年が経過し、建物はとうに完成しているように見えますが、いつまで経っても工事は続けられています。それどころか、とても普通の人間が住める家とは思えないような、奇怪な外見を露にし始めたのです。
やがて近隣住民たちは、あまりの異様さにこの家を「牢屋」「化物屋敷」などと呼ぶようになりました。
◆理解不能な建築
その「化物屋敷」は、どれだけ変ちくりんな建物だったかといいますと。
・不気味な玄関ホール…二階まで吹抜けになっているが照明はなし
人の手の届かない高さに、帽子等を掛ける金具が大量に打ち付けられていた
・奇妙な床の間…傾斜のついた違い棚&ナイアガラの滝の写真を貼っていた
・使えない押入れ…奥行が30cmしかなく、何も入らない
・変わった素材の壁…虫除けと称し、壁に黒砂糖と除虫菊の粉末を塗り込んでいた
・行き先のない梯子…土蔵の床から天井まで垂直に取り付けられている
・和洋合体風呂…西洋式バスタブと五右衛門風呂を並べている(洗い場はなし)
・恥ずかしい便所…扉が下半分のみ、しかも全ての部屋から丸見えの状態
・のぞき窓?…板壁をくり抜いてガラスをはめ込んだ節穴が無数にあった
・・・等々、他にも例を挙げていけば書ききれないほど。見た目にも実用的にも、何の意味があるのかわからない迷宮のような構造だったそうです。
さてこの化物屋敷、何年もダラダラと増改築が続けられていましたが、昭和11年にある事情で邸の主人が不在となり、その時点で建築は中絶。そして2年後にはあっけなく取り壊されてしまいました。
未完に終わったものの、日本の建築史上でかつて類のないものであったこの邸は、「二笑亭」の通称で伝説的な存在となっています。
二笑亭の表玄関。
中先代の乱(3)~その後の北条時行
◆南朝への帰順
北条時行の名が次に歴史上に現れるのは、中先代の乱から2年経った延元2年(1337)7月のことです。
『太平記』によると、時行は吉野の後醍醐天皇のもとに使者を送り、南朝への帰順を願い出ました。
「我が父・高時は先年滅亡しましたが、それは臣たる道をわきまえなかった結果なので、私は帝を少しもお恨みしておりませぬ。足利尊氏や新田義貞も、勅命により行動したのですから、北条に刃を向けた件について憤りはありません。しかし尊氏は、いまや朝敵であります。そもそも彼が現在の地位にあるのは、北条が足利家を優遇したからこそ。なのに尊氏はその恩を忘れている上、今また帝に背くという大罪を犯しています。故に我ら一族は、今後は足利兄弟のみを敵としようと決意いたしました。私は不忠の父の子ですが、御赦しの綸旨を賜われば、帝の臣下として喜んで働く所存です。」
書状の内容を伝え聞いた後醍醐天皇は、朝敵恩赦の綸旨を下すことを認めた―とあります。
この頃の時行はまだせいぜい11~12歳の少年(*1)なので、書かれている内容はおそらく本人の意思というよりも、側近たちの差し金なのでしょう。朝廷や新田氏を全く恨んでなかったとは思えませんが、足利尊氏こそが最も許し難い存在であるという件には、時行一党の本音が含まれているのではと感じます。
◆足利方との戦い
正式に南朝の武将となった時行は、京都奪回のため奥州から西上してきた鎮守府将軍・北畠顕家の軍に加わりました。北畠軍は怒濤の勢いで進撃し、翌年1月の美濃青野原(後の関ヶ原)の戦いで足利軍に勝利。ところが京を目前にしながら、顕家は進路を伊勢に変更しました。長い遠征で兵力が減少・疲弊していたためとも、援軍を命じられた新田義貞に功を奪われるのを顕家が嫌ったとも言われています。
北畠軍の運命は暗転し、伊勢から伊賀、大和へと軍を進めたものの、形勢はジリ貧となっていきます。そして5月、和泉堺浦で高師直率いる大軍に敗れ、顕家は21歳で戦死しました。しかし時行は辛うじて追手を逃れます。
2年後の暦応3年/興国元年(1340)6月、時行は諏訪頼継(頼重の孫)ら旧臣と共に、信濃伊那の大徳王寺城で兵を挙げました。しかし間もなく信濃守護・小笠原貞宗の軍に城を包囲され、4ヶ月後の10月23日に大徳王寺城は落城(*2)。時行はまたもや潜伏を強いられることとなるのです。
中先代の乱(2)~20日間の統治者
◆鎌倉へ進軍
西園寺公宗の陰謀事件が発覚した翌月の建武2年(1335)7月。北条時行を大将に押立てた諏訪、滋野、三浦氏などによる軍が、信濃で挙兵しました。京での計画が頓挫しようが、最早後に引く訳にはいかなかったのでしょう。
7月14日、時行軍は青沼において信濃守護・小笠原貞宗と戦い、近隣の支持勢力を糾合しつつ武蔵へと入り、たちまちのうちに鎌倉へ迫りました。『太平記』では兵の数五万余騎と伝えており、誇張があるとしても軍勢は相当数に膨れ上がっていたようです。
当時鎌倉は、足利尊氏の弟・直義が管轄していました。彼はただちに鎮定軍を差し向けますが大敗を喫し、渋川義季(直義の義弟)・小山秀朝らの有力武将を失ってしまいます。やむを得ず直義自ら出陣するものの再度撃破され、ついに一旦鎌倉から撤退することを余儀なくされました。
この時鎌倉では、後醍醐天皇の皇子・護良親王が、皇位簒奪を企てたという疑いをかけられ寺に幽閉されていました。直義は親王が時行軍の手に渡ってしまう事を警戒し、退却直前に家臣を使わし親王を斬ってしまいました。
◆つかの間の勝利
7月25日、時行は鎌倉へ入りました。父の高時を始めとする一族が炎の中で命を絶って以来、2年2ヶ月ぶりの帰還です。早速この父祖代々の故地で、北条氏政権の復活が宣言されました。
8月12日、時行の奉行人が連署した文書に、建武ではなく「正慶4年」という年号が記載されています(「南北朝史100話」)。正慶とは、かつて鎌倉幕府が後醍醐天皇を隠岐に流し光厳天皇を擁立した時に使用していた年号で、建武新政以前への回帰を示しています。
三河まで退いた直義から報せを受け取った尊氏は、直ちに時行軍征伐の許可を後醍醐天皇に願い出ます。同時に彼は「征夷大将軍と総追捕使への任官」を奏請しますが、武家政権樹立という尊氏の野望を察した天皇は、要請を一切拒否しました。
8月2日、尊氏は天皇の許しを得られぬまま、独断で出発します。直義軍と合流し、8月9日に遠江での戦いに勝利したのを皮切りに、その10日後にはあっさり鎌倉の奪回に成功。北条氏再興を謳った反乱軍が鎌倉を占領したのは、わずか20日ほどのことでした。
諏訪頼重ら時行軍の中心武将43名は、勝長寿院で自刃して果てました。遺骸はみな顔の皮を剥いであったため、誰が誰だか見分けがつかず、話を聞いた人々は「おそらく北条時行も一緒に自害したのだろう、かわいそうに」と哀れんだといいます。しかしこれは、時行を無事に逃すために、彼がここで死んだと見せかける策略でした。
中先代の乱(1)~勃発までの経緯
乱そのものは20日ほどで鎮圧されましたが、この戦いにより二つの重要な事件が誘発され、以降の南北朝動乱の流れに大きな影響を与えたのです。
◆父と兄との別れ
元弘3年/正慶2年(1333)の5月28日、新田義貞率いる大軍に総攻撃を受け、北条一族数百名は東勝寺で自害しましたが、高時の2人の息子・邦時と亀寿丸はひそかに鎌倉を脱出します。兄の邦時は、母方の伯父である五大院宗繁に託されましたが、宗繁が裏切って新田軍に密告したため捕えられ、わずか9歳で処刑されてしまいました。
いっぽう亀寿丸は、高時の弟・北条泰家の計らいで、家臣の諏訪盛高に護られ無事に信濃へ落ち延びました。信濃は北条氏が代々守護として支配した国であり、また諏訪社の神官である諏訪氏は北条譜代の家臣だったのです。当主の諏訪頼重に匿われた亀寿丸はこの地で元服し、相模次郎時行と名乗りました。
◆相次ぐ北条残党の反乱
鎌倉幕府滅亡後も、北条氏の一族・旧臣は断続的に各地で兵を挙げ、新政権への反抗を試みていました。
ひとつずつ詳細を書くと長くなるため、乱の起こった場所と年月、主な首謀者のみ記しておきます。
これらの挙兵には、北条一族・家人の他に地元の豪族も参加している場合があり、建武の新政への強い不満が読み取れます。特に奥州・紀州・北九州はかなりの規模の反乱でしたが(紀州では楠木正成が討伐に赴いている)、結局全て鎮圧されています。・奥州北部(1333年冬~1335年1月) 名越時如、安達高景
・南関東(1334年3月、8月) 3月=渋谷氏、本間氏 8月=葛西氏、江戸氏
・北九州(1334年1月~7月) 規矩(きく)高政、糸田貞義
・日向(1334年7月) 遠江掃部助三郎、同四郎
・越後(1334年7月) 小泉持長、大河将長
・紀州(1334年10月~1335年1月) 六十谷(むそだに)定尚
・長門(1335年1月) 北条上野四郎
・伊予(1335年2月~5月) 赤橋重時
阿部一族の悲劇の真相
いわゆる「阿部騒動」は本当に起こった事件ではありますが、小説と事実とは少し異なる部分があるのはあまり知られていないようです。
『阿部一族』のあらすじを一応紹介しておくと
―肥後藩主・細川忠利の死に際して、重臣の阿部弥一右衛門は殉死を願い出るが、彼を煙たがっていた忠利は許可せずに息を引き取った。周囲から卑怯者呼ばわりされた弥一右衛門は、生き恥を晒すわけにいかないと切腹したが、殉死でなく犬死と見なされて遺族は差別的な扱いを受ける。屈辱に耐えかねた阿部一族が取った行動は― という物語です。
鴎外が執筆の参考とした史料は『阿部茶事談』という書物で、作中にも登場する阿部家の隣人だった栖本(小説では柄本)又七郎が著者とされています。しかし後に、この本が書かれたのは事件から80~100年後と推定される事がわかりました。当然ながら一次史料としては扱えず、さらに藤本千鶴子氏・山本博文氏などの研究によって、かなりの脚色部分があると判明したのです。
まず阿部弥一右衛門の死に関して。
・弥一右衛門は後追いではなく、他の殉死者の大多数と同じ日に切腹した
・殉死希望者は、忠利ではなく先君の逝去後に跡継の光尚に願い出た
・実は弥一右衛門以外の殉死者も、光尚から殉死の許可を得られなかった
これらは、肥後藩の政務日誌『日帳』に記載されているそうです。新当主の光尚は、殉死は一切禁ずる旨を通達しました。しかし弥一右衛門を含む希望者一同は、君命を守らず切腹したのです。
彼らを止められなかった藩側にも責任はあるとされたのか、殉死者たちの「罪」は黙認のような形になり、子孫への相続も許されました。無論、阿部家のみが特別差別的な扱いを受けた訳ではなかったのです。その後、嫡男の権兵衛を始めとする一族が滅亡へ追い込まれたのは、光尚体制下の新勢力との対立に巻き込まれたのではと考えられており、弥一右衛門の死とはほぼ関係ないようです。
藤本氏によると、弥一右衛門はもともと豊前の惣庄屋の出身で、才覚を見込まれて忠利に抜擢され、千石の高禄を与えられた人物だそうです。もしかすると細川家の譜代の家臣たちの間に、弥一右衛門に対し「農民上がりのくせに…」的な侮蔑と妬みの感情があり、その憎しみが彼の子息の排斥に繋がったのかもしれませんね。
熊本の細川忠利の霊廟の周りには、この時の殉死者19名の墓があり、その中には阿部弥一右衛門の墓も含まれています。鴎外も作中で「上(かみ)では弥一右衛門の遺骸を霊屋のかたわらに葬ることを許したのであるから」とこの事実には触れているのですが、小説の通り弥一右衛門が「主君に嫌われてたくせに、勝手に切腹した不届き者」であるなら、忠利の傍らに葬られるのを許されるのはよく考えれば不自然ですよね。
ちょっと揚げ足取りのようにもなってしまいましたが、多少事実と異なるからといって『阿部一族』の文学的な価値が減ずるわけではもちろんありません!
ちなみに江戸幕府が公式に殉死の禁を制定したのは、弥一右衛門の死から20数年経った寛文3年(1663)のことでした。
・参考書籍=「殉死の構造」
・青空文庫/阿部一族:森鴎外
阿部一族―他二編 岩波文庫
森 鴎外
岩波書店 2007-12-14
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悩みの種のサイコロ
京都新聞「堀河院跡から平安後期のサイコロ 白河上皇悩ませた?」
院政を始めた白河上皇が住んだ京都市中京区の堀河院跡の発掘調査で、平安後期のサイコロが出土していたことが17日までに分かった。賭博に興じた貴族らの日常がうかがえる。
市立音楽高校移設に伴い、旧城巽中跡地を京都市埋蔵文化財研究所が昨年調査、11世紀中ごろ-後半の池跡などが見つかっている。
サイコロは池跡近くの柱穴から出土。素焼きの陶製で一辺1.6センチの立方体。目は失われていたが、転がりやすいように、角は丸みを帯びていた。
平家物語によると、権勢を極めた白河上皇は「鴨川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師だけは思いのままにならない」と嘆いたとされる。担当者は「上皇を悩ませた賽の一つだろうか」と話している。
この白河上皇の有名な台詞は、平家物語の巻一「願立(がんだて)」に出てきます。
延暦寺などの有力寺社が強訴に及ぶ様の脅威を描いており、その中で『賀茂河の水、双六の賽、山法師。是ぞわが心にかなはぬもの』と白河院が語った言葉を引き、院庁の権力をもってしても神威と強力な僧兵をバックにした山門の抑制は容易でなかった事情を表しています。
さて、今回出土した「双六の賽」ですが、この意味は「双六賭博が大流行し、いくら取り締まっても埒が空かない」事かと思い込んでいたのですが、それとは別に「上皇自身の双六の腕前の下手さを嘆いている」という解釈もあるようですね。
白河院の享楽的な性質から考えると、後者の解釈の方が相応しいかな?という気がしないでもないです(^^;
ちなみに堀川院は平安京の名邸の一つとされていましたが、惜しくも白河上皇の晩年に焼失してしまったそうです。
跡地は二条城の東隣に位置し、京都国際ホテル前に石碑が、全日空ホテルの駐車場内には庭園の滝口が復元されています。
・参考サイト=平安京探偵団 堀川院跡
3×9=24??
神戸新聞「平安人は勉強家? 九九を何度も練習 豊岡の木簡」
兵庫県豊岡市日高町の祢布ケ森遺跡で大量出土した木簡の中には、九九の練習で計算間違いをしているものがあった。調査した豊岡市教委は「当時の官吏の人間味が感じられる」と話している。
木簡は勉強するとき、現代のノートのようにも使用していたという。間違いが見つかった木簡は長さ31.6センチ、幅2.9センチの細長い形で、裏面に九九を記していた。
現代とは逆に大きい数の九九から始め、六九から四九までを飛ばした後、「三九廿四(さんくにじゅうし)」と間違えている。
見つかった203点の大半は、この木簡のように文字や計算を練習した跡だった。表面を削って再利用できるが、木片も多く確認されており、繰り返し勉強した様子がうかがえる。(後略)
<関連記事>
・YOMIURI ONLINE:「詩経」の注釈書かれた木簡発見…兵庫・祢布ヶ森遺跡
・神戸新聞:木簡大量出土「冗談が本当に」 驚く研究者
木簡は810年前後のものと推定されるようで、都ではちょうど「薬子の変」が起こった頃にあたりますね。
ところで、九九がこんなに古くから日本に伝わり使用されていたとは、このニュースを見るまで私は知りませんでした。
調べてみると九九が考案されたのは、中国の春秋時代(B.C.770年~B.C.403年)にまで遡るとのこと。なんと二千年以上も昔からあったとは!で、日本に入ってきたのは飛鳥時代、もしくは奈良時代と推定されているようです。かの「万葉集」の中にも、九九の読み方を掛け言葉的に織り込んでいる歌がいくつも見られます。
若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國 (巻十一 2542番)
ーー若草の にひた枕を 巻きそめて 夜をやへだてる にくく(憎く)あらな國
「くく」と読ませる箇所に「八十一」という漢字を当てています。ちなみに大意は「新妻がかわいくて仕方がないので、たとえ一夜でも離したくない」ということだそうで。
今回のように木簡に九九が記されているのは、実は奈良時代のものにも見つかっているそうです。書物にまとまった形として記されている例では、源為憲という人物が天禄元年(970)に著わした、貴族の子弟のための教科書「口遊(くちずさみ)」の中の記述が、最も古いものとのことです。
当初は大きい数の「九九=八十一」から始まる形式だったため、一の位から始まるように変わっても、「九九」の呼び方だけは残ったようです。
最初読んだ時は、この官吏さんには悪いけど、九九くらいマスターしろよという気もしましたが(笑)、現代のように記憶力のよい子供の時から暗記させられる訳ではなく、大人になってから学ぶとしたら、なかなか覚えられないものなのかもしれないですね。
まあそれはともかく、木簡を何度も削って使いながら一生懸命勉強していた様子が伺えるのは微笑ましいですよね。
5度死んだ男 ー 源義親
◆不肖の跡継ぎ
義親は、長兄の義宗が若くして世を去ったため父の嫡子となり、従五位下・対馬守に任ぜられ九州に赴任しました。ここまでは順風満帆だったのですが、康和3年(1101)、大宰大弐・大江匡房により「義親は九州一円で、人民を殺害し公物を横領するなどの悪行を働いている」との告発を受けました。
翌年、朝廷は現地に追捕使を派遣。義家は自分の郎党である藤原資通をこれに同行させ、息子の説得を試みます。が、なんと資道はあっさり義親側に寝返ってしまいました。勢いづいたのか義親らは官吏をも殺害してしまい、隠岐国への配流が決定します。
その後数年間の動向は定かではありませんが(隠岐には行かなかったとも言われている)、やがて出雲に現れた義親はまたもや、目代(国司の現地における代理人)を殺害し官物を奪取するという蛮行を働きます。ついに父の義家が追討を命じられましたが、彼は出陣することなく嘉承元年(1106)に亡くなりました*。
改めて平正盛(清盛の祖父)が追捕使に任命され、兵を率いて出雲へ向かいました。そして天元元年(1108)の1月、出雲到着後13日目に早くも「蜘戸の城にて義親を討ちとりました」との報告が朝廷にもたらされたのです。喜んだ白河法皇は、一行の帰洛を待たずして、当時第一等の国であった但馬守に正盛を任命。やがて義親の首を携え京に凱旋した正盛は、源氏に代わって武家の棟梁の座に就いたのでした。
◆不死身の男?
しかし、この正盛の義親追討の事実を疑問視する見方も少なくありませんでした。正盛はそれまで検非違使などを務めていたものの、たいした武功を挙げたことがなく、剛勇で鳴らした義親を電光石火の早業で討ち取るとは考え難いと囁かれたのです。
正盛が持ち帰った義親の首はカムフラージュで本人は死んでなかったのか、はたまたこの噂を悪用したのか、その後20年以上に渡り義親を名乗る人物が何度も出現し続けました。
・永久5年(1117)義親を称する者が越後に現れる。国司の命で斬首。
・元永元年(1118)常陸に義親を称する者が出没。5年後に捕縛され、京へ送られ処刑。
・大治4年(1129)9月、義親を名乗る者が京に出現。
経緯は不明だが、前関白・藤原忠実の邸に匿われる。
・大治5年(1130)大津にも義親を名乗る者が現れるが、京の義親と闘乱を起こし死亡。
しかし間もなく京の義親も、忠実邸に於いて何者かの襲撃を受け殺された。
岩手・宮城内陸地震ーその時平泉は
河北新報ニュース「東北に深いつめ跡 中尊寺の建物破損」
<岩手>
7月の世界遺産登録を目指す平泉町の中尊寺では、国指定重要文化財の釈尊院五輪塔が一部破損した。本堂前にある表門も激しい振動でゆがみ、材木で支えながら応急工事を行った。
同町の毛越寺では、宝物館の仏像や石灯籠(どうろう)などが転倒したため臨時休館となった。(後略)
リンク先に、材木で補強して支えている中尊寺本堂の表門の様子と、無惨にも横倒しになった境内の灯籠の写真が掲載されています。
ただ、同寺の仏像や金色堂の方には被害はなく、また参拝者の中にもケガをされた人がいなかったというのが、せめてもの幸いでしょうか。
しかし山間部での被害が…。大規模な土砂崩れによって、地震前と一変してしまった風景を見ると絶句しますね…。
被災地の方々には心より御見舞い申し上げます。
一日も早く余震が治まって、安心できる生活に戻ることができますように。
鎌倉公方と関東管領
鎌倉(関東)公方とは、室町幕府が関東統治のために置いた出先機関・鎌倉府の長官のことを指し、関八州に甲斐・伊豆を併せた十ヶ国を管轄する役割を負っていました。足利義詮の弟・基氏を初代とし、その後は彼の子孫が世襲しています。そして鎌倉公方の補佐役である関東管領は、初期を除いて上杉氏が代々就任しました。
◆本来の名称
最初、鎌倉府長官は「関東管領」、補佐役のことは「関東執事」と呼ばれていました。
足利持氏が、自分は京の将軍と同格であるとして「公方」と自称し始め、それに伴って関東執事も「関東管領」に呼び方が昇格?した・・・と言われてます*が、これはあくまで鎌倉方での名称で、幕府で正式に認められたものではありませんでした。しかし足利成氏(持氏の子)の時代になると、現状追認なのか「(関東)公方」の名乗りが許されるようになったようです。
(*=関東公方・関東管領の名称は、初代の基氏の時から既に使われていた説もあります)
いちいち使い分けてもややこしくなるので、この記事では以下「鎌倉公方・関東管領」で統一します。
◆将軍家との対立
康暦元年(1379)、室町幕府の管領・細川頼之が失脚したクーデター「康暦の政変」が起こりました。当時の鎌倉公方だった基氏の息子・氏満は、幕府内のドサクサに紛れて挙兵し将軍・義満を討とうと決意。関東管領の上杉憲春は必死で止めますが氏満は聞かず、ついに憲春は諫死して果てます。衝撃を受けた氏満は企てを断念、将軍に対し野心はない旨の書状を義満に送り、幕府と鎌倉府の衝突は回避されたのでした。
20年後の応永6年(1399)周防の守護大名の大内義弘が幕府に対して大規模な叛乱(応永の乱)を起こしますが、義弘と密かに結託していたのが、氏満の子である満兼でした。この時も関東管領・上杉朝宗に諫止されたものの、満兼はそれを振り切って自ら出陣。しかし途中で義弘の敗死を耳にして、やむなく引き返したのでした。そして永享の乱を引き起こした持氏は、この満兼の嫡男にあたります。
こういう訳で、鎌倉公方と京の将軍家は常に緊張関係にありました。彼らの中には「自分たちも尊氏公の子孫なのに、なぜ将軍家より一段下の地位に甘んじないといけないのか」という思いがあったのでしょう。仮に憲実が持氏の反抗をどうにか抑え込んだとしても、いずれは幕府と鎌倉府の直接対決は避けられなかったと思われます。
悩める関東管領 ー 上杉憲実
◆2人の権力者の間で
憲実は応永17年(1410)生まれ。生家は関東管領を世襲していた山内上杉氏の庶流・越後上杉氏ですが、山内家で跡継ぎが途絶えたために応永25年(1418)鎌倉へ迎えられ、翌年わずか10歳で管領職に就任しました。
当時の関東公方を務めていたのは、憲実よりちょうど一回り年上の足利持氏。彼は非常に野心的で個性の強い人物でしたが、当初は憲実が幼かったこともあってか、別段トラブルもなくやっていたようです。主従の間に波風が立ち始めたのは応永35年(1428)のこと、京の将軍家での出来事がきっかけでした。
この年に前将軍の足利義持が没し、弟の義教が籤引きで選ばれて6代将軍になりますが、持氏はこれに頗る不満を抱きました。
彼は「関東公方家は将軍家と対等である」と認識して将軍への野望を持っており、義持の生前「義持殿の猶子となって上洛したい」と要望していたのです。しかし自分が候補にさえ入らなかったのに腹を立て、兵を率いて上洛しようとしました。結局、憲実の諌止によりどうにか思い止まりましたが、これ以降義教に執拗に反抗を続ける持氏と、幕府との関係を平穏無事にと願う憲実の間には、次第に溝が広がっていく事になります。
その後も持氏は、改元を無視し前の年号を使い続けたり、幕府の分国である信濃守護の小笠原氏と豪族の村上氏の争いに介入を企んだり、嫡男を勝手に「義久」と名付けたり(本来は将軍から名を賜る慣例)などやりたい放題。その度に憲実は持氏を諌め、京へ謝罪の使節を派遣したりと、一貫して鎌倉と幕府との調停に努めました。
関東管領の任命権は将軍にあり、彼にとっては持氏と義教の両人共が忠義を尽すべき主君だったのです。しかし持氏は、永享6年(1434)鶴岡八幡宮に「呪詛怨敵(義教のこと)を払いのけたまえ」と書き付けた血書を奉納したりと、憲実の憂慮にも関わらず幕府との対立を深めていくばかりでした。
肖像画の謎ふたたび
高野山には2種類の信玄像が現存しますが、問題になっているのは成慶院蔵のもの。作者は、能登国出身で安土桃山期に活躍した大物絵師・長谷川等伯。制作年は信玄の晩年である元亀3年(1572)頃と推定されています。
しかし近年「この画像の主は信玄ではない」という説が出て来ました。最初に疑義を呈したのは歴史学者の藤本正行氏。根拠として
などの理由を挙げています。そして研究の結果、本来の像主は能登の守護大名・畠山義続であるという説が発表されました。畠山氏は足利一門で、二引両の使用を許されていたのです。・腰刀の家紋が「武田菱」でなく「二引両」(足利氏の家紋)である。
・信玄は39歳で出家しているのに、剃髪しておらず髷がある姿で描かれている。
・長谷川等伯がこの時期、能登を出国した形跡が伺えない。
・信玄は労咳または癌で死んだとされてるが、その割にふっくらし過ぎで不自然。
この肖像画が信玄像と見なされていたのは、天正4年(1576)武田勝頼が成慶院に送った書状に、信玄の肖像画と遺品を寄進し法要を依頼した内容が記載されていた事が最大の証拠でした。ところが藤本氏の調査によると、後に武田勝信(勝頼の弟・信清の子)が、肖像画と遺品の貸出を成慶院に願い出、その返状に「信玄公御寿像・逍遥軒筆」と注記がついていたというのです。
逍遥軒とは、信玄や信繁の同母弟である武田信廉のこと。画才に優れ、父の信虎や母の大井夫人の肖像を描いていることで知られています。また一説には、高野山持明院に所蔵されている別の信玄の肖像画(上から2番目のもの)も逍遥軒作と言われています。
この記録により、勝頼が成慶院に奉納した信玄肖像画は逍遥軒作であると藤本氏は確信し、絵の行方を調査。結果、世田谷の九品仏浄真寺所蔵の「吉良頼康像」が、実はくだんの信玄像であると結論付けられました。鎧をまとった壮年期の像で、兜の吹き返しに武田菱があり、また脚絆が信玄が愛用したものと似てるのだそうです。

