更新終了のお知らせ
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- ブログ管理関連
突然の告知で申し訳ありませんが、本日をもって当ブログの更新を終了することにしました。
理由は、新しい歴史コンテンツを始めたくなったからです。
約4年間やって来て、更新すればいつも見に来て下さる常連の方もおり、自分自身も愛着があるので、最初はこのブログを全面的にリニューアルすることも考えました。しかしこことは取り上げる時代・内容がかなり異なるものになるため(戦国・幕末はほとんど扱わない予定です)、やはり別個に立ち上げることにしました。
両方を運営していけばいいのでしょうが、自分はそんなに器用じゃないので…。
また最近、こちらの新規記事更新に煮詰まっていたこともあり、一旦終了しようと決心した次第です。
自分勝手な理由なのは重々承知ですが、どうぞご理解賜りますようお願い申し上げます。
ここのブログのログは今後も残しておきます。
ただ管理の方がままならないので、新規コメント・トラックバックの受付は停止させていただきます。
管理人とコンタクトをとりたい場合は、上記メニューのメールフォームからご連絡下さい。
ブログ拍手も一応置いておきますが、こちらは暫定的なもので、もしかしたらいずれ取り外すかもしれません…。
当ブログをリンクして頂いてるサイト・ブログ様は、「もう更新しないブログは不用だ」と思われるようでしたら、遠慮なくリンク解除して下さっても結構です。
また、普段よりお世話になってる方々のところへは、後日当方より挨拶にお伺いします。
(ここには書きにくいこともありますので…)
拙い内容のブログにも関わらず、訪問して頂いた皆様には心より多大な感謝をしております。
もしご縁がありましたら、またどこかでお会いできれば幸いです。今までどうもありがとうございました。
平成21年7月6日付 影千代
上杉謙信の養子たち(2)〜その他の人々
◆謎多き人物・上条政繁(生没年不詳)
正確な生年は不詳ですが、景勝・景虎よりはやや(10歳くらい?)年長だったようです。
政繁は能登守護の畠山氏出身の人物で、人質として越後に来て謙信の養子となり、上杉氏の一門である上条(じょうじょう)家を継いで、謙信の姪(景勝の姉妹/景虎に嫁いだ女性とは別人)を娶りました(*1)。後に出家して宜順と号しています。
・・・というのが彼の経歴の定説ですが、越後に来た経緯や謙信の養子になった時期については諸説あり、中には政繁の謙信養子説を疑問視する見方もあるようです。また彼は、近年まで後述の畠山義春と同一人物とされていた(政繁が改名し義春と名乗ったと思われていた)ため、政繁自身の事蹟がわかりにくくなっている部分もあるのです。
天正3年(1575)の上杉家臣団の構成を記した「御軍役帳」では、景勝・山浦国清(後述)・上杉景信(古志長尾家当主)に継いで、政繁は第四位に名を連ねており(景虎は記載無し)、一門中で重く見られていた事がわかります。
天正6年に起こった御館の乱では、景勝方に味方し武功を挙げました。乱後も景勝の重臣として仕えましたが、天正14年(1586)7月に突如、妻子を置いて単身出奔してしまいました。理由については、信濃国の統治を巡って景勝と対立したとも、景勝側近として台頭してきた直江兼続との間に軋轢が生じた結果とも言われています。
その後政繁は上方に出て秀吉に仕えたと伝えられていますが、これ以降の記録は前述の通り畠山義春と混同されている可能性が高いため、政繁がいつまで活動・存命していたかははっきりわかっていません。
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伝説の軍師の実像
山梨日日新聞「「山本菅助」への信玄書状を発見」
戦国時代の武将武田信玄(晴信)に仕えた「軍師・山本勘助」が実在したか注目される中、信玄が家臣山本菅助にあてた書状が、群馬県安中市の民家で見つかった。山梨県立博物館の調査によると、信玄が菅助に褒美を与えたり、家臣の見舞いを命じた内容の2通で、信玄の花押(署名)が入り、「山本菅助」と記されていた。これまで菅助の存在を示す史料は1969年に北海道で見つかった、信玄が奥信濃の市河氏にあてた書状「市河文書」だけだった。県立博物館は「『山本菅助』という名の人物がいたことは間違いなく、菅助の人物像や功績などを研究する上で貴重な史料」としている。
名前の字が異なる「山本勘助」は、江戸時代の軍事書「甲陽軍鑑」などに有能な軍師として登場するが、実在を裏付ける学術的な史料はなく、一家臣としての菅助の存在を示す唯一の史料が市河文書だった。今回見つかった文書には市河文書と同じ「菅助」の名が記され、紙の材質や文書の書式などからも信玄が活躍した16世紀後半のものでほぼ間違いないという。
新たに見つかった文書を所蔵していたのは、安中市原市在住の真下(ましも)正貴さん。昨年5月、蔵の整理中に「信玄公御證文」と書かれた漆塗りの木箱を発見。中には5通の文書が年代順に張られた巻物1本が入っていた。
このうち信玄が菅助にあてた書状は2通。業績を褒め恩賞を与える内容と、重篤な状態にある家臣「小山田(出羽守信有)」の見舞いを命じる内容で、1通は「菅介」の字が使われていた。
武田家が菅助あてに出した朱印状1通では、菅助に足りない武具の支度を指示するなど、信玄が家臣として信頼していた様子がうかがえる。
残る2通は、武田家が菅助の後継者といわれる「山本十左衛門尉」に軍役を命じた朱印状と、徳川家康の次男「結城秀康」が菅助の子孫と思われる「山本平一」にあてた見舞いの礼状だった。この2通からは菅助の子孫の存在も明確になった。
調査を担当した県立博物館学芸員の海老沼真治さんは「菅助は上野国(現群馬県)から東信濃の動静に精通しており、高崎藩士の中に山本菅助の子孫を名乗る人物がいたことなどから、菅助と群馬は深く関係していたと考えられる。多くの研究者の意見を聞きながら、1通ごとに史実と照らし合わせてより詳しく研究したい」と話している。(後略)
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大河ドラマ『竜馬がゆく』『花神』
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<あらすじ>
第16話:
吉村寅太郎(轟謙二)から、「薩摩の島津公が上洛し倒幕に乗り出すらしい」との情報を聞いた坂本竜馬(北大路欣也)は、あくまで土佐藩挙げての勤王にこだわる武市半平太(高橋英樹)に見切りをつけ、脱藩して天下の為に行動する事を決意する。姉の乙女(水谷良重)、栄(八木昌子)の理解と後押しを得た竜馬は、沢村惣之丞(北村総一郎)と共に嶮しい四国山脈を越え、新たな道へ踏み出したのだった。
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<あらすじ>
第19話「上海みやげ」
藩命により上海へ渡航した高杉晋作(中村雅俊)は、清国が欧米列強の植民地と化している実態を目の当たりにする。外国と対等に渡り合える日本を作ろうと、改めて幕藩体制の打倒を誓いつつ高杉は帰国。折しも長州藩内では桂小五郎(米倉斉加年)の説得により、藩論は攘夷の方針へと転換していた。
一方、村田蔵六(中村梅之助)は横浜で井上聞多(東野英心)と出会う。井上が訪れた遊郭の一室には高杉や久坂玄瑞(志垣太郎)らが集合し、ある大胆な計画を企んでいた。
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上杉謙信の養子たち(1)〜北条から来た男
上杉景虎は、相模の虎と呼ばれた名将・北条氏康の七男(一説に八男)。正確な生年は判明してませんが、一般的な書籍等では天文23年(1554)生という記載がよく見られます。もしこの説が正しければ、後にライバルとなる上杉景勝より一つ年上ということになります。
彼の幼少期については、「箱根早雲寺で喝食を勤め、その後北条氏が三国同盟を結んでいた武田信玄の養子となり三郎と称するも、同盟の破綻によって北条に戻った」ーーという話が従来は有名でした。
しかし当の武田側の同時代史料に、三郎が信玄の養子となった話が全く記されていないという事実が、長塚孝氏や黒田基樹氏の研究で明らかにされました。そのため最近ではこの説に否定的な見解も多く、少年時代のことははっきりわかっていません。
確実と思われる記録上に三郎が登場するのは、永禄12年(1569)末に一族の北条幻庵の養子となった時のことです。幻庵は氏康の叔父にあたり、北条氏の長老的存在でした。二人の息子が武田との合戦で討死してしまったので、三郎を婿養子に迎え入れて後継者と定めたのです。
ところがそれから半年も経たない翌年の4月、三郎の姿は相模から遠く離れた越後春日山城にありました。
武田との同盟を破棄した氏康は、越後の上杉謙信と結んで信玄に対抗する手段を取りました。そして同盟の証に、実子のいない謙信の養子として北条方から三郎が送り込まれることに決定したのです。
当初は、三郎の長兄である氏政の次男・国増丸(後の太田源五郎)が候補に挙っていましたが、「幼子を手放すのは忍びない」との氏政の懇願により、三郎に変更されたと言われています。近年の櫻井真理子氏の研究では、もし北条が武田から攻め込まれた時に、幼い国増丸よりもある程度の年齢に達している者の方が謙信への援軍依頼が取り次げるとして、三郎に白羽の矢が立ったのではという見方もあります。
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飛鳥時代の天文学
asahi.com「日本の天文観測、推古朝から 国立天文台が日本書紀分析」
日本での継続的な天文観測は推古朝(飛鳥時代前半)の7世紀初頭に始まっていたとする研究結果を、国立天文台のチームが日本書紀の分析からまとめた。日食などの観測が必要となる暦づくりは皇帝の独占事業で、中国は影響下にあった周辺国に禁止していた。日本に律令制が芽生えたのは680年ごろとされるが、その半世紀以上前から、独自の暦づくりへ、布石を打とうとしていた可能性があるという。
天文台の谷川清隆特別客員研究員らは日本書紀に記録がある日食、月食、彗星(すいせい)、月が星を隠す現象などについて中国の記録と比較した。
その結果、620年にオーロラが記録されたのが最初でそれ以前には天文記録がないこと、620年以降には、日本でしか観測できない現象が2件、中国でも観測可能だが中国には記録のないものが1件あった。また、同年以降、中国と日本の両方で観測された彗星が5個あるが、記述の作法が違い、中国の記録の引き写しではなく、日本独自の観測の可能性が高いという。
昼間に突然暗くなる皆既日食は誰でも気づくが、部分日食やオーロラなどは、観測の知識と技術がある専門家が空をずっと監視していないと記録できない。そのため、620年ごろから継続的な天文観測が始まったと結論づけた。
古代、中国と主従関係を結んだ周辺国は、貢ぎ物を贈り(朝貢)、中国の暦を使う義務があった。5世紀の日本が倭(わ)国王として朝貢していた記録が中国にある。だが、607年に派遣された遣隋使は「日出づる処の天子」で始まる対等な国家とも取れる国書を持参したとされる。
谷川さんは「国書を独立宣言と解釈すれば、暦づくりのために独自の天文観測が必要になったのではないか」と話している。
律令体制下では、天文や占いをつかさどる役所「陰陽寮」が置かれ、専門職の天文博士、暦博士が天文観測と暦づくりを担当するようになった。(鍛治信太郎)
7世紀初頭から既に本格的な天体観測が実施されていたのもさることながら、日本でオーロラが観測可能という事に驚かされました。北海道ならまだわかりますが、畿内で見られるなんてちょっと想像がつきません。
ところが記録を紐解いてみると、実は何度かオーロラの出現が記されているようです。18世紀後半には長崎で目撃された記録が残っており、さらに昭和33年(1958)には関東や中部など広範囲で発生したことがあったそうですから、こちらは覚えている人がいるかもしれませんね。
ただ日本で観測可能なのは、暗赤色の「低緯度オーロラ」というもので、アラスカなどで見られるカーテン状に広がり緑色に光るオーロラとは異なるそうです。
天文学というと暦の作成に必須な訳ですが、推古朝より約半世紀後の斉明6年(660)には中大兄皇子により日本初の漏刻(水時計)が、天武4年(675)には占星台と呼ばれた日本最古の天文台が造られています。国内独自の天文観測を続けてきた成果なのかもしれませんね。そして占星台造営の翌年には、占筮・占星・漏刻を管轄する公的機関として陰陽寮が設立されました。
にも関わらず、正式な暦は中国から輸入したものが長きに渡って使い続けられていたのです。日本人の手により編纂された暦が用いられるのは実に一千年の後、貞享元年(1684)渋川春海が作成した「貞享暦」が採用されるのを待たなくてはならなかったのでした。
*参考サイト=・日本でも赤いオーロラが見られた!(NAOニュース)
・ジオ・クリエイション 日本から見られるオーロラ
*関連記事=かに星雲と藤原定家
大河ドラマ『天地人』第9回「謙信の死」
オープニングで「一度も戦に負けたことのない、まさに軍神」とか何とか謙信を称讃してましたけど、天地人での謙信は初回で丸太をぶった切った勇姿?以降は、その並外れた強さとやらをついぞ見せてはくれませんでしたね。はっきり言って、ハリボテ丸出しの洞窟毘沙門堂に籠って琵琶弾いていた印象しかありません(笑)。
それと謙信さまは何かといえば「義・義・義」を連呼していましたが、その割に義とは何ぞやというのが具体的に語られなかった気がします。「人が人であることの美しさ」とか言われても、抽象的すぎてちっとも心に響いてきませんでした。
そんな、さっぱり魅力が伝わりきらないままだった謙信が、今回でとうとうお亡くなりになりました。ご臨終シーン、阿部ちゃんは熱演していたと思いますが、最後まで「ぎ・・ぎ・・・」と呻いて昇天していったのは何だかなあ(泣)。
しかしもっと頂けなかったのは、直江景綱未亡人・妙椿尼の振舞いです。
景綱未亡人が「謙信から『跡継ぎは景勝』と遺言を承った」と主張した話は、実際記録に残ってるらしいんですね。しかしその理由が、家臣間の対立を鎮めるためつい口走ったという設定には呆れました。激しい言い争いを見兼ねたとはいえ、お家の後継者決定という超重要事項が、彼女の「出来心の嘘」から決定してしまうなんて情けなさ過ぎます。
史実通りやれとは言いませんが、もっと説得力のある展開にして欲しいです…。
おまけにその後、お船が母親を庇うため「亡き父は常々、上杉の跡取りは景勝様にすべきと話していました」と仙桃院に訴えてましたが、景綱が景勝に肩入れしていた描写なんて今まで全くなかったような…??
このドラマって、北斗七星などのエピソードはしつこいくらい繰り返すのに、こういう伏線を張るという事をしないですよね。後から思いついたアイデアをその都度盛り込んで、台詞で状況説明させて済ましているだけに感じられてなりません。
そして女三人で嘘をつき通すことに決めたのはともかく、なぜ真相を唯一打ち明ける人物が、よりによって兼ちゃんなのだろう。家族なのだし、お船の夫・直江信綱に相談するのが普通じゃないんでしょうか。彼は上杉家の重臣でもあるというのにさ。お船ちゃんは結婚後もなんだかんだと兼続と顔を合わせてるし、結局婿のことはどーでもいいのかしら。
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大河ドラマ『源義経』
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<あらすじ>
・第1話「鞍馬の火祭」
鞍馬寺に預けられている源義朝の遺児・牛若(尾上菊之助)の所に、源氏の残党である正門坊こと鎌田正近(土方弘)らが訪ねて来るが、牛若は彼らの嘘を見破り追い返す。一行に騙されてついて来ていた喜三太(常田富士男)は、家来にして欲しいと牛若に頼むが断られる。
一方で商人の金売り吉次(加東大介)は、牛若を奥州の藤原秀衡のもとへ連れて行こうと企むが・・・。
・第33話「壇ノ浦」
義経は源氏の指揮官として数々の戦いに勝利し平氏を追いつめ、長門国壇ノ浦でついに最後の決戦を迎える。開戦後しばらくは平知盛(市村竹之丞)率いる平氏方が優位に戦いを進めるが、やがて潮の流れが反転すると形勢は一変。敗北を悟った平氏一門は次々と海中へ身を投じ、義経はついに打倒平氏という長年の宿願を果たす。
・第52話(最終話)「雲のゆくえ」
藤原泰衡(片山明彦)が自分を討とうとしている事を知った義経は、郎党たちと最後の宴を開いた。攻め寄せて来た藤原氏の大軍を相手に、武蔵坊弁慶(緒形拳)らは鬼神の如く奮戦するが、やがて皆力つきて斃れていき、義経も持仏堂に籠り妻子と共に自害を遂げる。
数ヶ月後、源頼朝(芥川比呂志)が奥州征伐へ出陣。敗れた泰衡は火を放って逃亡し、平泉の都は灰燼に帰した。そして義経の最期の地を訪れた頼朝は・・・。
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TV『その時歴史が動いた〜保元・平治の乱』
今からおよそ850年前の平安末期、京都でふたつの大きな戦乱が繰り広げられた。「保元・平治の乱」である。この戦いは「武士」の地位を大きく押し上げ、こののち600年余り続く武家政権の原点となった。この嵐の中心にいたのが、武士の名門「源氏」の当主源 義朝(みなもとのよしとも)である。
貴族の世の京都。武士は、貴族に都合よく使われる使用人のような立場だった。関東の実力主義のなかで育った義朝は、「保元の乱」でいちばんの戦功をあげ、自軍の勝利に貢献する。しかし武士の立場を低く見る貴族の態度は変わらない。義朝は武士の境遇を変えようと「平治の乱」を起こし有力貴族を倒すことに成功するが、そこには思わぬ落とし穴があった−。
己の境遇と闘い、武士を歴史の表舞台に押し上げるため邁進した源義朝の戦いに迫る。
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大河ドラマ『天地人』第4回「年上の女」

ほとんどラブコメと化しているのは今のうちだけ・・・と信じたいのでそこは我慢するとして、景勝の描き方がどうもなあ〜。大人になってから、ひたすら恋に思い詰めてキョドってる姿ばかりで、いい所なしじゃん。景虎と対比させる意図があるのだろうとはいえ、あまりにもパッとしなさ過ぎじゃないの?口数は少ないけど、繊細で利発なあの喜平次はどこにいったんだ!と問い詰めたい。
先週のラスト、いよいよ殿(景勝)の初陣だーって所で終わったから、春日山城で留守居の兼続同様こちらも期待を膨らませてたのに、結果はナレーションで済まされてしまっててガックリ。別に大規模な戦闘シーンはやらなくてもいいけど、奮闘して初陣を飾った勇姿を少しでも見せて欲しかったです。
謙信も何だかすっかり、マイホームパパ状態ですよねえ。
今回最後の方で、兼続が「信長への使者に自分も加えて下さい」と
毎週出てくる必然性がいまいちわからない織田家ですが、それでも吉川信長にはまだかろうじて戦国の雰囲気が感じられて、いまや心の拠り所状態?です(^^;
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